姫の涙 前編
倒れたオト姫に医者が下した診断は、過度の心労による過労だった。
自室での休養を言い渡されてオト姫は悶々と思い悩む。
上に立つ者としてあるまじきことだが、オト姫は人を使うのが苦手だ。
海亀族の苦情処理も含めて、山ほどある仕事の采配が上手くいかず、自ら動くことも多かった。
オト姫は能力不足を痛感する。
倒れたのはただタイミングが悪かっただけ、青龍やタロウの衝撃は呼び水に過ぎない。
……不甲斐ない後継ぎ、期待はずれな娘だとお母様はさぞやお嘆きでしょうね。
寝台に横たわっているのに、疲労は癒えるどころかいや増すばかりである。
「姫様。ナミ姫様がお見舞いにいらっしゃってますが……」
「通していいわ。二人きりで話をさせてくれる?」
冷静になれば、タロウは誰かと比較して一方を貶めるような人じゃないとオト姫はわかっていた。
ナミ姫が絶世の美女という肩書きに振り回されていることも。
刻まれた劣等感は消えてくれないが、妹を拒む理由にはならない。
オト姫は上体を起こしてナミ姫を迎え入れた。
「お姉様、具合はどうかしら? これはお見舞いよ。お姉様の好きな地上のお菓子」
「ありがとう。嬉しいわ」
海中では珍しい、木の実をたっぷり使った菓子に自然と口元がほころぶ。
しかし、菓子を受け取ったオト姫の手を、ナミ姫は包みこむように握ってきた。
「ナミ? どうしたの?」
「病気一つしたことのないお姉様が倒れたのよ? すごく心配したんだから……」
倒れた状況を人づてに聞いたのだという、ナミ姫の顔色は紙のように白かった。
「鬼の撹乱かと思った? 安心して、わたくしは頑丈が取り柄なのよ。すぐに良くなるわ」
妹を元気付けようと、オト姫はことさら明るく振る舞う。
「でも、たまった仕事が怖いわね。また倒れちゃうかも。──タロウを見舞う時間を減らそうかしら」
「それはダメよっ!!」
思わぬ大声にドキリとする。
ナミ姫は見透かすように、薄青の瞳でオト姫を見つめた。
「大声出してごめんなさい。でもお姉様、逃げちゃダメなの。一度タロウ殿を避けたら、気まずさからずっと避け続けてしまうわ。そう、青龍様のように」
「説得力あるわね……」
ナミ姫の手に力がこもる。
手のひらの熱で、菓子にかけられた砂糖が溶けてしまいそうだ……。
「────今だから言うけどね、地上の縁談に目を向けるきっかけは、お姉様のためもあったの。青龍様でなくても、海以外の河川や湖にだって水龍はいる。
差し出がましいとは思ったけど、森の奥の泉や山奥の水源に隠れている龍の中に、わたし達を比べない紳士な方もいるかもしれない。探して海に来てもらおうと、ひそかに企んでいたわ。
……でもね、ミズチ殿にそれは無理だと言われたの」
ナミ姫の想い人、ミズチによると隠れた地でひっそり暮らす龍は、何らかの理由で番いに先立たれた者ばかりだという。
亡くした伴侶を偲ぶ龍が、他に目を向けることなどあり得ない。
「お姉様には幸せになってほしい。でも、幸せは他者が決めるものではないのよね……。なにもできないけど、わたし、お姉様に後悔はしてほしくない……」
なぜタロウのことであんなに心が乱れたのか、ナミ姫が何を案じていたか、この時のオト姫にはわからなかった。
それでも姉として妹の手を強く握りかえす。
「元気になったら、ちゃんとタロウに会いに行くわ。……だからナミ、そんな顔をしないで」
うつむいたナミ姫は今にも泣きそうだった……。
数日後。
医者に全快の太鼓判をもらったオト姫は、緊張した面持ちでタロウと向かい合う。
「見舞ぇにも行けねぇで申し訳ねぇです。無事に回復されたようで、安心しますた」
胸をなでおろすタロウだが……目の下には隈ができ、頬は痩けて顔色も悪い。
これではどちらが病人かわからなかった。
「……わたくしよりもタロウの方が重病そうよ」
「ちょっと寝てねぇだけですだよ。オト姫様の元気な姿を見たら、力が湧いてきますた」
直球なタロウの言葉に、オト姫は動揺を隠せない。
「……これを素で言うのだもの……」
「どうかしますたか?」
「いえ、何でもないの! そういえば、わたくしが倒れる前にナミと会っていたそうね?」
何気なくを装ってオト姫は本題を投げかける。
縋るような眼差しを向けられて、タロウはあっけらかんと答えた。
「ああ、こねぇだの。そうなんですだよ。オト姫様に聞いてた通り、姉思いの優しい妹様ですた」
裏のない笑顔にオト姫が安堵を覚えて緊張が解けた瞬間、急に真顔になったタロウがうやうやしくなにかを差し出してくる。
「これは反物? なんて綺麗なのかしら」
不意を突かれたオト姫は、反射的に受け取った反物のあまりの美しさにため息をこぼす。
「手持ちじゃどうしても足りねぇ材料があったもんで、ナミ姫様が取り寄せてくれたんですだ。オト姫様、どうかお納めくだせぇ」
「まばゆい白に目がくらみそうだわ……」
これまでの献上品とは手触りからして違う。
生地を広げた瞬間飛びこんできたのは、朝日を浴びた雪原のようにきらめく純白だった。
角度によって浮き出てくる亀甲紋様の枠の中には、意匠化された海草や珊瑚、貝にヒトデに魚といった海の風景が閉じこめられており、アクセントに入った銀糸は波のゆらめきを表現している。
「僭越ながら、紋様のパターンはオト姫様の甲羅の模様を参考にさせてもらいますた。
縫製すたあとに小粒の真珠や薄く削った白蝶貝をちりばめると、もっとよくなると思いますだ。
もてる限りの技術を駆使すたオラの最高傑作。どうぞこれでオト姫様の花嫁衣装を仕立ててくだせぇ」
「わたくしのために……ありがとう、タロウ」
まだ見ぬ花嫁衣装に夢が膨らむ。
タロウの言うとおりに仕上げれば、きっと想像もできないくらい美しくなる。
装飾品は白で揃えて、銀の簪をあわせても映えるはずだ。
────だけど、どれだけ着飾っても隣に立つのは、夫となるのは青龍。タロウではないのね……。
真珠の涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちる。
突きつけられた現実、ようやく自覚した恋心に胸が軋んだ。
次から次にあふれる涙は、反物の表面で泡のようにはじけ散る。
「オト姫様!? どうしますた!!」
「ごめんなさい。嬉しいはずなのに、悲しいの……。タロウがせっかく作ってくれた反物を汚してしまったわ……」
「そんなのはどうでもいいんです。あなたが泣いていることの方が重要だ!」
その優しさがとどめとなり、オト姫はタロウの胸に飛びこんだ。
タロウは仰天したが、泣きじゃくるオト姫を突き放すことなんてできない。
「────姫様。少しの間だけですよ?」
「きちんとけじめをつけてくださいませ」
……悲痛なオト姫の姿を哀れんだのか、お付き達は部屋から退出すると、扉を閉めて二人きりにしてくれた。
「泣かないでくだせぇ。オト姫様にはいつも笑っていてほしいんです」
どうしたらいいか迷った末に、タロウはオト姫の甲羅を優しく叩いて慰める。
「青龍のための花嫁衣装なんて着たくない。……わたくしが好きなのは、タロウ、あなたなのよ!」
なぜナミ姫が浮かない表情をしていたのか、今ならわかる。
オト姫の無自覚な恋心に気付いていたのだ。
許されない禁断の恋だから応援は出来なくても、姉思いのナミ姫はオト姫が後悔しないように促してくれた……。
「……オラ達は生きる速度が違ぇますだ。オラではオト姫様を幸せにできねぇ。あなたより早く老いて、死んじまうから。青龍様なら淋しい思いはさせねぇはずです」
「冷えきった関係の青龍と生きる千年に何の意味があるの? タロウと過ごした、一年にも満たない日々の方が、わたくしには幸せだった……」
タロウはこみ上げる感情を押し殺すように、ぐっと唇を噛みしめ──笑顔を作った。
「その気持ちだけで充分ですだ。こんなオラを想ってくれて、ありがとうごぜぇます」
悲しみがさざ波のように押し寄せる。
オト姫はタロウの胸の中で、涙が枯れるまで泣き続けた……。




