過去の門(2)
遅れました。
一瞬の酩酊感の後リトルが気づいた時、彼は見知らぬ街にいた。
異様な街だった。地面はなにかコールタールを思わせる黒っぽいもので固められていたし、空には星が見えない。まわりは夜だというのに幾万の人々が一斉に魔法の明かりを灯したかのように明るく、だが、その明かりは空虚で冷たいもののように見えた。
なんだ、ここは?
そうリトルは思った。
家猫は人間の二歳児程度の知能を持つというが、サーベルタイガーは幼児なみ以上の知恵を持っている。その頭のよさがあるからこそ、町で普通に飼う人もいるのである。無駄に牙を剥かず、うまく社会に混じることができるというわけだ。
リトルはそこからさらに進み、論理的な思考ができるようになってきていた。もっとも人間とは違うので抽象的、哲学的思考をもてあそぶような事はないが、ここがモフ子に関連する世界であろう、という事にはしっかりと気づいていた。
あいつはどこだ?
ここはリトルにとっては無意味で、それどころか有害な場所に思えた。だが、そんな場所に自分がいるという事は、おそらくモフ子もどこかにいるのだろう。リトルは自分なりの理論でそう決定づけ、何かに惹かれるままに見知らぬ異界の街をさまよいはじめた。
……ギラギラ輝くくせに、何もない街だ。
見えるもの全てが奇妙に輝いたり、うるさい音を出したりしているのに、何もない。実に奇妙で、そして空虚な街だった。そして住民の姿が見当たらない。もっとも、もし見えたら脅して追い払うつもりだったが。
しばらく走ると光の量は減り、今度はいろんな臭いが増え始めた。
これは、なんだ?
それは、モフ子が『家』と呼ぶものにどこか似ている気がした。ただし今まで見たあらゆる『家』とも違っていたが。
おそらくは、これがここの『家』なのではないかとリトルは考えた。
……ふむ。あてどなく探していても仕方ない。どうしようか……ん?
数ある家のひとつに、他にない妙な気配が漂う家があった。
リトルは迷わず、その家に入ろうとしたが、当然入り口からは入れない。
しばらく迷ったあげく、裏に回ってみる事にした。気配はそちらからの方が強そうだったからだ。
その光景を見た瞬間、リトルは目を細めて、そして改めて自分の気配を殺した。
見知らぬ人間二匹と……そして、見たことないはずなのに知っている、そんな幼気な少女。
……そう、それは。
『……』
『……』
『……』
一家団欒。おそらくは食事風景であろうはずの場面。
だが、そこにあったのは空虚。そして、真冬の石の道よりも冷たい沈黙。
三匹の人間はただ、機械的に咀嚼しているだけだった。背景で何か絵の動いている箱が、その空々しいカラッポさを際立出せている。
『……ごちそうさま』
最初に動いたのは少女だった。たった一言そう言うと席を立った。
だが。
『まだ残ってるわよ』
『もういらない』
『残すと片付けが面倒だから、全部食べなさい』
『……』
女の発言に少女は席に戻ると、ふたたび黙々と食べ始めた。
そしてしばらくして、再び少女は『ごちそうさま』とだけ言うと、それ以上は何も言わずに去っていった。
リトルにはもちろん、彼らの会話がわかっているわけではない。
だが、言葉がわからなかろうが空気は読める。
これは、どういう事だ?これは親子の食事風景ではないのか?
リトルは今までの旅の中、いろんな動物の親子とも遭遇していた。兄弟同士で食べ物の奪い合いはよく見かけたが、たった一匹しか子供がいない場合、親が大事に餌を与えていたのを覚えている。そしてモフ子にしても、どんな餌のない土地でも、いつだって食べ物を持っていて、そして彼女自身が食べる前に自分に与えてくれた。
なのに、この親子はなんだ?
席を立った少女も気になるが、残っている男女も気になった。
だからしばらく、リトルは彼らの会話を聞いていた。
『ふん、あの女のとこに行かないの?』
『なんの話だ。おまえこそ何でここにいる?』
言葉の意味はわからない。
だが、それぞれの身体から目の前の相方とは無関係の異性の臭気を嗅ぎつけた時点で、言葉なぞわからずともリトルにも事情は知れた。
ふむ、この番は既に番ではないのか。しかし、ならばどうして一緒にいるのだ?
もちろんリトルには人間社会の構造などわからない。察しろといっても無理な話だった。
現実でも、子供がいるからという理由で別れないこの手の家庭の場合、そのしわよせが結局、浮き上がった子供に向かう事が珍しくない。この家庭の場合は暴力などには結びつかなかったものの、子供にとっていい環境が構築されているとは思えない。
リトルは少し悩んだ末、少女の方を見に行った。
少女の部屋は2階にあった。屋根が広かったので窓辺に近づくのも余裕だったが。
……?
ベッドと机はわかる。似たものがツンダークにもあり、机に向かうモフ子を彼は何度となく見ていたから。
もしリトルにこの世界の知識があれば、勉強道具の類が部屋に全くないのに首をかしげたろう。だが異世界人どころか人間ですらないリトルにはもちろんそれはわからなかった。
だが、ベッドサイドにある奇妙な装置のようなものは何だろう?
『……』
どうやら部屋に帰るなり、少女はその装置に向かったようだ。
リトルは知らないが、それはゲーム機だった。ツンダークに使うVRMMOマシンではなく旧世代のもののようだ。
『……』
もののない生活感の欠けた部屋で、にこりともせずに何かの装置に向かう少女。
もちろんリトルには、その意味はわからない。
しかしそんなリトルにも、少女がとてもさびしい生活を送っている事は感じられた。
時間が飛ぶ。
時制の違いはリトルにはわからない。だが少女が少し大きくなった事は理解できた。
そして、すっかり部屋にこもりっきりになっていた。
『彼女が気になるかしら?』
『……』
声の主が現れた時も、リトルはその方を見なかった。
『人間は、ひとりだちが遅いのよ。長い寿命と引き換えにね。でも彼女のように、両親にうまく守られない者もまた存在する』
『……』
少女の部屋に、また別の奇妙な機械が運び込まれた。
『あれは、彼女の世界とツンダークをつなぐ機械……VRMMOマシンというのよ』
少女は機械を起動し……そして、白い肌の女の子が現れた。
その女の子は外見も、そして行動も全く少女と異なっていた。だが確かに同一人物である事が、リトルにはありありとわかった。
『機械の向こうにある世界は、彼女にとっては開放だった。不仲な両親も、いたたまれない現実もない。逃げ道なのかもしれないけど、でも、それでも彼女には大切だったのよ』
そこには、現実には見られない彼女があった。大声で笑い、友達と語らい、そして真剣に悩む姿があった。
だが。
『やめてぇっ!』
『殺せ!』
『……』
ペット殺しが始まった。
『彼女がどうして凶行に至ったか、こうしてみれば一目瞭然よね。だってほら』
ペット殺しをしている女の子の顔。
『あはははは!』
ゲラゲラと笑い、暗い愉悦に寄っている顔。だが……目だけはまるで泣いているようで。
『悲しかったのね。ねたましかったのね。飼い主たちが?いいえ、ペットたちがよ。だって彼らは、彼女とは違う。とても、とても、可愛がられていたんですものね』
つまり、リアルで満たされない想いが歪み、自分より愛されている存在への攻撃衝動になっていたと。
『もちろん、他人に危害を加えている以上、いつかその責を負う時はやってくる。そしてその日はやってきた』
『そのナイフで自分の頸動脈をぶった切って。死に戻ったらログアウトしていいよ。おつかれさま』
『ん、わかった』
女の子は微笑んだまま腰のナイフを外した。
そして、そのまま刃を出して自分の首にあてると、シュッと手を横に滑らせた。
刹那、年齢対策なのか妙に色あせた血潮が飛び散り、女の子は光となって消えた。
その間、女の子の笑みは全く変わる事がなかった。
『!』
『想定外の敵に、想定外の方法であっさりと殺された。さぞかし衝撃だったでしようね』
『あは、あはは、あはははははっ!』
VRMMOマシンの中でしばらく呆然としていて、そして、ゲラゲラと笑い出した女の子。
『でも、あれで良い下地ができたのよ。歪んでいた人格が、方向性が一度整理され、新しい道に進める準備が整った。彼女には必要な事、通過儀礼だったと言えるでしょう。……ふふ。たまには、あの旧帝国のお嬢さんにも感謝してあげなくてはね』
『……おい』
『なぁに?』
この連続したトリップの中で、リトルは初めて自分から声を出した。
ちなみに、リトルが声の主……老婆と会話できるのは、リトルが人の言葉を話しているのではない。老婆の方がリトルに理解できるように話しているためだ。
『おまえなら、あいつがこうなる前に何とかできたんじゃないか?』
『打てたわね。でもその場合、貴方の育成係は別の者になったでしょうね』
『……』
『育てるものと育てられるものには相性がある。彼女以上の存在を見つけるのは簡単ではないわ』
リトルは、じろりと老婆の方を見た。
『彼女を独占するつもりなんでしょう?』
『……』
『単なるサーベルタイガーならば数十年。でも神となってしまえば、その時間はあまりにも長い。骨が石になるほどの歳月は、人の心には猛毒となりうる。
もちろん、人間は普通、そんな長い時間には耐えられない。だけどごく一部、例外が存在する。彼女のような存在ね』
『……』
『さてと。いけない、本題を忘れるところだったわね』
老婆はクスクスと笑った。
『過去の夢を見るのはあの子だけで良かったはず。自分の立場をきちんと再認識させるためにね。貴方まで見る必要はなかったのよ。まったく、彼は変なところで公平すぎるんだから。さ、戻りましょう』
『……』
『どうしたの?』
『……』
手を差し出す老婆を、リトルは不快げに睨め上げた。
そして、グルル……と静かに、しかし、不快さを隠さずに唸りを上げた。
『えっと……なぁに?』
『その手を引っ込めろ、そしてさっさと帰れ。誰に断ってオレに指図してんだ?』
『……あら』
老婆は一瞬、非常に驚いた顔をした。そして苦笑すると手を引っ込めた。
『ふふふ。やっぱり、彼女に託したのは正解だったみたいね。やっぱり』
『さっさと消えろ』
『はいはい、わかったわ。……ふふふ、懐かしいわね。あの頃を思い出すわ』
リトルの反抗をむしろ喜ぶように、老婆は姿を消した。
さっさと老婆を追い払ってしまったため、リトルは彼女の言葉を最後まで聞けなかった。
そしてそれは近い未来、モフ子にとても複雑な顔をさせる事になるのだった。
もう少しで、山での話がひととおり収束します。
猫科の動物は群れません。せいぜいが自分の血族しか認めません。
たとえば、オスライオンが新しく群れのボスになると、前のボスの血を引く子供を皆殺しにする事があります。前ボスの子は身内ではないのです。
当然リトルもそれに従います。
モフ子が平気なのは、自分のもの、家族と認識されているからです。母としてなのか異性としてなのかは別として。
そして、ラーマ神をリトルは身内と認識していません。上位存在とも認識しておらず、特に今回の件で、モフ子をふりまわす害敵と判断したようです。
もっともラーマ神にしてみれば、そういうリトルを、サーベルタイガーの本質を失う事なく成長したと受け止めています。それは神様的には好ましい事であり、ラーマはモフ子を高く評価しています。




