スイカの姫君
りん子が海岸通りを歩いていると、向こうから少女がやってきた。
少女は透き通るような白い肌をしていて、帽子をかぶっていた。ひらひらとした大きなつばは赤く、上の部分は緑で、スイカをモチーフにした帽子だった。
「ステキな帽子ね」
すれ違う時、りん子は言った。
少女は足を止め、嬉しそうに笑った。うっすら染まった頬はどこか儚げで、気品もあった。スイカの姫君ね、とりん子は思った。
「これね、自分で作ったのよ」
スイカの姫君は帽子を傾けて言った。よく見ると赤い部分には種の模様があり、光が当たると本物の果肉のように見える。
「いいな。ちょっと貸して」
軽い気持ちでりん子は言った。スイカの姫君はうなずき、どうぞ、と言って帽子をとった。
りん子はツーサイドアップの髪をほどき、帽子をかぶった。ひんやりとした影が顔にかかった。
「似合う?」
「ええ」
りん子はくるりと回り、ポーズをとって見せた。ふと、鏡に映して見たくなったが、民家ばかりでショーウィンドーも見当たらない。
すぐ近くで波の音が聞こえた。ここからなら海面に映るかもしれない。そう思って鉄柵から海へ乗り出した。
スイカの姫君が小さく悲鳴を上げた。風が吹き上げ、りん子の頭から帽子をさらっていった。
二人は急いで砂浜へ下り、帽子が落ちた辺りへ行った。遠い波間に、緑のものが浮いて沈むのが一瞬見えた。
スイカの姫君は波打ち際に座り込み、顔を覆った。さざ波が寄せ、膝とスカートを濡らしていく。
「ごめんなさい」
りん子は言った。スイカの姫君は顔を上げない。パフスリーブの肩が小刻みに震えている。
りん子は姫君の横に座った。
「本当にごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの」
スイカの姫君は顔を覆ったまま、消え入るような声で泣いた。
りん子は姫君の背中に手を当て、しばらく考えてから、自分のつけていた白い花のチョーカーを首から外した。
「これ、よかったら……代わりになんてならないかもしれないけど」
スイカの姫君はなおも泣き続ける。りん子はため息をつき、晴れ渡った空を見上げた。海の照り返しで、日差しがよりいっそう強い。
「ねえ、ここにいてもどうしようもないわ。暑さで倒れちゃう前に行きましょ」
「取ってきて」
「え?」
「海に入って、取ってきて」
小さな声で、でもはっきりと、スイカの姫君は言った。
波が寄せ、砂浜に新しい色を乗せる。空と海が、はるか遠くで交わっている。りん子は立ち上がった。
「わかったわ。取ってくる」
スイカの姫君は何も言わなかった。
りん子は靴と靴下を脱ぎ、波の来るほうへ歩き始めた。足首までだった水が、ふくらはぎまでになり、太ももまでになった。ワンピースをまとった体が、ふわりと水に絡め取られる。生ぬるく感じていた水温が、一気に冷たくなった。
背の立つぎりぎりの場所で、りん子は顔を水につけた。目を開けると、水の中は思ったよりも明るかった。
小さな魚が花びらのように泳ぎ、白いくらげが逆さまになって漂っている。さらに潜ってみると、浅い海底をごそごそと何かが移動していた。
それは、人だった。酸素ボンベもシュノーケルも、水着さえも身につけていない、若い女性だった。なんて無謀なの、とりん子は自分を棚に上げて思う。
(だけど、帽子のことを聞けるとしたら、あの人ぐらいだわ。)
とにかく、あとは魚や貝しかいないのである。りん子は藁にもすがる思いで近づいていった。
女性は振り向いた。目が合った瞬間、不気味な笑みを浮かべ、腕を広げた。その腕がヒレに変わり、肌は青銀色になり、大きく裂けた口から尖った歯が覗く。恐ろしいホオジロザメだった。
悲鳴が泡になり、りん子は口を覆った。サメは真っすぐ向かってくる。もがいて体勢を変え、泳ごうとしているうちに、すぐ後ろでガチガチと歯が鳴るのを感じた。
小魚たちが散るように道を開け、りん子は咳き込みながら水上に顔を出した。まだ後ろに気配がしたが、振り向いて確かめる余裕はなかった。めちゃくちゃに手足を動かし、どうにか波打ち際に転がり出た。
ずぶ濡れのまま這っていくと、スイカの姫君は同じ場所に座っていた。泣きはらした目をりん子に向ける。
りん子は塩水を吐き出し、姫君の腕をつかんだ。
「大変よ、早く立って。とんでもない化け物が来るわ」
「……帽子は?」
「いいから逃げなきゃ。食べられちゃう」
スイカの姫君はりん子の腕を握り返した。細い体に似合わない、強烈な力だった。
「取ってくるって言ったわよね?」
長い髪が涙で顔に張り付き、口元はかすかに笑っている。りん子は一瞬で、サメのことを綺麗さっぱり忘れた。
りん子が立ち上がると、スイカの姫君は腕にぶら下がって一緒に立った。
「ねえ? 私の帽子」
骨がみしみしと音を立てた。りん子はぐるりと腕を回し、姫君の手をほどいた。水で濡れた体を引きずり、石段のほうへ駆け出す。
「ねえ待って。バラバラにされるのと八つ裂きにされるのとどっちがいい?」
「どっちも同じだしどっちも嫌よ!」
りん子は這うようにして石段を上った。砂と水をまき散らしながら、とにかく海から離れようと思った。
スイカの姫君は驚くほどの速さで追ってきた。潮風に乗り、妖精のように駆けてくる。白い指先がもう少しでりん子の足をつかむ、その時だった。
スイカの姫君は、石段にこびりついていた海草に足を滑らせた。そのまま前へ倒れ込み、額を打ちつけた。りん子はその音にはっとして、振り向いた。
「だ……大丈夫?」
おそるおそる戻り、ひとつ上の段から覗き込んだ。姫君はぴくりとも動かなかった。
りん子はそばへ行き、姫君の体に触れた。太陽に照らされているのに、背中も腕も冷たかった。
りん子は大きく息をついた。姫君はもう起きないだろう。
「後味悪いったらないわ」
しばらく見ていると、姫君の髪がだんだん伸びて石段に根を張り、緑の蔓が伸びて葉も繁った。あっという間に花が咲き、姫君の体は丸いスイカになってしまった。
やれやれ、とりん子は言い、スイカの実を撫でた。固くてどっしりとした、良いスイカだった。
りん子はポケットからチョーカーを出し、実のてっぺんにくくり付けた。ようやくひと仕事終えたと思い、靴や靴下を取りに戻る気にはなれなかった。
「とんだど根性スイカだったわね」
裸足で石段を上り、通りを歩いていると、また強い風が吹いた。空から何かが落ちてきて、りん子の頭にかぶさった。ひんやりとした感触と影で、それが何か確かめなくてもわかった。
ありがとう、とりん子はつぶやいた。
こちらこそ、と風が答えた。