悪夢、顕現す!
そこは、例えるなら巨大な生き物の胃袋の中のようだった。
休むことなくうねり続ける空間に、私たちは取り囲まれていた。
とは言っても、漆黒の空間はかなり広く、巨大な竜の姿をしたドゥヴォルと戦った魔王城の謁見の間よりも広いかもしれない。
光源がないのに視界が確保されているのは夢の不思議か。
真上に開いた黒い渦の中から、ただならぬ気配が迫ってくるのを感じる。
だというのに――不安定な足場に驚いているグレンが、横から私にしがみついてくる。
「ちょっと! アンタ邪魔よ!」
私はグレンに怒鳴りつけたが、ソプラノの声に威嚇の力はない。
「ロウラ、なんだよあれ!」
真上に広がり蠢く黒い渦に、グレンが叫ぶ。
「ロウラ様!」
私は呼び方を強調してから、
「あんたが見てる、悪い夢よ! 私たちがやっつけてあげるから、大人しくしてなさい!」
そう言っているのにも関わらず、グレンは変わらず私にしがみついてくる。
正直まんざらでもない気分だったが、状況が状況だ。
やめてほしい。
「来ますわ!」
リリィが身構える。
闇に空いた渦の向こうから、さらなる闇の塊が顔を覗かせた。
黒い濃霧と共に姿を現したそれは、筋骨隆々な黒い馬によく似ていた。
だが、その身は黒い炎のように燃え上がっている。
身にまとう重圧感が、世界そのものを染めている。
ゆっくりと宙を走る馬の姿は中核でしかなく、本体は周囲に広がる闇そのものだと私は直感した。
「「なんだ貴様らは?」」
私の頭に、重たい思念が響いた。
肉声ではない。念話と呼ぶべきもの。
「魔王よ!」
私は叫んだ。
「サキュバス!」
リリィも続く。
「「魔王と、その配下だと?」」
悪夢は表情の無い貌で嗤った。
「「現世に生きる者が、この世界に何の用だ? 我の糧となりに来たか?」」
私たちを取り囲んでいた黒い空間が、ゆっくりと流れ始める。
それはまるで大河の流れ。
数える間もなく加速し、私たちを飲み込もうとしているように思えた。
「!……魔王様!」
リリィが何かの魔法を使おうとするが、生み出した紫色の光は黒い濁流に飲み込まれる。
「うわぁあ!!」
私の身体から引き剥がされたグレンが悲鳴を上げた。
男の子なのに、情けない……!
闇色の濁流が激しくうねる中、私は全身から魔力を放出した。
悪夢の空間は予期せぬ風に流され、視界が開けた。
周囲に広がるのは煌めく星々。
悪夢の体から噴き出る濃霧は生まれては流され、夜空を飾る黒雲と化して空の彼方へと消えていく。
「「これは……!!」」
絶句する悪夢。
周囲の濃霧も散り散りになり、馬の姿さえ風に煽られた炎のように揺らぎ、今にもかき消されそうだ。
「「ま、待て……! やめろ……!!」」
本体である闇の空間のほとんどを消され、悪夢は思念で叫んだ。
闇を払う強烈な夜風の中心で、私はくびれに手を当てたまま、苦しみ叫ぶ悪夢を見降ろして言う。
「我の糧? 面白いこと言うじゃない! 食べてみなさいよ、ほら!」
夜空を吹き抜ける暴風が、さらなる狂風へとなって悪夢を襲った。
まさに空前の灯火。
「「グォォォォォ」」
もはや声という声ではない、激しい水の流れに似た断末魔。
その最中に私は言った。
「悪夢、私の僕にして欲しくない!?」
「「……ふざけるな……!! 現世に生きる者が、我を僕になど……!!」」
「あっそ。じゃあ消えなさい」
私の魔力が世界を取り囲んだ。
吹き荒ぶ夜風が激しさを増し、星々が輝きを増した。
「「ま、待て……!!」」
問答無用。従僕する以外に、私と会話する権利など与えない。
激しく瞬く星々が一個、眩しい程に光を放って流れた。
それは悪夢の横スレスレを掠め、遥か下界へと落下して爆発する。
真っ黒から真っ青になった悪夢目掛けて、続く第二撃。
流れ星は、やはりスレスレを掠めて大地に落下、爆発する。
「「な、なんだそれは!!」」
勝手な発言をする悪い馬に、私は得意げに微笑んで、
「夢ってね、夢だって分かると意外と好き勝手できたりするのよ。人間だとよく分かるんだけどね」
満天の星々が激しく煌めき、私を中心にして天空を旋回し始めた。
人間ほど夢に近い存在などいないのだ。
充分な魔力を兼ねているのなら、盗人風情が主人に勝てるはずもない。
「さぁ、最後よ! 悪夢、アンタが私におねだりするなら、私の僕にしてあげるわ! 五、四、三……!」
「「わ、分かった! 僕になる!!」」
私は見下す表情を大きく歪めた。
「なんでアンタが決めてんのよ!? 頼むんなら頼めばいいわ、決めるのは私! 二、一……!!」
悪夢は子馬程度にまで磨り減った体を震わせて、念話で叫んだ。
「「僕にしてくれ!!」」
「……はい、契約」
私はニッコリと笑った。
夜空から暴風が消え、星々の動きが止まった。
静かな夜空に、私と、すっかり小さくなった黒い子馬と、リリィとグレンが浮かんでいた。
「アンタ、悪魔よね? 契約は守りなさいよ?」
私は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「「……ああ」」
黒い子馬は頷いた。
「はい、終了ー」
私は笑顔でリリィを見た。
「どう? リリィ。私に掛かれば、夢の悪魔なんてこんなものよ」
リリィは信じられないといった表情で私を見ていた。
「魔王様……!」
「さて、契約したから後は呪縛ね」
「呪縛?」
目を丸くして呟くグレンを尻目に、私は悪夢を見た。
全身の魔力を総動員し、この夢の世界の力を利用して、悪魔さえも縛る呪力を発生させる。
悪魔の身体に、不可視の蛇が巻きついた。
「私の実家、呪術師なのよね。呪術なんか物心ついた頃からやってたわ――リリィ、こいつを現世に召喚する方法はない?」
瞳を輝かせて呆然としていたリリィが、我に返って答える。
「あっ、はい! 強力な悪魔ですので、現界自体は可能だと思います! ただ、実体がないので何かに憑依させなければいけません!」
私は少し考えて、
「実体かー。それって生き物じゃなくてもいいの?」
「はい、憑依さえすれば体内は彼の世界の一部になります。例えば人形に憑依させれば、自分で動くこともできるでしょう」
私は昔聞いた怪談を思い出した。
「あれはいただけないわね……まぁいいわ、おいおい考えましょう」
黒い子馬に振り向き、
「悪夢、あんたとりあえず現界しなさい。憑依する実体が決まるまで精神体でいいわ」
子馬は貌の無い表情を固めた。
「「早めに実体を決めてくれなければ、私は消えてしまうぞ」」
私は不安そうな子馬を見下ろして、
「我慢しなさい。それと、アンタ今日からメアね、メア。悪夢なんて長い名前は捨てなさい」
「「……」」
(消滅するのを〝我慢しろ〟?)
私の命令の崇高さに、絶句するメア。
そして私はグレンへと振り返った。
なんか色々と邪魔が入ったが、目的はこの少年だった。
巨乳のためならば、グレンの精気など知ったことではない。
「ねぇリリィ、私でもアンタの真似事できるの?」
リリィは妖艶な笑みを浮かべて答える。
「食事ですか? できますよ?」
「そしたら巨乳になるかな?」
私の質問にリリィは目をぱちくりさせてから、笑顔を浮かべる。
「なれるかもしれませんね。でも、夢ですよ?」
…………なるほど。
私はため息をついた。
「まぁいいわ、グレン。命拾いしたじゃない」
同い年の少年は、私に瞳を輝かせて、
「うん、助かったよ! ありがとう!」
その笑顔がとても愛しいと、私は思った。
この想いは、ただの半夢魔化によるものなのだろうか――。