遺跡で(6)FIRST BLOOD
(FIRST BLOOD: 先手の意味。どっちが先にやらかしたか、くらいのニュアンスと思われる)
お風呂を再開したのはいいが、そうなると今度は蓄積した疲労が問題になってきた。
いや、グリディアに運んでもらったりしたので肉体的疲労はそうでもない。だけど高速馬車からこっち、なんだかんだで普段と違う眠りはふたりをそれぞれに疲労させていた。
ほむらぶは「先に身体洗うね」と先ほどのケ◯リンの洗い場を使っている。堂々とヒルネルの前に裸身を晒しているようにも見えるが、実はヒルネルの目線からは背中ばかりが見えている。何もしてないようでいて、隠すべきところは綺麗に隠していた。
これは今に始まった事ではない。友人だったり仲良しだったりしても、やっぱりヒルネルの中の人が元男性という部分はほむらぶには小さくない。無意識部分は正直だったというべきか。
ただ、以前とは明らかに違う部分もあった。
たとえば、洗う時間の長さ。
モスタル隧道のお風呂にも洗い場があったが、あの時のほむらぶは、いわゆるカラスの行水、つまりサッと洗ってあっという間に終わる感じだったはずだ。残りは湯船の中でまったり過ごしていた。
それが、妙に丁寧に洗っている。
また妙に素肌が赤い気がするのは、本当にお湯で上気しているだけなのだろうか?
もし、ここでヒルネルが正常な状態だったら、かつて男だった自分がつきあっていた女性のサインを思い起こしたのかもしれない。そして、ふたりの関係について色々と悩むところがあったかもしれない。
だが困った事に、今のヒルネルの方は普通の状態ではなかった。
精神的消耗。魔物に幻惑魔法をかけるという慣れない行動。それにここしばらく吸血を控えていた事もあり、本人も気づかないうち、ヒルネルは飢餓状態に陥りつつあったのだ。
血が足りない。
実を言うと、ヒルネルの魔力量はそう多くはない。吸血鬼という種族がもともと高い魔力と幻惑魔法系の素質を持ち、なおかつ『血』の力で何倍にもブーストされた力を使えるというだけで、連続して力を使い続けると魔力や血の力が一気に不足してしまう。
おまけに、ほむらぶに無理に合わせようとして昼間の活動が増えているのも問題だ。これもまた、ヒルネルの身体に負担を強いていた。
ヒルネルは、これほど連続して心身に負荷をかけた事がなかった。
今までは『お姉様』がヒルネルの体調を監視していた。疲労してきたら上手に休ませていたし、飢えそうだと思ったら即座に血を与えていた。ヒルネル自身が、自分がきっちり管理されていると自覚できないほど自然に。
だが今、その有能すぎる管理者はいない。
とどめに、こうしてお風呂に浸る事で、無意識に気を張っていたのを解除してしまった。
結果として、ヒルネルは強烈な疲労感と飢餓感に襲われていた。
(……血が欲しい)
しかもまずい事に、ゆったりと身体を洗っているほむらぶがすぐ目の前にいる。
そもそも吸血鬼の吸血欲というのは快楽を伴っている。というより、生命エネルギーを直接与える・受け取る・循環させるという行動が快楽をもたらすように吸血鬼の生体システムはできあがっている。中でも究極の快楽をもたらすのが循環なのだけど、かりにこれを人間のほむらぶ相手に行った場合、ほむらぶは一気に汚染されて吸血鬼に変貌してしまう。ただし、これだと急激過ぎる変化に精神が破壊され、ヒルネルの操り人形になってしまうのでもちろん論外。
で、次に気持ちいいのはもちろんエネルギーを受け取る行為。要は吸血なのである。
(……血が欲しいよぅ)
それは強烈な誘惑だった。
本音をいえば、ほむらぶの血を吸ったあと、自分のエネルギーを分け与えたい。そうすれば、ほむらぶはただちに昏倒してしまい、そして明後日の夕刻あたりには同じ吸血鬼として目覚めるだろう。
そうしたら、ふたりで血を循環させられる。あの、目もくらむような快楽の世界を、ほむらぶとふたりで共有できるのだ。
命ずるままに身体を濡らし、自分の身体を舐めまわすほむらぶの姿を想像してしまい、ヒルネルは一瞬、あまりの刺激に意識が遠くなった。
(……ない、ない。絶対それはない!)
膨れ上がる、気が狂いそうな欲望を、必死の思いでヒルネルは押さえつけた。
そもそも、無理やり吸血鬼になんかしたら、ほむらぶは永遠にヒルネルのものにはなってくれないだろう。ヒルネルの傘下という扱いになるから命令すれば従ってくれるだろうけど、ヒルネルが欲しいのは命令通りにしたがってくれる奴隷ではない。現在のほむらぶ嬢そのものなのだから。
だからダメだ。今はそんな事できない。
そんな事をズルズルと考えていたせいだろうか?
ヒルネルは、いつもなら当然きづくはずのそれに、全く気づく事ができなかった。
「どうしたの?調子悪いの?」
「!?」
見ると、心配そうな顔のほむらぶが目の前にいた。
ほむらぶは身体を隠していなかった。なんでとヒルネルは一瞬思ったが、ほむらぶの顔を見なおしてすぐに気づいた。
(心配、してくれてるんだ)
心配が先に立って、タオルがとれているのに気づいてないのだろう。
ヒルネルの中で、何かがフッと軽くなったような気がした。
そして気がつけば、真っ正直に自分の状況を告げていた。
「ありがとう。大丈夫、体調は悪くない。ただ血が足りないだけ」
「血。あぁ、そういう事?」
ほむらぶは納得したようだった。
「かなりきついの?」
「うん」
ふむふむ、とほむらぶは少し考えこむ。
「確か、吸血するだけなら相手には影響ないのよね?」
「献血レベルだと思う」
ヒルネルはそれだけ言って、もうひとつ付け加えた。
「あと、牙から吸血すると、最後に造血剤も一緒に送り込むみたい。ほむちゃんなら二時間くらいで元に戻ると思う」
「そっか。わかった」
そう言うと、なぜか横を向いて、
「アメデオ。ヒルネルがわたしを噛んでも、今回はヒルネル攻撃しちゃダメよ。できる?
え?いちいち言わなくてもわかる?……あんた本気で空気読めるわね、お猿なのに。ああ違う違う、ほめてるから!」
ほむらぶの言葉に視界を巡らせると、そこにはダガーを構えたアメデオがいた。
(これって)
そう。アメデオは、もしヒルネルが無理やり吸血しようとしたら刺すつもりだったのだろう。おそらくダガーにはヒルネルの最も苦手な、たぶん火炎系の付呪をつけて。
だが最もヒルネルが戦慄したのは、横でアメデオがダガーをかまえていたのに全然気づいてなかった事だ。
「……」
アメデオは「チッ、仕方ねえな」と言わんばかりにダガーを引き、湯船の外で腕組みをした。離れるつもりはないらしい。
「さぁ、もういいわヒルネル。わたしの血をあげる。ただし、後でわたしが倒れないようにはしてね」
「わかった」
いいかげん、もう限界だった。
ヒルネルは右手をほむらぶの頭に回し、そして左手を背中に回した。右手にそっと優しく力をかけると、ほむらぶは一瞬だけピクッとして、そのままヒルネルの導くまま首を傾け、ほむらぶの目の前に無防備な首筋をさらけだした。
ああ。
ヒルネルの心臓が、トクトクと激しく脈打つ。
はむっと、さりげなく食いつくと、その首筋は生暖かく、そして柔らかだった。ヒルネルが密かに気に入っているほむらぶの匂いが目の前いっぱいに広がって、さぁ噛め、味わえとヒルネルの本能をくすぐりまくった。
牙をたてた瞬間、ほむらぶの身体がビクッと震えた。
それが押し殺せない恐怖を伴う事をヒルネルはもちろん知っているから、左手でぽん、ぽんとほむらぶの背中を優しく叩く。
だいじょうぶ。だいじょうぶだから。
吸血鬼の吸血行為は、吸うだけでも相手に快楽を与える。痛みや恐怖と相殺して相手が暴れないようにするためで、原理は蚊の吸血のそれと同じ。蚊は吸血行為と同時に、疼きや痒みを起こさない工夫をするのだが、これはつまり、疼きや痒みで叩き潰されないための自然界の知恵なのだ。
だから。恐怖や痛みが収まれば、あとは当然。
「……んっ!」
ピクッと、ほむらぶの身体がはねた。
ヒルネルはほむらぶの後頭部から手を放し、脊髄のあたりに手を添えた。そして右手に軽く痺れるくらいの刺激を帯びさせると、スッと背筋に沿って、舌で舐めあげるようになぞった。
「っ!」
一瞬、電気でもかけられたかのように跳ねそうになったほむらぶの身体を、先回りして両足で抱え込む。
そしてその状態で、ゆっくりと、じっくりと、血を吸い上げはじめた。
(……)
実をいうと、ヒルネルもこんな吸血行為は未体験だった。
外でする吸血はどちらかというと戦略的な場面の事が多かったし、拠点での吸血はお姉様の誘導だったからだ。ついでにいうと、女を押さえこむ手順は遠い昔の男時代の房事の記憶によるもので、半ば無意識の事だった。
「ん……ぁ……」
ふと気づくと、ほむらぶが妙に艶かしい声を出していた。
冷静になってきた頭で、やりすぎたとヒルネルは眉をしかめた。緊急避難の吸血のはずが、ほむらぶを堕としかねない勢いでやらかしてしまったのだ。
(ま、まぁ大丈夫だろう。なんだかんだで大人だし)
ヒルネルもほむらぶも、見た目こそ若いが中の人はいい大人なのだ。いくらなんでも、このくらいで暴走する事はあるまい。そう、ヒルネルは内心焦りつつも、そう結論づけた。
だが、ヒルネルは忘れている。
人間は苦痛を克服する強さを持っている。どんな過酷な身体的苦痛を与える拷問であっても、精神的に発狂させる類のものでない限り、人間は慣れてしまう事ができる。人間は脆い生き物だが、そういう強さならちゃんと持っているのだ。
だが、どんな苦痛に耐える勇者であっても、快楽には余裕で負けてしまう。
ましてやほむらぶは、そういう方向にはむしろ疎い、言い換えれば無防備な女ではなかったか?
そのあたりから、ヒルネルは目をそむけた。
そして、その浅慮はもちろん、すぐさま我が身に跳ね返ってくる事になる。
(え?)
ほむらぶの息づかいが異様に激しいのに、ヒルネルは気づいた。
反射的に牙を抜き、口を離してほむらぶを押しのけようとしたのだが。
(え、ちょっ!)
湯船の壁に押し付けられてしまった。
まずいと思いつつもほむらぶに何か言おうとしたヒルネルだったが、ほむらぶの顔を見た瞬間にそれは無駄だと悟った。
(まずい。まずいまずいまずい!)
ほむらぶは、まるで狂戦士のように正気を欠いた目をしていた。おそらく意識はもうほとんど夢の中で、理性は壊れ、欲望の赴くままにヒルネルから快楽を引き出そうとしているのだろう。その欲望が満たされるまで。
これは非常にまずい。
何がまずいかって、このまま流されたら後で絶対に困ってしまう。
欲望は満たされたら消える。
ほむらぶが正気に返った時、どういう態度をとるのか?
遺跡探索というのは大変危険な仕事でもある。たとえば廃墟になった古いトンネルを想像してほしい。いつ崩れるかもわからず、何が出てくるかもわからない。そして、そういうトンネルは大抵、人里離れた場所にあり助けも呼べない。
そんな旅に、恋愛がらみの危険要素は大変まずい。
正直、ほむらぶには最後までついてきて欲しかった。今回の旅はかなり危険だという予感があって、おそらく自分とロミだけでは途中で引き返さないと死ぬ事になる。そうヒルネルは感じていたのだ。好き嫌いの感情を別にしても、ほむらぶ・アメデオコンビは大変有能でありがたい旅の道連れだった。
ぎくしゃくしたまま旅をする事はできない。
だが、ぎくしゃくした状態で離れてしまえば、二度と共に旅をしてくれないだろう。
何とかしなくては。
(南無三!)
ヒルネルは再び、ほむらぶの首筋に噛み付いた。
「!」
ほむらぶの身体がピクッと震えた。何かが極まったかのように一瞬だけ全身がひきつり、そして、ゆっくりと収まった。
(……う、うまくいったかな?)
今度ヒルネルが仕掛けたのは、麻痺の応用。麻痺催眠、つまり擬似的に金縛りに近い状態を作り出すものだ。
もっとも、高レベルの錬金術師は状態異常に強い耐性をもつ。だからこの麻痺攻撃は、ほむらぶを麻痺させるためではなくて、別の目的のためだった。そして、どうやらそれはうまくいったようだ。
「ぁ……はぁ……」
艶かしい声はつづいているが、今は余韻のようだ。待てばちゃんと意識も戻るだろう。
ヒルネルは牙を引き、そしてほむらぶの身体をゆっくりと動かし、湯船からあげ、横にした。アイテムボックスからバスタオルを二枚取り出してひとつを頭の下に、そしてひとつを身体の上にかけた。
あとは、ただ待てばいい。
落ち着いて意識がはっきりしたら、はじめての吸血で酔ったようだとフォローし軽く謝っておこう。そうヒルネルは思った。おそらく、なんだかわからないままに暴走してしまった事をほむらぶは気にしているはずだから、嘘でもちゃんと理由を示し、さらにこっちが悪いからと謝っておけば落ち着くだろうと。
こういう時はとにかく、不安にさせないことだ。
「ふう」
ふと見れば、アメデオがヒルネルをじっと見ている。
遠話は叩きつけてこない。もとより動物なのだから饒舌であるわけもないが、それ以前に、その意思表示には言葉なぞ不要だった。
『彼女に危害を加えたら、殺す』
そういえば、とヒルネルは思い出した。
ほむらぶがまだ男性キャラと併用していた頃、男のほむらぶと女のほむらぶで、アメデオの態度があからさまに違うとほむらぶがぼやいていた事。女だからナメられてるとほむらぶは解釈していたようだが、ママと思って甘えてるんじゃないかと友人たちは皆、言った。実のところヒルネルもそう言った事がある。
改めてアメデオを見た。その態度に、小さい頃、まだ存命だった実母にべったりだった自分の姿を見たような気がした。
「なるほど。君は本当にお母さんが大好きなんだね」
「?」
アメデオは不思議そうな顔をして、じっとヒルネルをして見返した。
その瞬間だけは、見た目通りの可愛いお猿であり、ヒルネルは思わず微笑んだ。




