姫の涙 後編
「……ちゃんと終わったとナミに報告しなくてはね。あなた達も、二人きりにしてくれてありがとう」
赤くなった目元を隠しながら、お付き達に礼を言うオト姫。
二人はやんわり首を振ると、傷心のオト姫を誘導する。
「姫様、まずはこちらに。お顔を洗いましょう」
「御髪も乱れております。部屋に戻って整えませんと、ナミ姫様に心配をおかけしますよ」
「それもそうね。気付かなかったわ」
重い足取りで自室を目指すオト姫が次に考えたのは、青龍のことだった。
聡いナミ姫が間違えたとは思えないから、青龍には本当に想い人がいるはずだ。
……しかし、オト姫から逃げ回る青龍の態度は、想い人と向き合っているとは到底思えない。
もしかしたら、それが青龍を苛立たせる原因なのかもしれないと。
一瞬でもタロウと想いが通じ合ったオト姫は、悲しみは消えないものの、心は凪のように穏やかでいられるのだから。
──そんな風につらつら考えていたら、丁字になった通路をナミ姫が駆け抜けて行く。
「ナミ?」
いつも淑やかな妹が廊下を走るのも珍しいが、横切るナミ姫の顔が涙で濡れているのを、オト姫は確かに目撃した。
「姫様!?」
妹が泣いているのに追わない道理はない。
困惑するお付きを振り切って、オト姫は駆け出した。
ナミ姫の蛇腹の移動速度は並ではないが、幸い行き先には心当たりがある。
「やっぱりここだったのね」
竜宮城の中庭、特別な珊瑚が立ち並ぶ一画は昔から妹のお気に入りの場所だ。
ナミ姫は珊瑚の隙間の白い玉砂利に突っ伏して、声もなく泣いていた……。
「どうして泣いているか教えて。今度はわたくしがナミの力になりたいの」
オト姫はまっすぐな黒髪を撫で、辛抱強く返事を待つ。
ようやく上体をあげたナミ姫の瞳は、涙と絶望に染まっていた。
「……突然、お母様から大切な話があると呼び出されて、地龍様との婚約を薦められたわ」
「はぁ!? あり得ないわ。地龍様ってナミをフッたくせに、鱗を見たら即手のひら返したくっ、相手でしょう。お母様は何を考えているのよ!」
屑と言いかけてかろうじて飲みこんだのは、仮にも地龍がミズチの兄だからである。
「わたしも知らなかったのだけど、破談になってすぐに地龍様の謝罪と再求婚の申し込みが届いていたそうなの。それは激怒したお父様が突っぱねてくださった。……でも最近の地龍様は、傲慢さが消えてより良い皇帝になったと評判らしくて」
皮肉なことに、兄を正そうとしたミズチの努力が裏目に出てしまった。
改心した地龍なら嫁いでも問題ない、もう許してやったらどうかと母に告げられ、ナミ姫は部屋を飛び出してきたのだという。
「お母様は末の公子を婿に迎えるよりも、皇帝に嫁ぐ方がメリットが大きいと判断された。……わたしは竜宮の姫として、より国のためになる選択をしなくてはいけない」
でも、とナミ姫は泣き崩れる。
「やっと、わたしを見てくれる方に出会ったのに! ……諦めたくない……ミズチ殿が好きなのよ……」
ナミ姫の気持ちは痛いほどよくわかった。
オト姫は衝動のままに妹を抱き寄せ、タロウがしてくれたように背中を優しく叩く。
「ごめんなさい、お姉様……。ごめんなさい。お姉様を差しおいて一人だけ幸せになろうとしたから、罰が当たったのだわ!」
「それは違うわ。鈍いわたくしのために、ナミはきっかけを作ってくれた。もしあのままタロウから逃げていたら、わたくしはずっと消えない後悔に苦しんだと思う。本当にナミには感謝しているの」
思いつめたナミ姫に、オト姫は本心で語りかける。
「それにね、幸せになることのなにが悪いのよ。ナミがわたくしの幸せを考えてくれたように、わたくしだってナミに幸せになってほしいわ」
いつだってオト姫の話を聞いてくれたナミ姫。
姉妹でお茶を飲むひと時は、オト姫にとってかけがえのない時間だった。
────青龍との話し合いを勧めてくれたのもナミだったわね。
思い出したと同時にオト姫は閃く。
“愛だの恋だの生ぬるいことを言って義務を放棄するくらいなら竜宮から出て行け!!”
怒れる青龍の言葉は、核心を突いていたのだ。
「大好きなナミ。例え海と地上で離れ離れになっても、お互い絶対に幸せになりましょう。──わたくしとミズチ殿を信じてね。約束よ」
オト姫は笑顔の下に決意を隠し、ナミ姫が落ち着くまで慰めた。
ナミ姫を部屋に送り届けた後、オト姫は一人タロウの元に引き返す。
「お願いタロウ。わたくしを連れて逃げて。皆が幸せになるために、わたくしは竜宮にいてはいけないの」
後ろ向きなことを言っているのに晴れやかな笑顔で、オト姫は一度諦めたタロウを熱心に口説く。
「わたくしがいなければ、竜宮の跡継ぎはナミだけ。すでに皇帝の地位にいる地龍様に嫁ぐことはなくなるわ。
ナミはね、大国の皇帝に嫁いでも問題ないほど政治能力が高いの。わたくしよりも良い為政者になるはずよ」
優しいナミ姫はオト姫の出奔を気に病むだろう。
ミズチの重圧になるまいと縁談を白紙に戻そうとするかもしれない。
でも、オト姫は会ったこともないミズチを信じていた。
ナミ姫の髪に大切に飾られたミズチの角は、小さいながらまっすぐで水晶のように澄んでいる。
角は龍の象徴、謝罪のために自ら角を折る潔さもあり、ミズチならその誠実さでナミ姫を支えてくれると確信したのだ。
「わたくしが跡継ぎから外れれば、海亀族の暴走は収まる。謙虚さを取り戻せたら、大昔にタロウの先祖を助けた優しさを思い出してくれるかもしれない。
ひねくれた青龍だって、想い人と向き合う良いきっかけになるわ。
何より、わたくしは心から愛するあなたと結ばれたいの」
現実はおとぎ話ではない。
皆が幸せになると言いながら、傷つくことは避けられないと本当はわかっている。
オト姫の身勝手な行動のせいで竜宮は混乱するだろうとも。
それでも、オト姫はタロウと生きると決めた。
オト姫の揺るぎない意志は、頑ななタロウの心を変える。
「あなたの覚悟に応えます。オラはなんもねぇ職人ですだが、残りの人生全てをオト姫様に捧げさせてくだせぇ。────ずっと言えなかったけんど、あなたを愛しているんです」
「タロウ、わたくしも同じ気持ちよ」
こうしてオト姫は、全てを捨てて身分違いの恋を選んだのだ。
駆け落ちの計画は、まずリハビリを終えたタロウを地上に帰還させ、次に数日が経って皆が油断した隙にオト姫も出奔しようというもの。
初めて出会った砂浜で再会を約束して、二人は束の間別れを告げた。
そしてある夜、オト姫は計画を実行する。
ナミ姫や両親、支えてくれた友人たちやお付き、一応青龍、それぞれに宛てた手紙を残し、身一つで自室を抜け出すオト姫。
「こんな夜更けにどこに行きますの?」
「……お母様!?」
……しかし、オト姫をより艶美にした美女、母のユウ妃に呼び止められてしまった。
ユウ妃は距離を詰めると、蛇身を伸ばして娘を見下ろす。
愛情深くも厳しい母の威圧にオト姫は内心冷や汗が止まらない。
「あなたの考えていることなんて、お見通しですのよ?」
「……それでもわたくしは出て行くわ。お母様、止めないでちょうだい」
キッと睨みつけるオト姫に、ユウ妃は手をかざす。
「これをお持ちなさい。わらわが母から受け継いだものです。美しい花嫁衣装に、飾りがないのは淋しいでしょう?」
「えっ!?」
思わず身構えたオト姫に差し出されたのは、花を模した白蝶貝と銀細工の簪だ。
呆気にとられる娘の髪に簪を挿すと、ユウ妃は儚げに微笑む。
「あなた達を試すような真似をしてごめんなさい。……実は地龍様は、求婚の申し込みだけはすぐに撤回されたのですよ?」
その台詞に、何もかも母の手の内だったのだとオト姫は悟る。
タイミングの良さからして、きっと姉妹のお付き達も協力者だ。
「あなたは気丈に見えてとても繊細な子。妃の務めは荷が重いと、わらわは常々思っておりました」
「不出来な娘でごめんなさい……」
「そんな顔をしてはいけません。話は最後まで聞くものです」
叱っているようでユウ妃の声はどこまでも優しく、強張るオト姫の体を抱き寄せた。
「姫らしからぬとはいえ、他者を思いやり行動に移せるあなたを、母としては誇りに思います。彼の元でなら、あなたらしく自由に生きられるはずです。────娘の幸せを祈らない親なんていませんの」
「ありがとうお母様、今までお世話になりました。ナミをお願いね……」
オト姫は泣いて、母も泣いていた。
けれどユウ妃は娘の背中を押す。
「さようなら、オト。もうお行きなさい。タロウ殿が待っています」
「はい、お元気で……さようなら」
名残惜しくても、もう後ろは振り返らない。
────母と、生まれ育った竜宮に決別したこの日から、オト姫はただの“オト”になった。