その壱 覚醒 完
意識がはっきりしてからは、不条理かつ不毛な一連の出来事を冷静に対処する自身に気がづき、すこし驚く。
カサカサと、竹林の対面の官道の方から足音が聞こえてくる。すぐさま巻物を閉じ、懐に入れ、立ち上がる。二匹の豺も体を揺さぶりながら、元主人の遺骸の両脇をかためた。霊性の通った畜生である。
そいえば、風禪坊は李朝の武士に追いかけられていると言ったな。
今は死人にすがるときではない。短刀を手に持ち、二匹を茂みの奥へ下がるように合図してから、今度は鈴音が漏れないよう風禪坊の銀輪を残りの砕布で包み、竹林に潜り込む。二十歩先の大竹の陰に隠れ、様子を窺う。
茶一杯の時が過ぎってから、二つの人影が現れた。手中に胴長の刀剣をちらつかせている。回りの様子を気にしながら、風禪坊の死体を確認する。二言会話を交わし、風禪坊の身辺を探り始めた。
風禪坊を殺した張本人たちか。
夜がうっすらと明けていく中、二人の顔を見ようと身を乗り出すが、一斉に隠れていた二匹の豺が飛び出した。
しまった!
「おぉぉー」と驚いた二人の探者は手中の武器で迎える。
かなりの武芸達者なのか、二匹の豺は飛びついたものの、攻撃をことごとくふさがれ、そうこうしている内に、一人が飛び上がり、空中から落下する勢いを借りて、二匹へと何かが放たれた。たちまち、二匹は倒れ、息絶えた。
つよい。何を使ったのか。
一人は手中の武器を構え、いっそう周辺の様子を警戒する。もう一人は、二匹の豺を含め、再度入念に風禪坊の死体を調べる。
息を潜め、微動たりしたくない。幸い、こっちの存在には気づいてないようだ。
夜も徐々にあけ、明るくなるにつれ、夜露が竹林の至る所でぽたぽたと垂れる。冷気に触れ、霧の幕を薄く張り出す。新緑のにおいが清々しく感じる朝なのだが、この近辺だけは獣の断末臭と血臭が混ざり合い、おもわず吐き気を誘う。
長く調べた結果、二人は遺憾の意の表れか、刃物で周りの茂みを切り荒らし、来た方向へ引き返した。多少薄暗かったが、二人の容姿をしっかりと目で捉えた。痩せ細ったのっぽの青年と中太りの老人である。特に老人の両手に紅い手袋をしている事が印象に残った。
二人の人影が視角から完全に消えてから、息を大きく呑み返し、再度風禪坊の死体に近寄った。風禪坊の方は特に変化はないが、殺された二匹の豺の胴体に緑色の斑点が多く見られた。毒々しく豺の毛皮を焦がせる異臭を嗅き、強力な飛び暗器を使ったように思えた。特に二匹に対する感情はないが、最後まで主人を守り抜こうとしたことに敬意を表し、竹林からの落ち葉や朽竹を拾い集め、三体の屍骸に覆い被せた。
お前たちは最後まで主人のために働いた。なかよく黄泉へ行ってくれ。
思考を一度整理する。まず、自分に記憶がない。死を直前にして風禪坊から大事な似顔絵を与次郎となる人物に渡すようと託され、周辺に風禪坊を死に追い込んだ武芸の立つ李朝の武士と言われている者達がうろつく。自分にとって、敵か味方かは不確かであるが、目下どこかで腹ごしらえと休息、この不可解な全身の傷と昨夜受けた右肩の噛み傷の手当てが先決であろう。
とりあえず、竹林を抜け、丘を降りる。
すでに、朝日が出て、周りはすっかり明るくなった。日差しを浴び、昨晩の寒さがまやかしのごとく消え去り、暖かく全身から気力がわきあがる。目の前に一面と広がる水田と農作業に没頭するにわかな人影が見える。
丘を下る道に沿って、やがては広がる水田の間に整頓された官道につなぐ。両側では小麦や大豆、瓜、ひまわりなどの作物が耕されている。この様子じゃあ近隣の村落にはそれなりの食料が蓄えているはず。今は己の進むべき道より飢餓を満たすことの方が先決である。
近くに小さな池を見つけ、水で顔や髪を濡らした。蒼い空が反射され、澄んだ水面が鏡にはや変わり、自分の様子を始めて確認できた。長い面に、眉は太く引かれている。ひげはなく、両目は鋭く異様な光を放つ。色白の方である。鷹のような形をした威圧感の持つ鼻がまっすぐに伸び、四方の口元は少し吊上がり、不敵な表情を醸し出す。顔にも全身に似たような浅い切り傷がある。ただそれほど目立たない。髪は散乱しているため、腰に差す短刀の鞘から赤の佩紐を一本外し、ひとつに束ねた。上半身は裸、広い肩幅と無駄のない筋肉群を丈の短いマントで覆われ、腹部と下半身を二枚の布片で重ね合い、風禪丸の黒い帯で中央から縛る。着物の組み合わせは滑稽だが、なかなかの偉丈夫に見える。
昨夜の経験から、この見覚えのない身体には尋常じゃない体力と冷静を保つ頭脳を持っている。見た目から年齢はわからないが、それほど若くはないはず、一見武芸の達人に見えなくもない。あるいは、それ以上に実戦経験が備わっているのか。
見栄えを整えてから、正気があふれる面を作り、堂々とした歩き方で水田の遠方に見える村落へ進む。とにもかくにも、現在何も持ち得ない自分にはせめて怪しまれない格好で望むべきであると先刻心に決めた。