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桜おばあちゃん

作者: 石動 友

 チュンチュンという鳥の鳴き声で、私は眼を覚ました。

 時計を見ると、予定より30分早く眼が覚めていた。

 ベッドから出て、カーテンを開く。

 今日は土曜日。小学校はお休み。そして空は予報通り晴れ。窓を開けると、春の暖かい風が部屋の中に入ってきた。

 うん、今日は良い天気だ。

 部屋を出てリビングへと向う。リビングでは既に起きていたパパが、パジャマ姿でテレビを見ていた。

「おはようパパ」

 リビングを通り抜けて台所へ向かう。

「ああ、おはよう麻奈美。どうした? 今日は休みなのに早起きだな」

「え? この間から言っていたでしょ。今日はこれから出かけるの」

 冷蔵庫から牛乳を取りだし、コップに注ぎながら答えた。

「ああ、そう言えば今日は吉乃神社に行くって言ってたっけ」

 コップの牛乳を一気に飲む。冷たい牛乳が喉を通り胃に流れ込んできて、まだ少しぼんやりしていた意識がハッキリする。

「そうだよ」

 食パンを袋から出して、トースターにセット。牛乳をもう一杯飲んでからイチゴジャムを用意して、パンが焼き上がるのを待つ。焼き上がるまで、台所から顔を出してテレビを眺めた。土曜日なので、この一週間で起こったニュースがまとめて紹介されている。

 今話題になっているのは、17歳の少年が別れた女の子を殺した事件。好きなのに、何で殺してしまうんだろう? よく解らない。

 テレビで殺された女の子の両親が泣いている映像が流れていると、後ろからガシャンと音がした。パンが焼き上がった。

 私はパンをお皿に乗せて、リビングへと持っていく。パパの座っているソファーではなく、地面に座った。

「なんだ、パパの隣は嫌か。お年頃だな」

 そんな私を見て、寂しそうにパパが呟いた。

「そんなんじゃないよ。ソファーだと食べにくいでしょ。大体、休みの日はいつもこうじゃない。急に何言ってるの?」

 私は、”お年頃”という言葉にとても不快感を感じた……。

「ああ、そうだね。ゴメンゴメン」

「おはよう……」

 その時ママが眠そうな顔でリビングにやってきた。ママは朝が弱いので、しょっちゅう寝坊する。

「ママおはよう」

「ん、おはよう。あら麻奈美、またそんなにパンにジャム塗って。いつも付け過ぎだって言ってるでしょう。虫歯になったらどうするの?」

 ママは私に注意しながら台所に向かうと、先にパパが淹れておいたコーヒーをカップに注いで、リビングに戻ってくる。

 パパもママもいつもコーヒーをブラックで飲んでいる。

 前に一度飲ませてもらったけど、ものすごく苦かった。パパとママはなんであんな苦い物を飲みたがるんだろう? 牛乳を入れたらちょっとは美味しくなったけど、私は牛乳だけの方が良いな。

「麻奈美、今日は神社へ出かけるんだっけ?」

 ママがパパの隣に腰掛けながら訊いてきた。

「うん」

 テレビを見ながら返事をする。

 コーヒーを一口飲んでから、ママは更に訊いてきた。

「ねぇ、やっぱりママたちがついて行ったらダメかな?」

 これはママがいつも私に尋ねること。

「いつも言ってるでしょ。ダメだよ、大人が来たら」

 そして、私はいつも通り答える。

「う~ん、そうなんだけどね。いつもお世話になってるし、一度おばあちゃんに挨拶したいと思うのよ」

 そこで、テレビに向けていた視線をママに向けた。

 ママは少し困った顔で私を見ている。

「……でも、おばあちゃんはいつも居るわけじゃないし、好きでしているから気にしなくて良いって言ってるよ」

 後ろめたくて俯きながら答えた。私はママに嘘をついている。

「そうなんだけどね……。うん、まぁ良いわ。いつか挨拶させてね」

 ママは小さく溜息をつくと、そう言ってまたコーヒーを飲み始めた。

「うん、解った」

 私は、少しだけ困った顔をして頷いた。

 テレビでは、まださっきのニュースが続いていた。


 パンを食べ終え、顔を洗って歯を磨き、身支度を済ませる。

 再びリビングに戻ると、2人はまだニュース番組を見ていた。

「じゃあ、行ってくるね」

「あぁ、いってらっしゃい。神社は桜が綺麗だろうな」

「変な人について行ったらダメよ。あと、あんまり遅くならないようにね」

 ママは未だに1人で出かけるのが心配のようだ。

「解ってるよ」

 リビングを出ようとしたら、ママがもう一つ付け加えた。

「それと、おばあちゃんによろしくね」

「うん」

 パパとママに手を振って、外に出た。

 2人に嘘をつくのは、やっぱり罪悪感があった。ママ達がおばあちゃんに会いたいのは解る。でも仕方ないんだ。

 自転車に鍵を刺すと道路まで持っていき、ペダルに脚をかける。

 だって、パパとママにはおばあちゃんが見えないんだから。

 そして私は吉乃神社へと自転車をこぎ出した。


 初めておばあちゃんに出会ったのは、2年前の春、私が9歳の頃だった。

 ちょうど桜が満開の頃、家族でドライブに出かけて、吉乃神社に寄ったのだ。

 神社には桜の樹があり、私達は境内を散歩して回った。

 パパとママは絵馬に書かれたお願い事をおもしろそうに見ていたけど、私はつまらなかったので独りで神社の裏手に回ってみた。

 そこはすごく見晴らしが良かった。

 神社は高台に建てられているから、ここからだと街を見渡すことができた。

 そして、そこにはひときわ大きくて、古い桜の樹が立っていた。

 私は景色よりもその桜の樹に見惚れてしまい、下から無数に分かれた枝とそこに咲く花を見上げていた。

「こんにちは」

 すると、突然樹の陰からきれいな着物を着たおばあちゃんが顔をした。

 あまりに突然だったのでビックリしたけれど、おばあちゃんはとても優しそうだったので、私もすぐ挨拶を返した。

「此処は良い場所だろう?」

 おばあちゃんはニコニコしながら話しかけてくる。

「うん、とってもきれい」

 私は人見知りする方だったけど、何故だかこのおばあちゃんはすぐに好きになった。

「麻奈美! こんな所にいたの?! 勝手に行ったらダメじゃない」 

 そこへ慌てたように、ママがやってきた。

 私が何も言わずに側を離れたので、心配になって探しに来たようだ。私を見付けると、溜息をついた。

 そしてママもここからの景色に気がついた。

「あら、良い景色ね」

「うん。マナも今おばあちゃんときれいだねって話してたの」

 すると、ママは不思議そうな顔をした。

「おばあちゃん? さっきおばちゃんに会ったの?」

 ママはおかしな事を言う。おばあちゃんは眼の前にいるじゃないか。

「ううん。ここにいるおばあちゃんと」

「……もう、変な事を言わないの。ほら、もう行くわよ!」

 ママは眉にしわを寄せて私の手を掴むと、無理矢理引っ張っていった。

「じゃあね、お嬢ちゃん」

 桜の樹の下にいるおばあちゃんは、今のやり取りを気にも止めず、ニコニコしながら手を振って私たちを見送っていた。

 裏手から出てきた私とママを見付けて、パパが近づいてきた。パパは私に裏手の事を聞いてきたけど、私が答えるより先にママが「別に大したことはなかったわ。ね、もう帰りましょう」と言って、私の手を引いたまま階段へと向かっていった。

 手を引かれながら、私はもう一度裏手の方へ眼を遣った。

 ママには、おばあちゃんが見えなかったんだ。じゃあ、あのおばあちゃんは幽霊だったのかも知れない。

 そう思った途端、なんだかとても怖くなった。

 次の日、私は幼なじみのケンちゃんにこの事を話した。ケンちゃんは霊感が強いらしく、前から時々幽霊を見るんだと言っていた。すると、

「あぁ、マナちゃんもあのおばあちゃんが見えるんだ」

 と、嬉しそうに言った。

「あのおばあちゃんはな、神社の守り神なんだってママが言ってた。ママも子供の頃はよくあのおばあちゃんに会っていたんだって」

 僕も時々あのおばあちゃんに会いに行ってるんだと、楽しそうに教えてくれた。ケンちゃんの話によると、怖い幽霊ではないようだった。

「そうだ、今度の休みに一緒に行ってみようか?」

「え?! ……でも、怖いよ」

 急にケンちゃんに誘われて、私は困ってしまった。やっぱり幽霊は怖い。

「大丈夫だよ、全然怖くない。マナちゃんが来たら、おばあちゃんきっと喜ぶよ」

 この間のおばあちゃんの顔を思い出す。確かに、あの時は全然怖くはなかった。

「……うん。じゃあ、行く」

 そして、私とケンちゃんはおばあちゃんに会いに行った。

 幽霊だと思うと、最初はやっぱり怖かった。だけどおばあちゃんは私がまた来た事をとても喜んでくれて、いろいろ話しかけてくれた。

 ケンちゃんは自分で言っていたように時々会いに来ているので、とても気さくにおばあ

ちゃんにとお話をしていた。

 私にはよく解らなかったけど、どうやらおばあちゃんは人の姿をしているけれど、本当はこの大きな桜の樹なのだそうだ。

 未練とか恨みとかを持って幽霊になった訳じゃないのなら、怖がることはないのかも知れない。むしろおばあちゃんはずっとニコニコしてすごく優しい。

 私は段々とおばあちゃんが好きになった。

 それ以来、私も時々おばあちゃんに会いに行くようになった。


 自転車を走らせて、私は吉乃神社へとやってきた。

 まず大きな鳥居があって、そこから長い階段が続いている。

 邪魔にならない所に自転車を止めると、階段を上っていった。長い長い階段を上り切ると、思わず大きく息を吐いてしまった。なんで神社の階段はこんなに長いのだろう?

 一息ついてから神社の中に眼を向けると、桜の木々にはきれいに花が咲いていた。たぶん八分咲き位。

 桜を見ると、改めて春だと実感するから不思議だ。

 桜にはいろいろな種類があるけど、私には神社に咲いているのがなんという種類か解らなかった。吉乃神社だから、ソメイヨシノだろうか?

 小さな境内には、私以外に訪問者は見あたらない。吉乃神社自体も無人神社だ。だからこそ、私は気軽におばあちゃんに会いに行けるんだ。

 拝殿の前で参拝を済ませるとは、私は裏手へ向かった。

 吉乃神社の裏手は、”裏手”と呼ぶにはずいぶん広い。中央に大きな桜があり、桜の正面はちょうど木々が開けていて、街の景色が一望できた。落ちないように、ちゃんと木製の柵もある。

 この場所は、隠れた穴場なのだろう。

 そして、この大きな桜の根本に、いつものようにニコニコしながらおばあちゃんが座っている。

「おばあちゃん、こんにちは」

「久しぶりだねぇ。よく来たね、麻奈美ちゃん」

「隣、座っても良い?」

「もちろんだよ、お座りなさい。でも、お尻汚れちゃうよ」

「そんなの気にしないよ」

 おばあちゃんの気の使い方がおかしくて、笑いながら私はおばあちゃんの隣に腰を落とした。

 たぶん、今時の子供は汚れるのを嫌うと思っているんだろう。おばあちゃんはここから動かないのに、どうしてそんな事を知ってるのかな。他の子に教えてもらったのかも知れない。

 私は樹に背中を預けて、上を見上げた。

 まるで傘の下にいるように、私たちは桜の花に包まれている。時々、風に花が揺られて隙間から光が差し込んでくる。

「おばあちゃんの桜はきれいだね」

 上を見上げたまま呟く。

「ふふふ、ありがとう。それより麻奈美ちゃん、そんな口を開けて見上げてたら、みっともないよ」

 言われて初めて、自分が馬鹿みたいに口を開けているのに気付いた。私は慌てて見上げるのを止めた。

「てへへへ」

 ちょっと恥ずかしくて、照れ笑いをしてごまかした。

「あのね、この間体育の授業で100メートル走が会ったんだけど、私一位だったんだよ」

「すごいねぇ、麻奈美ちゃんはスポーツが得意だものね」

 おばあちゃんは私が一位を取った事を、自分の孫のように喜んでくれた。

「うん! でもね、テストは苦手なんだ。前のテストではね……」

 私は最近あった出来事をいろいろおばあちゃんに話して聞かせた。嬉しかった事、悲しかった事。おばあちゃんは一つ一つの話をちゃんと聞いてくれて、一緒に喜んだり、悲しんだりしてくれた。

 やがて話が一段落して、お互い黙ってしまった。

 私が次に何を話そうかと考えていると、おばあちゃんが思い出したように訊いてきた。

「ところで、今日はケンちゃんは一緒じゃないのかい? 珍しいね」

 体が固まってしまった。

 目敏いおばあちゃんは、すぐに私の変化に気付く。

「何かあったのかい?」

 私はあえてケンちゃんの話を避けていた。本当は言わなければいけないのに、言い出せずに別の話ばかりをしていた。だから突然おばあちゃんの方から訊かれてしまった私は、口ごもってしまった。

「……うん。ちょっと喧嘩しちゃって」

 私はおばあちゃんの顔が見られず、視線を泳がせながら、なんとかそう答える。

「そうかいそうかい。たまにはそういう事もね、あるよ。でもちゃんとお互い謝れれば、また仲直りできるよ」

「…………うん」

「謝れないのかい?」

 解ってる。おばあちゃんに隠し事は出来ない。

 そもそもおばあちゃんに相談したくて、ここに来たのだ。でも、いざおばあちゃんに会うと、恥ずかしくて言い出せない。

 私は俯いてしまった。顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。

「話してごらんよ。その為におばあちゃんに会いに来たんだろう?」

「……うん」

 私の声は、すっかりか細くなっていた。

 でも、おばあちゃんの言う通りで、話を訊いてもらう為に私はここに来たんだ。ママには言っても解ってもらえないような気がして、でも長い間生きているおばあちゃんになら解ってもらえるような気がして、だから今日ここに来たんだ。

 だから、勇気を出して言わないと。

「あのね、私、生理が始まったの……」

 多分、すごく小さい声だったと思う。それでもちゃんとおばあちゃんの耳に届いたようで、いつもの笑顔を更にクシャクシャにして笑った。

「本当かい?! 良かったじゃないか。おめでとう。」

「……嫌だ」

「え?」

 俯いていた顔を上げ、おばあちゃんを見る。

「私、嫌だ。生理なんて来ない方が良かった」

 私の言う事が理解できないようで、おばあちゃんは困った顔をした。

「どうしてだい? 麻奈美ちゃんはこれからドンドン成長して大人になっていくんだよ」

「大人になんてなりたくない!!」

 私は自分の本当の気持ちをおばあちゃんにぶつけた。

「私、大人になんてなりたくない……」

 言ってから、私は後悔した。やっぱり、例えおばあちゃんでも言うべきではなかったかもしれない。おかしな事を言う子だって、思われるかもしれない……。

 私はまた俯いてしまった。

 でも、おばあちゃんはいつも通りの優しい声で、尋ねてくれた。

「……なんで、そう思うんだい?」

 おばあちゃんは、私を変な子だと思わず、ちゃんと理由を訊いてくれた。頭から否定しないで、私の気持ちを解ってくれようとしてくれている。

 私は、そんなおばあちゃんの優しさが、すごく嬉しくて、なんだか胸が温かくなるのを感じた。

 だから私は続けた。

「おばあちゃん、私怖いの。大人になるのが怖い」

 そして一端口を開いてしまうと、自分の抑えていた気持ちがどんどん溢れてきた。

「初めて生理が来るようになってから、私の中で何かが変わっていく気がするの。なんだか、私が私でなくなるみたい……」

 私は自分の手を見つめた。それは紛れもなく私の手なんだけど、まるで別人の手のような気がする。

「……ひょっとしたら、ケンちゃんと喧嘩したのも、その所為なのかい?」

 おばあちゃんは、やっぱり何でも解ってるんだな。

「……うん。最近ね、ケンちゃんとうまく一緒にいられないの。今までは平気だったのに……。

 私は女の子で、ケンちゃんは男の子なんだって、すごく意識しちゃうの。

 そしてね、なんだか、すごく胸がドキドキするの」

 言いながら、胸を押さえた。そう言えば、生理が始まってから、なんだか胸が膨らみ始めた気がする。

「だから、ケンちゃんと上手く話せなくて、喧嘩しちゃったの。

最近なんで俺の事避けるんだって訊かれて、私、なんて答えたら良いか解らなくて……。そしたら、ケンちゃん怒り出しちゃって。でも、上手く謝れないの……」

 話している内に、涙がポロポロ零れてきた。どうしてこんな風になってしまったのか解らない。

 するとおばあちゃんが、思ってみなかった事を言った。

「麻奈美ちゃんは、ケンちゃんが好きなんだね」

 そう言われて、ハッとなった。

「好き? 私、ケンちゃんの事が好きなの?」

 好き。言葉ではよく知っているけど、それがどんな物か、私はまだ知らなかった。これが、好きって言う事なのだろうか。この胸がドキドキする感覚が、気がついたらケンちゃんを見ている事が、好きって言う事のだろうか……。

「そうだよ麻奈美ちゃん」

 実感が湧かないけれど、言われると確かにそうなのかも知れない。マンガの主人公も誰かを好きになると胸がドキドキしていた。

 でも不意に、今朝見たニュースを思い出した。男の子が、好きな女の子を殺したんだ。

「……嫌だ」

 やっぱり、私は”好き”って解らない。

 好きになるのは本当に良い事なの? 私がケンちゃんを好きになっても、ケンちゃんが私を好きになってくれるかなんて、解らない。その時はどうしたら良いの? この気持ちはどうしたら良いの? ひょっとしたら、私のあの男の子みたいに、ケンちゃんを殺してしまうの?

 私、そんなの嫌だ!

「嫌だ。私ケンちゃんを好きになんてなりたくない。今のままが良い。ずっと今のままが良い」

 そうだ。今までは女の子男の子なんて関係なく、一緒に遊んだり、一緒に眠ったりした。お風呂にだって一緒に入った事がある。

 なのに、なんでだろう。今の私は、それが出来ない。

「大人になんてなりたくない。私はずっと私のままが良い」

 女の子と男の子じゃなくて、ただの友達のままで、ずっとケンちゃんと一緒にいたい。

「ねぇ、おばあちゃん。私は、なんで大人にならなきゃいけないの?」

 泣きながら、おばあちゃんに問いただす。

 だって、納得ができない。なりたくもないのに大人にされるなんて、ひどい。

 そうしたら、なんとおばあちゃんは笑い出した。

「何で笑うの?! 私は真剣に訊いてるんだよ!! バカにしてるの?!」

 私はカッとなって怒鳴った。

 きっとおばあちゃんは、子供の考えだと馬鹿にしてるんだ。

「ああ、ゴメンよ。馬鹿になんてしていないよ。ただね、みんな同じだと思ったのさ」

 その一言で、私の怒りは一気に引いた。

「みんな、同じ?」

「そうだよ。みんな同じ。どれだけ時代が流れても、みぃんな同じ事をおばあちゃんに尋ねるのさ」

 おばあちゃんは、懐かしそうに街の風景に眼を向けた。

「良いかい、麻奈美ちゃん。人間はね、命を繋いでいくために大人になるんだよ。

 子供はね、成長して、大人になって、また子供を宿すんだ。麻奈美ちゃんのお父さんもお母さんも、最初は子供だったんだよ。それが大人になって、麻奈美ちゃんを産んだの。

 そしてね、麻奈美ちゃんもいずれ立派な大人になって、子供を産むんだよ。

 そうやって、人間は命を繋いでいくのさ」

 おばあちゃんは、この裏手から観える風景を抱きしめようとでもするように、手を広げる。

「観てごらん。ずっと昔はね、ここいら辺は森だったんだ。それをね、人間達は何代も何代もかけて、この街を造ってきたんだよ」

 そして、また私の事を見た。

 涙はいつの間にか止まっていた。私はおばあちゃんの眼に引きつけられてた。

「麻奈美ちゃん、大人になる事を怖がっちゃいけないよ。

 確かに、今までとは違うように感じるかも知れない。でもね、麻奈美ちゃんは麻奈美ちゃんなんだよ。他の誰でもないさ。何も変わりはしないよ。

 それに、失ってしまう物もあるかも知れないけれど、得る物だって、たくさんあるんだよ。ね、麻奈美ちゃん。怖がる事なんて、なんにもないんだよ」

 おばあちゃんが、優しく優しく話してくれる。でも、

「……ゴメンおばあちゃん。よく、わかんない」

 おばあちゃんが何を言っているのか、私にはよく解らなかった。いや、解らないというかいうか、理解が出来ない。

 命を繋いでいくとか、パパやママが子供だったとか、私が子供を産むとか、解るような気もするんだけど、実感がまったく湧かないのだ。

「あぁそうだね。麻奈美ちゃんには、まだ早いかもしれないね」

 ごめんよと、おばあちゃんが申し訳なさそうに謝った。

「ううん、良いよ。ありがとう、おばあちゃん」

 よく解らなかったけれど、なんだか少しだけ、大人になる事を受け入れられそうな気がした。

「ねぇ、おばちゃんは、ずっと見てきたの?」

 私も、街の景色を観ながら呟いた。

「そうだよ、ずっとずぅっと見てきたんだよ」

「そうなんだぁ」

 それは、私には想像もできない事だったけど、おばあちゃんと一緒にいると、ほんの少しだけ昔の景色が視えた気がした。

 それから私たちは黙って、景色を眺めた。

 ときどき、心地よい風が私たちを撫でていく。

 不思議と、さっきまでの言葉に出来ない不安はなくなっていた。たぶん完全に無くなったわけではないと思う。でも、今は平気だった。

 この空と同じように、私の心はすがすがしく晴れていた。

 すると、表から鈴を鳴らす音が聞こえた。誰かが神社に来たようだ。そして、足音がこっちに近づいてくる。

 誰だろうと思い、私は曲がり角に注意を向けた。そして、私の思考は止まってしまった。

 ケンちゃんだ……。

 眼の前に現れたのは、ケンちゃんだった。

「あ、椎名も来てたのか……」

 ケンちゃんは気まずそうにそっぽを向く。

「ん、うん」

 私の胸は、またドキドキし始めた。

 ケンちゃんは曲がり角で立ったまま、動こうとしない。

「お……おばあちゃんに用があるなら、こっち来ればいいよ」

「でも……椎名いるし。おまえ、俺の事嫌いになったんだろ」

 ぶっきらぼうに、言い放つ。

「違うよ。私、ケンちゃんを嫌いになってなんかいない!」

 反射的に、言葉が出た。でも、そこから先の言葉が出てこない。

 胸のドキドキが止まらない。何を言えばいいのか解らない。私は胸元で震える手を強く握った。

「麻奈美ちゃん」

 その時、おばあちゃんが私のを呼んだ。

 振り向くと、おばあちゃんの笑顔があった。

 おばあちゃんの笑顔が、私に勇気をくれた。手の震えが止まる。もう、大丈夫。

 私はケンちゃんの方へ駆けていった。

「ケンちゃん、おいでよ」

「でも……」

 ケンちゃんは、戸惑っていた。

 ああ、そっか。ケンちゃんも一緒なんだ。ケンちゃんも怖いんだね。

 ケンちゃんが私の事を”マナちゃん”じゃなくて”椎名”って呼ぶようになったのは、いつからだったろう。

 こうやって、私たちは少しずつ大人になっていくんだ。

 私は笑いながら、ケンちゃんの手を取った。手のひらから、ケンちゃんの体温が伝わってくる。

 私はきっと、ケンちゃんが好きなんだ。

「ほら、行こうよ」

 返事を待たずに、手を引いた。私が急に駆けだしたので、ケンちゃんは引きずられるようについてくる。

「お、おい」

 本当に短い距離を、私たちは手を繋いで走った。

 そしておばあちゃんの前まで来ると、私はまたケンちゃんに向き合った。

「これで、仲直りだね」

「え? あ……ああ」

 ケンちゃんは何が何だか解らず、キョトンとしていた。

 その顔がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。

「おまえ、なんなんだよさっきから。おかしいぞ」

「ゴ……ゴメンね、あはははは」

 胸の奥にあったモヤモヤとした物がなくなって、すごくスッキリした。そしたら、今度は笑いが止まらなくなったのだ。

 ケンちゃんがそんな私を呆れた顔で見る。おばあちゃんは、相変わらずニコニコしている。

 笑いが収まると、途端に恥ずかしくなった。私は一体何をやってるんだろう。

「じゃあ、おばあちゃん、私先に帰るね」

「え? ちょっと……」

 ケンちゃんはさっきから私の突飛な行動がさっぱり解らないでいるようだけれど、おばあちゃんは不思議と解っているみたいだった。

「そうかい。気をつけて帰るんだよ」

「うん。ケンちゃん、おばちゃんに用があるんでしょう? 私、もう済んだからさ、ゆっくり話すと良いよ」

 呆気に取られているケンちゃんを余所に、私はそう捲し立てて2人に背を向けた。

「じゃあ、2人ともバイバイ~~」

 私は2人に手を振って、駆け足で裏手を後にした。

 何故今自分が走っているのか、よく解らない。ただ私はすごく興奮していた。なんだかジッとしていられないのだ。大声を出したい気持ちを堪えながら境内へと戻ってきた。

 そのまま階段まで行こうとして、辺りに咲き誇る桜に気付いた。

 そうだ、すっかり忘れていた。

 拝殿の方を振り返ると、屋根の向こうにおばあちゃんの桜が見えた。おばあちゃんの桜がやっぱり一番きれい。

 私はまた、風になったように階段へと駆けていった。




 階段を上り終えて、私は大きく息を吐いた。運動不足は否めないな。

「ほら、着いたよ」

 抱いていた香奈子を降ろしてやる。初めは自分で上ると言い張ったのだけれど、半分にも行かないうちに抱っこをせがんできた。まぁ、多分そうだろうと思っていたけれど。

「どう、綺麗でしょ?」

「うん」

 辺りに咲く桜に興奮して走り出す香奈子。

「あぁ、走ったら転んじゃうよ」

 注意した直後、案の定見事に転んで、堰を切ったように泣き出してしまった。

「ほら、泣かないの。どこか痛い?」

 抱き起こして膝や手を見てみたけれど、特に擦り剥いてはいないようだ。

 中々泣きやまない香奈子を抱いてあやしていると、階段を上る音が聞こえてきた。

「こら、なに子供泣かしてんだよ」

 第一声がこれである。

 声の主はケンちゃんだった。久しぶりにあって、最初の一言がこれとはずいぶん失礼ではなかろうか。

「別に私が泣かしたんじゃないよ。カナが転んじゃったの」

「そりゃあ、親の監督不行届だな。可哀想に。痛かったろう、カナ?」

 ケンちゃんは私の後ろに回り、少し前屈みになって香奈子に話しかけた。

「俺の事覚えてるか?」

「……ケンちゃん」

 しゃくり上げながらもしばらく考え込んで、香奈子が答える。

「そうだそうだ、ケンちゃんだよ。久しぶりだな。ちょっと見ない間にずいぶん大きくなったじゃないか。今いくつだ?」

「5さい」

 ケンちゃんが頭を撫でると、香奈子はすっかり泣きやんでしまった。

「落ち着いた? じゃあ、1人で歩こうね」

 降ろしてやると、懲りずにまた走り出した。でも、1度転んで学習したから大丈夫だろう。

「まったく、あの子は」

「ははは、ガキの頃のお前にそっくりじゃないか。お前もよくすっ転んでたよな」

 溜息を吐く私を尻目に、ケンちゃんはさも愉快そうに笑う。

「お願い、そういうことは言わないでちょうだい……」

 何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。これ以上何か言われる前に、私は仕切り直すことにした。

「久しぶりだね。調子どう?」

「ん? 悪かないよ。そっちも元気そうだね」

「おかげさまで。茜さんは大丈夫?」

 私たちは香奈子を見ながら会話を続けた。香奈子も私たちの事が気になるのか、時折、私たちの方を振り向く。

「どうだろうね。今回はつわりがひどくて大変そうだ」

 ケンちゃんの奥さんは、今二人目を妊娠している所だ。一人目の武弘くんは3歳になる。

「あ~~あ、奥さんが身重で苦しんでいる時に、旦那さんはこんな所で女性と逢い引きですか。妊娠中は旦那が浮気しやすいって本当なのね」

 私は処置無しと頭を振って、白々しく溜息を吐いてやった。

「お前なぁ~~。大体、行ってこいって言ったのは茜の方だぜ。せっかくお前が来たんだから会ってやれって。ったく、なんでおまえら仲良いんだよ」

 ケンちゃんは、頭が痛いと言わんばかりに頭を押さえて見せた。そして、何かを思い出し苦々しい顔でこっちを向いた。

「あ、それとお前、茜にガキの頃の話とかすんなよ。恥ずかしいったらねぇ」

「さ~て、何の事やら?」

 私は正面を向いたまましらを切った。

 私は別に変な事を教えたつもりはない。おねしょをしなくなるのが遅かったとか、素っ裸で外に出て親に怒られたとか、ヒーローごっこをしていて高い所からジャンプしたら足を折ったとか、そんな他愛もない事をちょっと教えただけだ。

「はぁ~~~」

 今度はケンちゃんが大きな溜息を吐いた。私はそんなケンちゃんを見てほくそ笑む。

「さて、そろそろ行こうかな。カナ、おいで」

 視線を合わせる為にしゃがんで呼び掛けると、香奈子は素直に戻ってきた。走り回っていたので、頬がピンク色に上気している。

「今から、おばあちゃんに会いにいこうね」

「おばあちゃん? 誰?」

「桜のおばあちゃんだよ。さ、行こう」

 私は立ち上がると、香奈子の手を引いて拝殿まで向かい、まず手を合わせた。香奈子も見よう見まねで手を合わせる。しかし、香奈子は手を合わせる事よりも、鈴の方が興味津々で、何度も鳴らそうとした。

 そして、私たちは裏手へと向かった。

 ここへ行くのは何年ぶりだろう?

 中学へ上がった辺りから、何故だかおばあちゃんが見えなくなった。成長するとおばちゃんが見えなくなってしまうのだと、その時ケンちゃんが教えてくれた。

 ケンちゃんのお母さんも、中学生位からおばあちゃんが見えなくなってしまったのだそうだ。そして霊感の強いケンちゃんも、やがて見えなくなってしまった。

 でも、私はおばあちゃんが見えなくなってからも、悩む度に神社の裏手へ行って、おばあちゃんに聞こえるように話をした。

 もちろん、返事は返ってこなかったけど……。

 やがて私は高校へ行き、大学へ行くために街を出た。そして向こうで結婚して、香奈子が産まれた。

 何度も一緒に里帰りはしていたけれど、香奈子をおばあちゃんに合わせた事はまだ無かった。たぶん、まだ香奈子には解らないと思ったからだ。

 でも、もう合わせても良いだろうと思う。

 拝殿の角を曲がると、そこには大きな桜の樹が、綺麗な花を咲かせていた。桜の樹の正面からは、街が一望できる。

 私はしゃがんで香奈子を後ろから抱きしめながら話した。

「ほら、桜の樹の下に、おばあちゃんがいるでしょう?」

「……うん、いる」

 香奈子のその一言で、私の胸は締め付けられた。

「そうだね。ちゃんといるよね」

 私には見えなくなってしまったけれど、おばあちゃんは確かにあそこにいるんだ。あそこにいて、ずっと私の悩みを訊いていてくれていたんだ。

 泣き出しそうなのを堪えて、続ける。

「じゃあママたちはここにいるから、カナはあのおばあちゃんとお話ししておいで」

「え~~?」

 不安そうに、香奈子が振り返る。まだ人見知りが激しいのだ。

「大丈夫。あのおばあちゃんはとても優しいから。ほら、行っておいで」

 そっと背中を押すと、おずおずと前に歩き出し、しばらく進むとまた不安そうな顔して振り返った。

「大丈夫だよ。ママたちは、ちゃんとここにいるからね」

 香奈子は頷いて、また樹の方へ歩いていった。

 子供の頃、大人になるのが怖かった時期があった。なんだか自分が変わってしまう気がして、不安になったのだ。

 その時、おばあちゃんが何故大人になるのかを教えてくれた。

 当時は何を言っているのかよく解らなかったけど、今ならあの時おばあちゃんが言った「命を繋いでいくために大人になる」という意味が、解るような気がする。

 いずれ武弘くんも、これから産まれてくる子も、おばあちゃんと会うだろう。私たちは、確かに命を繋いでいるのだ。

 きっとおばあちゃんは、笑顔で香奈子たちを迎えてくれる。

 私はおばあちゃんの大きな樹を見上げた。

 ああ、おばあちゃんの桜は、今年もとても綺麗だ……。

 揺れる木洩れ日の下、香奈子が樹の根本へと辿り着く。


「おばあちゃん、こんにちは……」



おしまい

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