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第八話

 猩々緋(しょうじょうひ)色の夢を見た。

 鮮やかな緋色の世界で、優しい腕に包まれる夢だ。

 俺は心の底から安堵しきっており、心の奥に不快な事を呟く澱は何処にも存在しなかった。

 自分の喉から、言葉とはつかぬ声が漏れる。未だ言葉を知らなかったのか、必要などなかったのか。それとも、教えられなかったのか。意味のある言葉を紡ぐことは出来なかった。

 その声に応えるように、暖かな手が頭を撫でていく。

 子守唄が流れる。とんとん、と拍子をとる背の手が、微睡まどろみを誘う。

「――」

 少女のような声がいったい何を呟いたのか。

 その頃の俺には知る由もなかった。

 もし最初からその言葉の意味を知っていれば、こんな事にはならなかったのだろうか。


 はっと目が覚めた。

 同時に全身のそこかしこを激痛が襲い、思わず顔を歪める。痛みはあるのに意識がはっきりとしないのは、血を失ったせいだろうか。

 視界が霞み、この場所が何処なのかも知れなかった。

 ただ、目の下に疲労の色を濃くしたきさらと、痛々しく包帯巻きにされたでこぱちが俺を覗き込んでいるのだけは分かった。

 安心するはずの顔を見ても、いまは息が苦しい。

 心の奥におりが鬱積し、呼吸を妨げている。

 この感覚には覚えがある気がして、漠たる記憶を手繰り寄せた。

 痛みが遠ざかるのと引き換えに澱の中から引き揚げたのは、右眼と右腕を失った時の景色だった。そうだ、あの時も鮮やかな緋色で視界が染められた。

 生死の境を彷徨う様な怪我を負い、床に伏した時の感覚があの時ととてもよく似ている。

 何より、心の奥に沈むおりの感覚が。

 あの時も俺は、『またやってしまった』と思ったんだ。



 耶八やはちと出会った場所は覚えていない。賽ノ地(さいのち)でないことだけは確かだが、まだ右腕があった頃、今以上に各地を渡り歩いている自分の場所に興味はなかった。

 何処から現れたかも知れぬあいつは、いつの間にやら俺の後ろをひょこひょことついて歩くようになっていた。

 名を聞いたのも何時だったか忘れた。俺より遥かに戦闘に秀でている事に気づいたのも、出会ってどれだけ経ってからだろう。

 本当に自然に、あいつは俺の隣にいたから。

 あいつは気まぐれで、すぐ路傍の草木に気を取られるから、常に一緒というわけではなかったが、それでも春秋を越してあいつと寝食を共にした。共に命にかかわる怪我を負ったのも一度や二度ではない。背を預けて戦った事は、指折るだけでは数えられない。

 いつしか俺は、心を許していた。あいつが隣にいる事で心のどこかに安堵を得ていた。

 心の奥に降り積もったおりが警鐘を鳴らしていたにもかかわらず。

 そして、あの時は訪れた。

 確か丁度、賽ノ地(さいのち)へとやってきてすぐの事だった。それだけはよく覚えている。

 しかし、何が切欠きっかけだったのかは、今となっては分からない。あの時の記憶は紗幕を通したかのように曖昧だ。もしかすると今回のように誰かを傷つけられたからかもしれないし、強い敵と戦っていたからかもしれない。もしくは、何の切欠がなくても覚醒するのだろうか。

 突如としてたがの外れた羅刹と化した耶八に、俺は襲われた。あの状態の耶八の前では、抵抗するのは困難だった。凄まじい速度と凄まじい力で俺をねじ伏せた耶八は、俺の赤目を狙ってきた。

 それでも、本当は避けようと思えば避けられた。

 右目に刃が迫ったあの瞬間、俺は、緋色の過去に絡め取られ、心の底のおりが囁く声に身をゆだねてしまったのだ。

 ああ、またか、と。

 また、大切なモノは俺を傷つけて消える。

 欲しいなら、右眼だって右腕だって、好きなところを持っていけばいい。

 一時でも平穏をくれたお前の気が、ただそれだけで済むというのなら。

 すべて諦めてただ刃を見つめていた俺を、灼熱の痛みと緋色の幕が襲った。痛みより何より、全身を覆う倦怠感を拭う事が出来ず、ひどく呼吸が苦しかった事ははっきりと覚えている。

 そうして俺は、片眼と片腕とを失った。

 此処に救いなど在りはしない。何かを求めて命を賭けて、賭けた命と『何か』を失う狭間の土地、極楽浄土の成れの果て。

 大切なモノを作るたび、俺は傷つけられて、失った。

 その度、心の奥の澱は重積を増していく。


 永い回想の中で夢現の縁を彷徨いながら、いったいどれほど経っただろう。

 ほんの少しずつうつつの側へと覚醒するようになった意識は、腹に負った傷が順調に回復している事を伝えていた。

 熱心に世話を焼いてくれるきさらの背に、ふと問いかける。

「……でこぱちはどうしてる?」

 するときさらは、振り向いてくすくすと笑った。

「青ちゃん、青ちゃんって騒がしいから、傷に悪いし追い出しちゃったの。隣の部屋ですねてるよ」

「そうか」

「呼ぼうか?」

「いい、うるさい」

 そう答えると、もう一度微笑んだきさらも部屋を後にした。

 静かになった部屋に、隣からでこぱちの声が響く。竹千代の甲高い声も混じるから喧嘩でもしているのだろう。やがてジジィの声がして、静かになった。

 そこでようやくこの場所が草庵の奥の間である事に気づいた。

 あちらこちらの記憶が曖昧だ。

 羅刹と戦闘し、美しく冷酷な羅刹女と対峙したところまでは覚えている。そして、何故か知らぬあやかしが俺たちを逃した事も。

 とにかく最後には無事に山を下ったらしい。

 それだけで十分だった。

 今は心の底に累積したおりの事も忘れて、ただ安堵したかった。

 その安堵がまた澱ませる原因になるのだと分かっていても、傷も痛みもすべてを忘れて、眠りたかった。



 再び意識が浮上した時には、かなり体が回復していることを実感した。

 腹の傷の痛みは引いて、血の不足による全身の気だるさも完全にとは言えないが払拭されていた。身体が弱れば心も弱る。身体が回復してきた今は、吐き気を伴うほどの倦怠感もほんの少し薄れていた。

 縁側へ続く木戸の隙間から光が漏れている。

 自分がいったいどれほどの時間横になっていたのか分からないが、腹の傷の具合から見て十日ですむ日数ではないはずだ。

 いまが朝なのか昼なのか、それすらも分からなかった。

 左腕に力をいれ、ゆっくりと上体を起こした。

 全身が軋み、ずっと動かしていなかった関節が悲鳴を上げたが、動けない事はなかった。床から抜け出し、立とうとしたが、さすがにまだ無理なようだ。痛いわけではなく、力が入らない。まるで歩き方を忘れてしまったかのようだ。

 それでも膝をついてずるずると縁側への木戸へ向かい、静かに開いた。

 薄暗い曇天が俺を迎えた。

 雨が降ってはいないようだが時間の問題だ。雨が降る直前、独特の匂いが周囲に満ちていた。杉の木が水を含んだ風に煽られ、ざわついた。

 しっとりとした風溜まりの中で、きさらは縁側に腰掛け、なにやら細工をしているらしい。

 俺が戸を開けて縁側に出てきた事に気づいて振り向いた。

「あ、駄目だよ、青ちゃん。まだ抜糸も済んでないんだから」

「大丈夫だ、少しくらい。動かないと体が鈍る」

 縁側に腰掛け、何やら細工をしていたらしいきさらをそのまま止め、横から覗き込んだ。

「何作ってんだ?」

「『緋珠ひじゅ』よ」

 見れば、艶々と光る小さな緋色の珠がころころと敷かれた紙の上に転がっている。

 一粒拾い、きさらの横に腰かけた。

 光にかざせばまるで紅玉のように煌めいた。掌で転がせるほどの大きさしかない珠だが、どうやら中には赤い液体がぎっしりと詰まっているようだ。

 見れば、彼女は細い硝子の棒を使って、瓶に詰めた濃緋こきひの汁液を一滴ずつ透明な膜の中に流し込んでいるのだった。

 器用なものだ。

「初めて見た。忍の道具か?」

「ううん。これは私が考えたの」

 またひとつ、紙の上に緋珠を転がす。

 角度を変えれば血にも見えるその色に、一瞬背筋がぞわりとざわめいた。

「いったい何に使うんだ?」

「見てて」

 きさらは今作ったばかりの小さな紅珠を近くの杉の木に向かって投げつけた。

 空を割いた珠は、ぱぁん、と弾けて、赤い液体をまき散らした。その液体は方々に弾け飛び、まるで本物の血のように広がる。

 羅刹たちと戦った時、倒れ伏したきさらの周囲に飛び散ったのはこれだったのか。

 ざわざわ、と背中を何かが這いあがる。

 鮮やかに飛び散る緋色に、再び過去を思い出しそうになり、慌てて木から目を背けた。

「これはね、本当は攻撃する時こっそり相手に当てるのよ」

「敵に?」

 首を傾げると、きさらは微笑んだ。

「そうしたら、大きい怪我をしたって勘違いした相手が退いてくれるかもしれないでしょう?」

 ああ、そうやって使うのか。

 成程、戦いを嫌う彼女らしい道具だ。

「ごめんね、青ちゃん」

「何が?」

「青ちゃんが怪我しちゃったのは私の所為だから。私が山に行かなかったら青ちゃんがこんな風に大怪我する事もなかった」

「でもその怪我を治すのはお前だろう」

「私は青ちゃんが怪我しない方がいいよ」

 それ以上、返答できなかった。

 きさらはそれを気にもかけないかのように続ける。

「あのね、緋珠の材料は紅の花なの。血の匂いは出せないけれど、色が似ているから」

 花を材料にしているからか、どこか、甘い香りがする。

 この香りには覚えがあった。

 いつもきさらから漂う香りとよく似ている。ほのかに甘い、優しい香りだ。

 その香りのもとを辿って、鼻をひくつかせれば、香りのもとはすぐに分かった。

 微かに色づいた唇についた香りと同じだったから。

「ああ、お前の紅と同じ匂いなのか」

「そうなの。裏の畑で紅花を育てて――」

 そこではっと息を止めたきさらを訝しく思い見上げると、吸い込まれそうなほどに澄んだ霞色かすみいろの瞳が近い。

「青ちゃん、ち、近……」

 匂いの元を追ううち、気がつけば額を合わせるようにして近づいていた。

 きさらが身じろぎする度、優しい香りが漂う。

 その香に惹かれ、気を抜けばその細い肩にもたれてしまいそうになる。安堵に身を委ね、優しい霞色の瞳に頼り切ってしまいそうになる。

 しかしそうする前に、心の奥の澱が警鐘を鳴らす。

 きさらは目の前で微笑むのに、血溜まりの中に伏したきさらが目の前にありありと蘇る。あの瞬間、心を抉っていった喪失感も。

――言ってるだろう? 大切なモノはいつも、俺を傷つけて消えるって

 分かってるよ。

 もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。

 ふいにきさらから離れ、視線をそらした。

 何とも言えない感情が胸の内を渦巻く。悪いものが内側から浸食してくる。

 と、逸らした視線の先に、ふと漆黒の翼が翻った。

 見れば、一羽のカラスが、じぃっとこちらを見つめている。杉の木の枝に宿り、俺たちの一挙手一投足を子細に眺めている。

 カラスなど何処でも見かけるはずなのに、何故かその視線が不快だった。

「どうしたの、青ちゃん」

 黙り込んでしまった俺に首を傾げたきさらには、何でもない、とだけ返答した。



 抜糸も済み、かなり回復する頃には、季節がすっかりと雨にとって代わられていた。

 雨の昼下がり、外に出るのも億劫で、竹千代を連れて町へと出たきさらを見送り、でこぱちと二人、縁側の木戸を半分だけ開けてぼんやりと外を見ていた。

 でこぱちの方は長続きする雨にもうかなり退屈しているようで、何か面白いものはないかと木戸の隙間から辺りをきょろきょろしている。

 すると、何か見つけたのか、嬉しそうに振り向いた。

「青ちゃん、誰か来た」

 でこぱちの指す方向を見れば、遥かから雨煙る中、笠が一つ、こちらへと近づいていた。こんな天候の折にこのような外れの草庵まで、殊勝な事だ。いったい、ここへ何の用があるというのだろう。

 軒下に入り、笠を取った姿を見てさらに驚いた。

 賽ノ地ではほとんど見かけぬ、髷を結った壮年の男性だった。この雨の中きっちりとした袴姿で、青藍せいらんの羽織も様になる堂々たる武士だ。名のある剣豪に違いない。それも、髷を結う習慣から考えると、北倶盧洲ほっくるしゅうの中央、江戸から来た可能性が高い。

 囲炉裏端で灰をいじくるジジィは土間に顔を出す気もないらしい。

 代わりに俺が縁側から返答するはめになった。

「何の用スか?」

 すると、その男は想像以上に深く低い声で答えを返した。

「拙者は、浅葱鷺之丞あさぎさぎのじょうと申す者。奇妙斎殿はいらっしゃるか」

 ジジィの客じゃねぇか。

「ジジ様、お客さんだよ」

 でこぱちが囲炉裏端のジジィを振りかえったが、動く気配はない。

「すんません、勝手に上がってください」

「失礼する」

 目礼もきびきびとしたその男は、笠を外に立て、土間からジジィのいる囲炉裏端へと入ってきた。

 その男を一瞥したジジィは、面倒くさそうに火かき棒を放り出した。

「おい。青、デコ」

「なんスか」

「どっか行っとけ。邪魔だ」

 しっし、と手で追い払われた。

 この雨の中、いったい何処へ行けというのか。病み上がりであまり無茶はしたくないのだが。

 仕方がない。回復具合を見るためにも、そろそろ身体を動かしておくべきだろう。

「行くぞ、でこぱち」

 嬉しそうについてきた相棒と、久しぶりに草庵の外へと繰り出した。

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