第七話
喉の奥と、胸の奥が焼けるように熱い。
その熱さに任せて、すでに力の抜けきっていた腕を渾身で動かし、奮い立たせた。
「天音さん、ボクの狙ってた子を勝手に獲らないでくださいよ」
血鎌を納めた剥の文句に、紅髪を乱した羅刹女が、赤黒く肥大した右手を翳しながら答える。
「誰がお前のって決めたわけぇ? しかも、やったのアタシじゃなくて弾次だし。あれ? 弾次、死んだ? 死んじゃった?」
地面に倒れ伏した仲間を指さし、けらけらと笑った羅刹女は、きさらの横で茫然と立ち尽くした玖音に狙いを定めた。
「ぼやぼやしてると残りもアタシが貰っちゃうよ~」
「やめろっ!」
完全に『戻ってきた』でこぱちが、二人の間に飛び込んだ。
しかし、明らかに動きが精彩を欠いている。
全身を染めるのは返り血だけじゃない。あいつ自身もどこか痛めているに違いない。
俺は震える手で、倒れた羅刹の傍に転がる刀を拾い上げた。
息が荒い。
吐く息が熱く、手脚は震えるほどに冷たかった。
「お、まだ立つか」
とんとん、と肩に大鎌を乗せた衝が言う。
「首でも跳ねりゃ、大人しくなるか?」
声が遠い。
距離も遠い。
薄い膜を一枚張った向こう側で響いているような声は、もはや俺の中に入ってはこなかった。
地に大きく広がる赤い円の中心に倒れたきさらの姿が瞼の裏にくっきりと焼き付いて離れない。
心臓の音が耳元で鳴り響いている。
胸の奥の熱さと裏腹に、心は酷く冷え切っていた。
この胸の内の熱さと手足の冷たさには覚えがある。
喪失感と焦がれるほどの後悔は、鮮やかな猩々緋と共に、記憶が穿ったものと同じだ。身内を喰い尽くす闇のような虚脱感が全身を包む。
心の奥に降り積もる澱のような重みは、心の動きを奪っていった。
痛みからではない震えが全身を支配した。
焦がれるほど熱い感情が胸を焼くのに、心の中は恐ろしく冷え切っていた。
――だから言っただろう? 大切なモノはいつも、俺を傷つけて消えるって
最初から諦めていればいい。
期待しなければ、願う事などなければ、大切になど思わなければ。
最初から、こんな感情を味わうこともない。
気の遠くなりそうなほどの痛みと、全身を覆う倦怠感。
もう、いい。
事あるごとに俺の目の前を過っていく猩々緋が、心の奥底の澱を増長させていた。
恐怖。
後悔。
喪失。
さまざまな負の感情が、痛んだ躰を蝕んでいく。
「めんどくせぇ……」
最後に吐き出したのは、予防線。
体は傷ついても、心は傷つけぬ為の予防線。
失った目から涙が流れる事はない。
その代わりに、ぱたた、と血滴の落ちる音がした。
ふらついたが、辛うじて堪え、杖代わりにした刀ががりがりと地面を引っ掻いた。
「何だ、もう壊れかけじゃねぇか」
衝の鎌の柄が鋭く空を裂いて突き出される。
がつん、と刀に強い衝撃があって、自分の体が吹き飛んだ。
抵抗する力もなく、地面を滑るように転がった。
立ち上がろうと手をつくと、じっとり濡れた感触が皮膚に浸透した。
ふっと見れば、血溜まりの中にうち伏した忍の少女の姿があった。
とても一人の人間から吐き出されたとは思えないほどの量の血が冷たく、ねっとりと手に絡みついてきた。本当にこれが、先ほどまで人間の中を流れていたなど信じられなかった。
血塗られた過去から襲いくる虚脱感が全身の力を奪っていく。
――俺は、同じ過ちを繰り返したんだな。
全身を充たしているのは、猩々緋色の過去と同じ、ほんの一握りの恐怖と、全身を蝕む後悔だった。
刀を放り出し、じわじわと浸みてくる液体の感触だけに意識を集める。
血を失った躰は、どんどんと冷えていった。
ふと見れば、羅刹女の鋭い爪にかかったでこぱちが倒れ伏している。それを庇った玖音も弾き飛ばされ、短い悲鳴を上げてとんだ。
「これで終わりぃ~? 弾次に任せんじゃなかった。アイツ、手加減ヘッタクソなんだよね」
地面に転がったでこぱちを容赦なく蹴り転がし、羅刹女はがりがりと頭をかいた。
「しょうがねぇな、じゃ、トドメさして帰るか」
天を突く鬼の角を額に、衝が再び両手の大鎌を構えた。
黄丹色の髪を揺らし、剥も血鎌を握り直す。
紅髪の羅刹女も肥大した右手を大きく振りあげた。
抵抗することもなく、目を閉じた。
ところが。
「随分と愉しそうだな」
そこへ、きつく張り詰めた弦を弾くような声が割り込んだ。
思わず声のする方を見てしまう、そんな緊迫感がその場を支配した。
新手、か……?
闇夜から音もなく、すぅ、と現れたのは、息を呑むほどの存在感を持つ羅刹の女だった。
ぞっとするほどの美貌に薄く笑みをのせ。
「無族の子らか? いや……」
怖ろしいほどに整った顔が薄明かりの中にぼぉっと浮かび上がった。
燐光を放つかと思わせるほどに白い肌。
鋭い視線を頂けば、全身が硬直してしまう。
「迦羅さまぁ!」
つい今まででこぱちを屠っていた羅刹女が、ぱっと顔を輝かせて駆けていった。
「ふふ、このような場所で我らに刃向おうとは」
羅刹は一人昏倒しているだけだが、俺たちは満身創痍だった。
でこぱちは声なく地面に沈んでいる。俺は腹を裂かれて重症、きさらは赤い池の真ん中に倒れ伏し、玖音だけは辛うじてよろよろと立ちあがり、ぴくりとも動かないでこぱちに寄り添った。
玖音に揺すられ、でこぱちも辛うじて顔を上げる。
この羅刹女は、確実にこの中で『最も強い』。
理屈ではなく肌で感じる何かがそれを告げていた。
白い肌、白銀の髪。鋭い目に収まるのは獣のように閃く秘色色。無機的な印象さえ与えかねない装いが、人間味を取り払うほどの美貌が、彼女を闇の中で際立たせていた。
「迦羅ぁ! ふざけんな、俺様の獲物を横取りかよ、いい趣味してんじゃねーか」
衝が矛先を変えた。
びきびき、と額の角に向けて血管が走り、口の端を縫い付けていた糸が切れそうに張っている。
そんな様子の衝すらも、一瞥してふっと一つ笑みを零すのみ。
羅刹女を背後に二人控えさせ、迦羅と呼ばれた白磁の羅刹女は俺たちの方へと一歩、踏み出し、唇の端を妖艶に上げた。
「ここで死ぬか?」
ざぁっと全身の血が退いた。
絶対的に、生き物としての格が違う。
刹那にそう悟った。
「迦羅さま、アタシが殺っていい?」
嬉々と尋ねた紅髪の羅刹女に、迦羅という羅刹女の背後に控えていたうちの一人が声を上げる。
「あっ、天音ずるい! 一人で勝手にあんなヤツらと行っちゃうしさ、楽しそうに戦ってるし……」
「いーじゃん、篝。アンタはずっと迦羅さまと一緒だったんだしぃ~」
「私も混ぜてよ」
舞い手のように薄絹を纏った鮮やかな出で立ちで躍り出たのは、こちらも目の覚めるような紅髪の羅刹女だ。羅刹としては嫋やかで繊やか。その繊細さにそぐわない、両手足に嵌め込まれた重い枷をがしゃりと鳴らした。
並び立つ紅髪の羅刹女たち。纏う空気はまるで正反対だというのに、対で動いているかのような印象を受けた。
「ふふ、無族にはちょっとばかし恨みがあるの」
唇に人差し指を当て、無邪気に微笑んだ羅刹は、結いあげた髪に差していた簪を引き抜いた。
「勝手に乱入してんじゃねぇよ!」
「そうですよ。ボクらの邪魔をしないでくださいます?」
無論、衝と剥も黙ってはいない。
「なに、やんの? アンタらから引き裂こうか? その口、もっと開いて顔真っ二つにしてやるよ!」
一触即発の空気がその場を充たした。
迦羅と、もう一人の羅刹女は止める気などなさそうだ。
ともすれば共倒れになるかもしれないその場を収めたのは、第三者の介入だった。
「お待ちください」
その場に、凛とした声が響き渡った。
同時に、突如としてその場に出現したのは細く括った浅縹の髪を翻す忍装束の女性だった。どこかから飛び降りてきたわけでもない。本当に、その場にふっと『現れた』。
しかし、髪の間からは鈍色をした三角の耳がぴんと立ち、後方にはふっさりとした尾まで生えている。紛れもない獣の姿は、ヒトではない。
あやかしだ。
何故このような場所にあやかしが、といぶかしむ。
あやかしは、頭を垂れ、膝をついた。
「お退きください。迦羅殿。ここで争うことは得策ではないはずです」
これだけの数の羅刹を前に一歩も退かず、凛とした声音で撤退を求める、このあやかしはいったい何者なのか。
俺には全く分からないが、そのあやかしを見た迦羅は美しい顔をほんの少し歪めた。
無論、歪めたところでその美しさは損なわれなどしないのだが。
「景元の狗だな。よもやこのような場所にまで足を運んでいようとは」
「此処はヒトの治める地。諍いが起これば、私どもは収めねばなりません」
「ふ、あやかしが無族の何を語る」
鼻で笑った迦羅だったが、辺りを一瞥し、肩をすくめ、俺たちに背を向けた。
「いいだろう。ここは、お前の主の顔を立ててやる……そこまでだ。引き返すぞ」
迦羅の言葉に、衝がいきり立つ。
「何だと?! 勝手に決めてんじゃねぇよ!」
辛うじて堪えていた衝の口の端の糸がぶちぶち、と切れ、耳近くまで裂ける口が大きく開かれた。
が、迦羅には全く動揺する様子も見られない。
それどころか、ひやりとした眼差しで見据え、静かに言い放った。
「何だ? お前も首を掻き切られたいのか? それならば私は一向に構わないが。それとも何か、お前の敬愛する主様の手に掛かりたいか?」
迦羅の言葉にぐぅ、と口を噤んだ衝は、酷く悔しそうにしながらもしぶしぶと従った。
こちらも矛を収め損ねた羅刹女が、未だ退くべきか迷っているようだった。
その躊躇を身取って、ずっと控えていた羅刹女が諭す。
「篝、天音も。やめなさい。見苦しいわ」
「なんだと、奏!」
「迦羅様の命が聞けないの?」
冷たく言い放った羅刹女に、二人はしぶしぶ武器を収めた。
どうやら迦羅という羅刹女の命に従って全員が退くようだ。
捨て台詞でも残していくだろうか、と思ったが、衝はでこぱちが地面に転がした最後の一人を肩に担ぎあげただけで、鋭い視線を残し、闇の奥へと消え去っていった。
静寂が舞い戻ってくる。風のない月夜、先ほどまでの死闘が嘘のようだった。
自分自身の呼吸が何よりも煩かった。
地面についた左手に、冷たい感触を覚える。
「きさら」
静かに、名を呼んだ。
たとえ、返答はないだろうと決めてかかっていたとしても。
地面に広がる染みは、明らかに致死量を越えている。その赤い水溜りに手に触れれば、その冷たさがますます心の温度を奪っていった。
ああ。
いつしか、心の奥の澱は満足したのか静まり返っていた。
玖音がでこぱちを支えてこちらに寄ってきた。
最後まで羅刹たちを警戒し、見送っていた忍装束のあやかしもきさらの傍に跪いた。
「きっ、きさらっ……!」
顔を腫らしたでこぱちが悲痛な声をあげる。
慌てて駆け寄ろうとしたが、怪我が酷いのかよろけて玖音に支えられた。
浅縹色の髪をした獣は、匂いを調べるかのようにくん、と鼻を鳴らした。
そして、微かに笑んで言う。
「大丈夫よ」
両腕が血に濡れるのも構わず、彼女はきさらを血の池から助け起こした。
その時、何故かふわりと甘い香りがした。
何だろう。
まるで花のような匂いに、はっとする。
この赤い液体は、血じゃない……?
「きさらは無事よ」
やさしく囁いたあやかしの腕の中で、忍の少女が身じろぎした。
「……きさら」
思わずもう一度名を呼ぶと、ゆっくりと、霞色の瞳に光が戻ってきた。
「……青、ちゃん……?」
慣れた声に、全身から力が抜けた。
血を流しすぎた躰は、とうに限界を越えていた。
奥底まで意識が落ちていく中、甘い香りが全身を優しく包み込んだ気がした。