ゾアントロピー(2)
分割した残り部分です。
突然だが、モーフィング技術で顔が次々変わったり、人が動物になったりする動画を見た事があるだろうか?
あれは当時、非常に画期的な映像技術のひとつだった。現実には不可能な光景をつくりあげ、人々を驚かしたものだ。
だがしかし、考えてほしい。
もし、あの光景が現実に、目の前にあったら?人が目の前で、人間以外のものに変貌していくシーンを、まのあたりにしてしまったら?
それはおそらく非常に奇怪で、そして、もしかしたら鳥肌が立つほど美しいものなのかもしれない。
「ぐぉ……ぐぁああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
その瞬間、モフ子の顔が、手足が、一瞬で全てが獣相に包まれた。そして次の瞬間、その全身が一気に別のもの、ひとでないものに変貌をはじめたのである。
全身の産毛が獣らしい体毛に突然変化し、褐色の素肌がみるみるうちに毛皮に変貌していく。
両手のグローブが脱げ落ちた。手の形が突然に変わってしまったかのように。
両足のブーツが裂けて、中からたくましい獣の肢が現れた。
チュニックとホットパンツがビリビリと引き裂かれそうになったが、その前にフッと消えた。まるでアイテムボックスに勝手に収納されたかのように。
霊長類の平べったい顔が変型し、リトルと同じ猫科の顔に変化していく。髭が伸び、牙が伸び、口が裂けて形を変えていく。
臀部からひょろひょろと何かが伸びたかと思うと、それは長い尾だった。やっと開放されたと言わんばかりにゆらゆらと揺れる。
「……なんだこりゃあ……」
呆然としたエグチ君の一言は、そこにいたリトル以外の全員の気持ちをそのまま表していた。
あたりまえだ。目の前で獣人映画そのまんまの変貌シーンをライブでいきなり見せつけられたら、そりゃあ普通の人間はフリーズするだろう。わけがわからないだろう。
「……なんと」
そんな時だが、無意識にも相手を分析しようとしていたのは、ハゲデブのバマツ氏。
彼のウインドウには、こんなデータが見えていた。
『モフ子』種族:虎人間 Lv2 性別:female
特記事項1:守護者
特記事項2:神の意思による強力すぎる加護。
特記事項3:守護対象
特記事項4:神降ろし
スキル:爪攻撃、バインドボイス、サンダーブレイク、魔法攻撃無効
使命を受けた時、彼女はすでに人間ではなくなっていた。これは彼女のもうひとつの形態である。
リトルの生命危機、あるいは激しく激怒すると肉体に神気が流れ込み変貌する。あらゆる戦闘力が変身前の十倍に達するが、反面、人間としての意思はすでにない。獣の生命力に、人間の心でなく、人間の知識と判断力を兼ね備えた、まさに正真正銘の怪物である。
非常に強力で危機を脱し、強引に死の舞台を終わらせる機械仕掛けの神ともいえる存在だが、変身を繰り返すたびに人間であるモフ子も影響から逃れられない。最終的にはもはや人間に戻る事はなくなり、一頭のメスの獣神が生まれる事になるだろう。
【注意事項】
その存在の危うさ故に、彼女は常に神の監視下にあるといっていい。
彼女に、いわゆる人権は認められていない。彼女は神獣の子を保護し育てる、その一点のみに特化して存在を許されており、彼女の意思は一切そこに反映されていない。彼女は歩き、考え、移動する神社であり祠であり、巫女である。
そして古来、神獣を育成した者は、その神獣が無事成長を終えても開放される事はない。巫女なり神妻なり、形態は様々なれど、神獣の手元から開放される事はない。その神獣が滅びない限り永遠に。
もし、彼女が元ペット殺しである罪を問うというのなら、彼女の立場が本当に「贖罪もしないで生き延びている」と言えるのかという事について、今いちど議論するべきであろう。
変身にかかった時間は文を読むには短かった。だが戦闘中にサッと概要に目を通すくらいの余裕はあり、ゆえにバマツ氏も最後の【注意事項】の存在に気づいた。
(罰がうんぬんというのなら、この存在自体が罰という事か?)
ゲームの世界とはいえ、自分の意思も何もないプレイを半永久的に強要され続けるという事か?逃れる道があるとすれば、ツンダークというゲーム自体から撤退するしかないという事か?
近年は迷信扱いで廃れているが、日本には輪廻転生の概念がある。
モフ子の立場とはつまり、過去の悪行によって畜生道に堕したようなものではないか?
バマツ氏本人は僧侶ではないが、実家がお寺だったりする。そして、そのせいというわけではないが、そういう古い宗教的な観念が普通に彼の中にあった。
(なるほどな……ろくに調べず断罪しようとした、我らの方が誤りであったか)
バマツ氏は理性的な人間であり、自分を訂正できる勇気をもつ大人だった。ゆえに、その身体から、怒りや戦意が急速に抜け落ちていった。
そしてそのわずかな時間が、戦いの明暗をハッキリと分けてしまった。
「うわぁぁぁっ!」
「ガァァァァァァッ!!」
「!」
バマツ氏がハッと気づいた時にはもう遅かった。フリーズから解けたエグチがパニックに襲われ、衝動的に斬りかかってしまったのだ。
だが、戦闘力十倍というのなら勝ち目などあるわけがない。
「──ギッ!」
いまや、大きな獣と化した『モフ子だったもの』が前脚を一閃。それだけでエグチはあっさりと吹き飛ばされ、岩にぶつかり異音を発して止まった。
手足が、首が異様な方向に曲がっている。やがて痙攣が始まり……間違いなく死亡だろう。
「あ……あ……」
サンディは戦意喪失しているようだ。もはや動けないだろう。
そういえば、いつの間にかナベシマ青年の遺体が消えている。その光景について、バマツ氏は心当たりがあった。
「まさか、死の30秒か?しかしもう対処されたはず」
そこまで考え、いや、それどころではないと思い直した。
そして、改めて目の前の怪物を見た。
「……」
データには虎人間とあるが、日本の虎のイメージとは少々違っている。おそらく、サーベルタイガーを虎と呼称しているのだろう。巨大な牙は生えていないが、むしろ隣にいるリトルによく似ている。
そういえば、リトルも先ほどまでとイメージが違うようだ。
もちろん、これも見てみた。
『リトル』種族:サーベルタイガー Lv1 性別:male
特記事項:仮パートナー(モフ子)
特記事項2:神聖神獣語Lv1。会話用でなく、魔道言語として使われる。
スキル:情報連携Lv3
モフ子の変身をトリガーにして一気に成獣に進化を遂げた。
押しも押されぬサーベルタイガーのオスである。ただし現時点でLv70相当に達しており、そこいらの野良サーベルタイガーでは相手にならない。
(ふむ。今の『変身』に心奪われている間に進化したという事か)
ありえない話ではない。どういうタイミングで進化が起きるのか検証が必要だろうが。
さて。
残るは二人だがサンディもバマツ氏も戦意はもうない。
かといって、戦闘をはじめてしまったのはこちらである。殺されても当然文句はいえまい。
「……」
だが、怪物も襲いかかってこない。どうやら敵意なき者には興味がないようで、周囲を油断なく警戒しているがこっちに襲いかかる気配はない。
もちろん、こちらが戦意を示した途端に全滅させられるのだろうが。
そんな時だった。
「ニャー」
「……」
隣のサーベルタイガーが、やたらと可愛らしい声で怪物に呼びかけた。
「グルルル……」
「ニャー」
もういいよ、帰ろうよ、とサーベルタイガーが言っているように、バマツ氏にはみえた。
やがて怪物の方も「しょうがないなぁ」といった感じにサーベルタイガーに顔をすり寄せて。
そして二匹は、いや二頭はゆっくりと、寄り添いながら坂道を降りていった。……バマツ氏たちを放置したまま。
「……ふう」
しばらくたって怪物たちの気配がなくなってから、バマツ氏はためいきをついた。
当然、死んだ二人の遺体も無い。ログインの気配があるので、ギルド内チャットに切り替えた。
『皆、無事か?もしかして死の30秒だったか?』
『たぶんそうだと思います。畜生、対処されてなかったのか』
『でも妙だな。再現しなくなってる事は確認ずみのはずなのに』
『死に方によるのかもしれぬな。そこは検証が必要だろう』
『坊さん、そっちどうです?』
『こっちが戦意喪失したら、サーベルタイガーの方が止めに入りおった。今は二頭で仲良く下山していったわ。サンディとふたり、座り込んでおるところよ』
『わかった。どこかで落ち合おうぜ。色々ありすぎて情報整理しねえと』
『そうだな、とにかく移動しよう』
『おう』
死の三十秒と言っていますが、これは誤記ではありません。魔の三十秒(または死の三十秒)というのはβ時代の通称で、決まった呼称ではなかったもので。




