胸に咲く花
カーテンをかけ電灯をつけなければ真昼のなかでも暗室にできる。
理子は窓に鏡に自分の顔が映し出されないことに安堵して、手探りで部屋の鍵を見つけると錠を下ろした。壁に背を添わせゆっくり腰かける。階下の居間へ耳をそばだて、家族のだれもが寄ってこないとまで確かめてやっと息をついた。胸骨の奥が軋むようなじくじくとした痛みは続いている。いつからだ、と問いかけてみても答えは定まらない。ひとつ浮かべたものを思い返しては反響するくらいに高鳴る心音に慄いて、ゆっくり立ち上がり足元をもつれさせながらベッドまでたどり着き、からだを横たえる。
うつ伏せになって枕に顔を押し付けると、理子は八秒間かけてじっくり、少しずつ息を吸い込んで横隔膜の張る感覚を捕まえられるほど収めては、同じだけの時間をかけてゆっくりと吐いていく。
もう十年前になった中学生のころ、覚えさせられた呼吸法を今でもそっくりそのまま再現できる。記憶力が良いからというだけでは決して、なかった。
*
ねえ、おなかを膨らますんじゃなくて、と先輩は言った。
「胸と胃のあいだぐらいに空気が入るように吸い込むの。わかる?」
と理子の下腹部に手を当て、顔と交互に比べ見る。
いわれてもわかんないって、と心の内で返しながら理子は唇のはしから吸い込み、メトロノームが数え終えるまで容量を保つように耐える。
「じゃあ、吐いて」
備蓄した空気を薄く出してゆくと、はち切れないほど溜め込んだはずがたった八秒を永遠に感じられ、譜面に表せばきっとデクレッシェンドが書かれていると思うほどだ。音楽用語でだんだん遅く。いや、テンポを遅くしているのかも。
メトロノームの針は鉛で作られてる、とリズム感の欠如した頭で考えながら理子は幸運にも買ってもらえてしまったサックスを思った。「相棒」は譜面台の後ろで椅子の上に鎮座し、持ち主に吹かれるのを待っている。
入部届はもう取り返せない。
「ねえ、サックス吹いたの初めてなんでしょ、すごいって。あたしなんてすぐ音出なかったんだから! ぜったい才能あるよ」
入学したばかりの四月、部活動見学で初めて訪れた先の音楽室で手放しに褒められた。反応のしかたに困った理子は目を伏せると視界に入った相手の足元、上履きから楽器を貸してくれた「先輩」が最上級生とわかった。
理子の通う中学では、上履きに体育着のロゴ、それを持ち歩くための袋に生徒手帳のカバー、制服のリボンやタイといたるところに使われる学年色がある。この年は一年が緑、二年が青、三年生が赤となっていた。だから、先輩の上履きが赤になればすなわち三年生ということになる。生徒には廊下ですれ違った相手が上級生か同級生かを判断する術になり、教師には一学年六クラスと多い子どもたちの顔を照らし合わせるための材料になったが、新入生にとっての意味合いは他学年以上で「信号は気をつけ渡れ」と入学前から親に兄弟、果てはクラス担任にと厭になるほどその厄介さを吹き込まれていたから面を上げないわけにはいかなくなった。
「ねえ、もう部活は決めたの?」
問いかけに何も答えないのはまずい、と唾をくだして唇を震わせる。
「まだ決めてな……いえ、決めていません、けど」
「じゃあ吹奏楽部に入りな! 最初から吹けるなんて才能に違いないから、ね?」
「そんなこと、」
無いと反論する口をふさぐように、
「興味はあるでしょ、今度演奏会もするし、よかったら、いや必ず来てよね」
と彼女は重ねた。
曖昧にうなずくしかなくて、理子は顔に熱を抱えたまま他の楽器を試すのも手短にして帰る。音楽室を離れてもまだ頬は熱い。
口ではどうとでもいえる誘い文句を理子はすんなり受け入れられた。まだサンタクロースからプレゼントが来ると信じていた時期のほうが近くあって、お世辞という言葉すら知らなかった。
初対面の、しかも警戒すべきとされていたひとの柔らかな表情に加えて自分という「個」を見据え、はっきりとした口調で部員として欲しいと取れる台詞をかけられた経験をもたない理子は高揚する心を鎮めるのに手一杯だった。校門を出るまで足元が上履きということすら気づかないほどに。友人が指摘してくれなければそのまま帰るところだ。
慌てて履き替え、校門を越えた。
「ただいま」
家に戻れば理子は二番目だった。長女は自分でもいつだって一番手になれる妹がいた。
遅れて産まれでた早苗は病弱で、やっと抜け出せば芋虫が蛹を飛び越して蝶へなるほどに早く、理子の好きと続けた絵でも勉強でもたやすく賞状や成績表と目に見えるもので評価をさらっていった。
最悪の痛手は、半日かけて描いては消し仕上げた自身の花の絵が、妹の五分の落書きに劣っていたことだ。
もしも、と理子は考える。
早苗との立ち位置が逆だったら。友達同士なら。ひとりっ子だったなら。自分は諦め辞めようとはしないだろうか、と。身長も近づいていた妹は背後からいつの間にか隣にいた。いつ追い抜かされるか、入れ替われるのか。
ねえちゃん、と呼ばれなくなったりしてと想像し母が彼女を褒めるたびに身が縮んでいくように思えた。
いったい、最後に褒められたのはいつだろう。
「才能ある、ねえ」
理子は先輩の言葉を舌の上にだして反芻する。
唾とともに飲み下すと年に一度、誕生日のときにだけ食べられるケーキを頬張ったときよりもはるかに甘美な感覚が喉をすぎて体内に広がっていく。空腹を覚えているはずの身体が満たされたようで、穏やかな心がある。
理子は翌日、横断舗道の信号が点滅し赤に変わるのを見ていた。
反対方向が青になる。歩行者は止まれの色だ。足はわかって一歩踏み出した。対向車は、無かった。
「ちょっとだけ、試してみない?」
手もとで金色に光るサックスはもう借り物ではない。
「吹けませんって」
と赤い上履きの新入生は言った。
「教えるから。ね、マネしてやってみて。唇をすこし湿らせて、ふるわせるようにして息を吹き込んで」
彼女は頬を膨らませ鳴らない楽器に口づけ離してみては手元を見つめるといった作業を繰り返したが、しかし理子に返そうとはせず息を吹きこむ。
しばらく続けると前触れもなく突然、澄んだ音をぷうと響かせた。
「すごい」
理子は作り笑みを向けた。
「こんなにいい音出せる子、めったにいないんだよ!」
言い切り形で語る。
「え、ほんとですか」
「ほんとうよ! あたしのときは音出せなかったし、すごい」
わざと声のトーンを高くする。
「あなた楽部入らない? もったいないって」
呼びかけながら胃液がせり上がってくるのを感じた。
二年生になって下級生を迎え教える立場にまわり、自覚したくなかったことがようやく胸の内に確信となって広がっていくのを止められない。
一定量部員を入れなければ上の学年が引退した後の大会出場にも関わる。だから、怠けてはいられなかった。理子の学年はただでさえ部員の総数が三年生の半分に満たない。必死でやらなければいけないのに、自分の役回りが純白のレースに泥水を浴びせかけて染める汚い仕事のように次第と思えてくる。
「じゃあわたし、入部します」
彼女は一年前の理子とはちがい、ためらいもなく返事した。
「いいの? 仮入部期間はまだあるでしょう」
「決めましたから」
他のとこなんて物足りないし、と楽器を返しながら大胆な言葉を軽々しく放ってのけた顔に「あんたほどのやつなんてどこにでもいるよ」とたった三ヶ月で真逆の言葉を吐いた先輩の姿が脳裏をよぎる。
(あたしだって、反対の言葉を返すやつかもしれないのに)
笑顔に刺された。
「ありがとう、これからよろしく。ぜひサックスパートを希望してね」
引き攣る顔に気づかず入部した新入生は後輩になった。
彼女はよく、好かれた。ただ吹くことに疑問も思わず、リズム感は良ければ呑み込みも早く、進級するころには易々と理子を抜かしていた。今までピアノにもさわったことない、音楽経験も無い、まるっきり初心者だと入部唱えるように繰り返したのも嘘のように慣れた雰囲気で、理子のように逡巡する姿など欠片も見せずに勧誘しては多く部員を呼び込んだ。予選大会ではサックスパートで唯一与えられたソロを他の誰とも競うことなく選ばれて完璧に勤め上げた。
理子はもう悔しいとも感じなかった。それでも、惰性のように楽器を持ち帰っては家ではうるさくて吹けないからと河原に行って練習した。十六分音符が五小節も連続する曲の難所ではテンポから落としてまず指を覚えこみ、また元の速さへ戻して吹けるようにはした。
だが、本戦の近づいた合奏のあとの日に個別に顧問から引き留められる。
「木下さん、もう吹かなくていいわよ」
あなたのやり方は楽器をただ鳴らしているだけ、と続けられた言葉が痛かった。大会で覚えこんだ指でなぞるだけにして、息は入れなかった。ひとり吹かずとも音は充分に足りていた。
「先輩、お世話になりました」
卒業する三月。
後輩たちは理子を呼んで、囲んでは泣きついてくると涙しながら花束とリボンの巻かれた色紙を渡してきた。中身は見るまでもなく予想がついた。パート全員の寄せ書きだ。
「今までありがとうございました」
「優しくおしえてもらえたから吹くのが好きになりました」
「おかげで部活が楽しかったです」
重ねられた文を全部読まないように逸らせて、理子はありがとうと言った。
楽器ケースを受け取った贈り物で両手を塞がらせて、重いねと友人といっしょに交わしながら三年通った道を戻っていく。
じゃあ、とわかれ道で手を振って相手の背が見えなくなると歩調を速める。
「ただいま」
言葉だけで顔を見せず、まっすぐ部屋に駆けこむとブレザーの胸ポケットに挿した花飾りをちぎった。花束と色紙はベッドへ放り投げ、両の手が空くと制服を脱ぎ捨てた。楽器ケースを一瞥するとクローゼットの戸を開け放ち、奥深くに押し込んでコートの間に隠して見えなくさせる。
楽器の手入れに使ったクロス、吹くために必要な一箱二千円もしたリードの箱にいくつ壊したのか知らないチューナーも全て一緒くたに袋へ詰め込んで勉強机の下段、引き出しを最大限手前に出さないと取り出せない位置に仕舞い触れなかった。
半年に一度、年に一度、手入れの為だけに外気に触れさせはした。中古で買った値のたった三分の一の八万円で買い取られるまで、サックスは置物のままでタンスの肥やしだった。
備品は二十歳を過ぎてようやく捨てられた。色紙も、思い出させるものは処分した。
*
ひとつだけ記憶に残した、ゆっくり息を吸って胸いっぱいに溜め込みゆるゆると吐きだす横隔膜を膨らませ肺活量を鍛えさせる呼吸法を、理子は気持ちの揺れが激しくなるたびに繰り返す。
厭うことがなかったのは過呼吸になりそうな体を楽になだめられる術と自覚したからだ。
高校へ入学し、初めて隣の席の子に話しかけたとき。視線だけなんとなく追っていた同学年の男子を好きじゃないの、と言われたとき。体育のマラソンあとに酸素が足りてないような息苦しさを覚えたとき。
あらゆる場面で鼓動が治まらなくなると人目のないところへ逃げ込んでは三回繰り返せば、たいていは楽になる。心臓が元の動きに戻り落ち着いてくるのだ。変調を起こした原因を思い理解できるときもあれば、まったくわからずに忘れようとすることもある。
自分との付き合い方なんてひとに教わるものではない。勝手に解釈して、納得する。他に何があるだろう、と理子は思う。
吸って、吸って息を止めて耐えて。吐いて、吐いてからだのなかの空気を無くすようにする。たまに咽喉が痙攣したような気味の悪い音を立てせき込ませ、鎮めるはずが余計に苦しくて仕方のないこともあった。
さてどうするか、と理子は自分自身へ問いかける。
あきらめて忘れられるのを待つか。友達に愚痴としてこぼすか。どれを取っても解決しない問いであると理子は自覚して、わかっている。
『あたしを一番に欲しい』といって。
心のなかだけに収めておく以外やり場のない気持ちは煮詰まる。
一度だけ、お酒が入ったときに譫言のように昔馴染みに垂れ流したことがある。
ハタチ過ぎて乙女発言してんじゃないわよ、と笑い飛ばされたのは理子の思い出したくもない恥の箱に入っている。
現実は物語のように、ドラマや映画の主人公たちみたいに、簡単に他者から求めてもらえはしない。飾らなければ、相手の求めるように気に入られるひとへならなければ、承認の微笑みを受け取ることなんて出来はしないのだ。ましてや、肉親や友人以上の唯一無二の存在として必要とされることを欲するならば、当たりくじの一本しかない六億円を引き当てるくらいと思わなければならない。
わかっていながらも、諦めずにいたい自分を理子は捨てきれない。
きっと手酷い嘘を思春期につかれなければこじれなかった、なんて怨みごとは理由付けでしかなくて、寂しく飢える感情の在りかに気づいている。でなければ見識を広めたいからと学生のころより格段に減った余暇を、働き始めてまで費やしてまでサークルへ出たりしない。飲み会へ友人を頻繁に誘いもしない。他人ばかりの、居て気を張る企画に進んで行くものか。
女友達が増えた。
どのひとも年上だった。
ふと中学時代の先輩を浮かべて、もう顔もろくに覚えていないだけにちゃんとした像にはならなかった彼女がどれだけ小さく子供だったのかを知った。自分もそうだった。二十も後半に差し掛かったひとたちは皆、分かりやすい嘘を吐くことはない。偽りのないひとたちばかりで、理子はもう充分と思っていた。
季節が巡る。ひとつ年を重ねる。その頃合いになって異性と逢った。
ちゃんとした男のひとだ、と理子は思った。
女らしさ、というより媚びを使い他者を性別の差異によってひとを引き寄せるたぐいの女は同性とはいえ不得手だったが、かといって異性なら平気かといえばそれこそ不得意の部類に入った。理子の、だれかを信じたい気持ちが邪魔をして、優しいと思えた一面に騙されては逃げ帰る、良い経験のなさに判断がつかなかった。
彼はじっくり理子の話を聴いた。考えを素敵だと言った。そういうひとは好きだよ、とまで。もっと話してみたいから、と次に会う約束までした。
理子は目が離せなかった。
言葉を紡ぎ、向かい合うあいだ、もっとまっすぐに見つめたいと思った。
心音が高鳴る。息のできない気にさせる。また同時に、他人に明かしたことのない想いを次々と述べていく自分に違和感を覚えないのが不思議だった。
本音を話すほうが、彼に対しては至って自然な反応に思えて安らぎに似た感覚を得ていく。ひとりきりの時間に戻ると動揺と安堵のなかを行き来している。家族とともに居ればそれだけ感覚の違いを比べ始める。
「なにしてんのねえちゃん」
部屋の電気が付けられる。
「ねえ、寝てるの」
早苗はベッドの内で蓑虫と化している理子を揺り起そうとする。無視して、あえて応えずにいるとそれでもやり続けるから仕方なしに毛布を除けた。調子悪いの、と返す言葉には毒が詰まっている。
「風邪ひいたの?」
「いや動悸がするっていうか、息切れするっていうか……」
そんなお歳でしたっけ、とからかい調子で言う妹に、ちがうって、と尖り声で否定して飛び起きる。と、思い出したように早苗は、あ、とつぶやく。
「なに、どうしたの」
「いや母さんもおんなじこと言ってたなって。胃痛するとか」
え、と目を見開く。
「ほら、お昼イートイン付きのパン屋でコーヒーたのんだでしょ。紅茶だったからわかんないけどさ、あのコーヒーが悪かったって台所で吠えてるよ」
たしかに母はアイスを、理子はホットのそれを注文した。
「食後から母さん、調子悪いって?」
「うん。だから、きょうはフライやめて夕飯はブリの照り焼きにするってさ。父さん早く帰ってくるみたいだし、ねえちゃんも手伝ってよって」
早苗は母からの頼まれごとを伝えるとワイシャツの上にエプロンを着て、部屋を出ていく。
下に履いているのは制服から変えたパジャマのズボンで、着替えるなら両方にすればいいのにと考えながら、次第に頬が染まっていくのを自覚していく。
「……馬鹿だ」
理子はわざと声にだして唱えた。
てっきり胸の高揚が、息苦しさが、あの彼を想って生まれたものと思っていた。
まだ逢うときまで日数はあるのに、なぜ落ち着けないで痛みを感じているのか。
いつもの呼吸法を試しても治まらず、コントロールするのもままならないのはきっと恋しいせいだから仕方ないとまで思い込んでいた。まず体の不具合との考えに至らず、ひとを想うからと自己解決して、ならば不調でもいいやとすら考えた思考に、
「乙女か」
友人たちならば絶対言うであろう指摘をひとりでしてみせて、苦笑した。
とにかく胃薬を飲もう。理子は起き上がりエプロンをつけ、ふとクローゼットを見る。次はワンピースか。やっぱりスキニーよりはスカートだろうなあ……と思考をめぐらせては首をふった。
(だめだって)
考えたら悪化する。日に日に募る感情があることはすでに自覚済だ。
相手がどう想っているか気になりだしたら自分が好きになったサインだなんて、誰に指摘されずともわかっている。じくじくと疼く、胃だけではない痛みの名前がなにというのかも。そう、認めてしまえばいい。
理子は遠くない日に便箋を手にとる。携帯でもいい。紡ぐ内容と宛先はとっくのとうに決まっている。
初めての投稿作品になります。
感想をいただけたなら、幸いです。