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その弐 入門

その弐 入門


 村落が水田を分断する官道沿いに幾つも点在し、民家の密集する中心部に小さな町を形成する。まだ早朝ではあるが、人々の常なる営みがすでに始まっていた。さっそく農具を掲げ、水牛を引き連れこれから畑へ出かける者。村落はずれの井戸や小河から飲水を担ぎ込む者。薪売りは各家門を走り回り、商売に勤しむ。主婦たちは朝食の支度を済ませ、自家の菜園や家畜欄で動・植物の世話を始める。簡素な茶屋が開舗し、隠居生活を楽しむ村の長者たちは自慢の鳥篭をぶら提げ、碁の相手を求めて集まる。至って穏やかな農村風景がそこにあった。ただ、この小さな郷村に不釣合いの建物が一定の間隔置きにそびえたつ。櫓である。各々の櫓には黄色地赤龍の模様を象る巨大な旗が風に吹かれ、ぱたぱたと靡かされている。櫓が集中する町の中心には小さな城砦が陣取る。

 すれ違う人々はいちように俺を注目し、幾度と振り返る者も少なくない。

まー、格好が格好だから、しようがない。

町中心部にある城砦隣の一軒の茶屋の前に来て、湯気が立ち、食欲を引き起たせる香りが嗅覚を経て、脳裏を貫いた。香りの元は雑談を楽しむ二人の老人の席からである。円皿の上に乗っかる四角形の白い物体が三つ重ね合い、湯気と香りを放つ。

うまそうなもちだな。

とりあえず、入ろう。

 その隣席に腰を下ろす。店舗奥から若い女将らしき人物が出迎える。

 「お客人、何になさいます?」

 すこし、聞きなれない音調でその言葉は話された。昨夜の風禪丸と交わした言葉とは明らかに違うようである。しかし、その言葉は自分の耳へ入り、すかさず脳からは認識され、容易に理解できた。無意識に同じ音調で言い返す。

 「お聞きしたいが、あの白いもちを得るにはどうすればよいのか?」

 女将は不思議そうに目尻を吊り上げ、何回も俺の顔を眺めた。少し困った表情で聞き返す。

 「お客人はお代金をお持ちではないのですかいな?」

 「お代金?言いにくいのだが、現在持ち合わせがなく・・・」

 女将が口を開く前に、隣席のひとりの老人が高声で笑い、口を開いた。

 「金などいらぬ、旅の方や、こちらへ移って食すればよい。伯異さんや、蒸包をもう一皿、それと油茶を三つ頂戴な」

 「ただいま」伯異と呼ばれた女将は軽く微笑み、店舗の奥へ消えた。

 助かった。

 老人の好意を受け、いち会釈し「これはかたじけない、ご厚意に感謝する」

 老人はまたかん高い声で笑い、「いやいや、感謝には及ばない、食物であればいくらでもおあがりなさい」話しながら、手招きをした。

 老人の座る席の近くへ歩み寄り、もうひとりの老人の方は立ち上がり、隣席の空椅子を持ってきた。着席後、両人を眺める。

 話しかけてきた方は白の眉と白のひげが長く生えており、白い絹の頭巾や長袴を羽織り、痩せ細った外見であるが、血色がよく、片手に紙の扇子を軽く扇ぎ、とても親しみやすい笑顔を見せてくれる。もう片方は少々若く見え、白が多く混ざり合った灰色の髪を竹の簪で止め、白と黒が半々である長いひげを生やし、終始無表情であるが、知性の満ちた眼差しでこちらを眺め、碧藍の道袍を着こなす。腰間には短剣が見え隠れする。

これまで見かけてきた村人との感じが大部違う。両人の容姿や着物から一般のご隠居ではないことが窺える。

 「これは蒸包ムシパオと言って、本当は白菜の辛漬けか高菜の塩漬けをおかずに食す物なのだが、わしらは何もつけない本来の味を楽しむのが好きでのう」白頭巾をした老人は話しながら白い包を乗せた皿が差し出された。

もちではなかったのか。それの一個を手に取り、思わずその熱さと軟らかい表皮に驚く。過去は知らず、意識が戻ってからは、まだ何も口にしていないことからいよいよ飢餓の頂点に瀕した。少々の熱さは構わないさ、渡された蒸包を二口で貪り食う。白い包は自分が最初に頭で思い描いたもちとはまったく別物のようだ。

 中身はふかふかしている。入口の一瞬は甘く感じるが、実際の味付けはない。ただ、初めて体験する食感であることは確かだ。

「これはうまい!」と言ってから三個をすべてたえあげる。

 その様子を見ながら、白頭巾の老人は問う「おぬし、この近辺の生まれではないようだな。どこから参ったのか?」

 この老人に悪意は見えない。しかも、現段階風禪坊の話を除けば、別にやましいことはなにもないのだから。

 「ご厚意に対し、うそはできない。実は今朝この近くの林の中で目覚め、それ以前の記憶は不確かである」とここは正直に答える。

 「はて?それは摩訶不思議な話であるな」白頭巾の老人は俺を凝視する。

 鋭い視線だ。俺の心中を看破したいのか。

 「して、これからはどうするつもりかのう?」横で竹の簪をつけた老人は初めて口を開いた。

 「いずれは自分の過去を見つけるつもりであるが、なんせ、金品など一切持っておらず、食事にもありつけない始末」

 「うん、なるほど。そういうことであれば、わしらが道筋を指してあげよう。わしは卞苑銘ビョンエンメイ、実はこの白岩里卞荘の荘主(村長)であり、卞荘の学堂の教師をしている」と白頭巾の老人は告げ、隣の老人を指して続ける。

 「こちらは曲円チュイエン、わしの長年の友人であり、卞荘唯一の剣堂の師範である」

そのとき、女将は大きな木皿を運び、白い包を一皿と大振りの朱砂からなる茶入や同色の茶碗三つを机上に並べる。粉で固めた元宝(ゲンポウ-中華の明では金、銀を半月形に固めて貨幣として流通した)を三つ個々の茶碗に落とす。そして、大きな茶入から黄色く濁った熱汁を注ぎ込む。見る見るうちに、元宝を模った粉が黄色湯に溶け、最終的には黄色だった茶湯が白く濁った。

「おぬしは相当疲れているように見える、傷も深く負っているようじゃな」卞荘主は茶碗を持ち上げ、「これを飲み干すがいい、精が付く」

茶碗を受け取り、中身を凝視しながら、舌で浅く味見をする。甘くて苦い、特に薬草の匂いが充満する。変な飲み物だ。というよりは薬なのか。

「心配には及ばぬ、これには山参、当帰、回香、桂皮などの中薬(漢方薬)と大麦片、胡麻を元宝形に固めて茶引(茶の中身)とし、向日葵の種の油と牛鞭(牛ペニスの干物-漢方薬)と明の大輪の毛峰茶を煮て茶湯にし、いわば無上の補品(栄養剤)であるぞ」曲円は俺の心情を察し、油茶の中身を解説した。

「それはありがたい」思った通りだ。茶碗を傾け、一気に飲み干す。

「まことに良い飲みっぷりじゃあ」、「よい、よい」二人の老人は同時に歓声をあげた。

不思議に、油茶を飲んだあと、腹部から熱気が生じ、全身へと駆け回る。気分も自然と高揚する。なんだか落ち着く、不思議な感覚である。

「実はおぬしがこの卞荘に近づいてからすでに知らせを受けていたのじゃ」曲円は続く。

「そして、その行動をすべて観察させてもらった。おぬしの形相と行動からは曲者に思えない」卞荘主の人懐こい笑は少し収斂しながら言い放った。

来た。俺をどうするつもりなのか。

「おぬしはうそをついてないように思う。わしには分かる」曲円は強調した。

「ゆえに、おぬしさえ良ければ、仕事を与え、食住と給金も付ける。そう、おぬしの気が済むまでこの卞荘にいればよい」卞荘官は曲円の判断に続け、単刀直入と核心を突いて来た。

意外にもあっさりと受け入れられた。俺は直ちに立ち上げ、両長者へ一礼し、「ご好意に感謝する」

一貫無表情だった曲円の顔からも笑みがこぼれた。

「ところで、おぬしは自分の呼び名をどうしているのかい?」卞荘主は聞く。

すこし考え込むが、首をかしげる。この様子を見て曲円は卞荘主に問いだ「荘主大人(目上への敬称)、何か良い考えはないものか?」

「おぬしさえ納得すれば、暫時的の名を付けてやらないこともない」

「ぜひ、お願いしたい」やはり、呼び名がないのは不便である。

老荘主は立ち上がり、胸元まで伸びる白髭を手で摘みながら、茶屋内をゆっくりと三周回ってから「そうじゃなぁ、今日からおぬしを李忠清イーゾンシンと呼ぼう」

「現在わが李朝は倭寇の再犯を受け、国難の最中にある。李は国姓、忠は国への忠義を尽くせという意味だ。清は曇りなき済んだ心を持つようにとわしらからの期待じゃ」

「おぬしはこれまでの記憶をなくしているが、これからのひとなりを清く再生して、また、よく物事の良し悪しを分別できるよう、元の記憶の回復に関わりなく魔道に陥らないよう心得ること」卞老荘主の満足そうな様子に曲円も頷き、李忠清との名に賛同した。

卞老荘主の熱弁に心の鼓動を覚えながら、ふっと風禪坊のことを思い出す。今の話と昨夜の経歴から風禪坊がおそらく倭寇であるに違いない。果たして、自分はどの陣営に所属されるべきであるのか。

曲円の言葉によって思考から引き戻される。

「現在は戦時、人材の育成が先決である。ましてや彼ほど武術に適した気質を持ちえる者はそう多くない」

改まって、曲円は卞苑銘に一礼し、話を続けた。

「荘主大人、李忠清を私に預からせてください」

「はっは・・・これは、先に取られたか、曲師父は彼を第二の舜臣スンシン公でも育て上げるつもりかのう」甲高い笑いを発しながら卞荘の長老は友人の提案に同意した。

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