第五話
背の高い草を縫うように駆けた。すぐ後ろをでこぱちが追ってくる。
「青ちゃん、急にどうしたの? きさらが何処にいるか分かるの?」
「東山だ。頃合いから考えて、さっきの羅刹と鉢合わせする可能性が高い」
そう言うと、さすがに事態を察したのか、息を呑んだ。
普段なら気にもならないはずの東山までの距離がもどかしいほどに遠い。早く早く、と急く気持ちを抑えて、灯りもない荒れ野を駆け抜けた。
辿り着いたのは東山の玄関口。沈んだ陽が微塵と残る黄昏時の終わり、慄然とする風が冷淡に吹き抜けた。さわさわと、葉摺れの音が粛然と響く。そこはかとなく血の匂いが漂っているのは気の所為だと思いたかった。
山の奥、水源地には羅刹の里があるという。賽ノ地へと下ってきた羅刹たちが、必ず通る関所になるのがこの東山の登山道だ。
まだ帰らないきさらがいるとしたら、ここしかない。
最悪の事態が脳裏を過ぎる。
と、そのまま東山の山道に入ろうかとしたその瞬間、上から何かが降ってきた。
「ちょっと、こんなところで何してんのよ!」
濃い紺青の忍び装束。
咄嗟に刀を構えかけたが、その影が見慣れたものであると思い至り、納めた。
「お前こそ何してるんだ」
「あたしは仕事中よ!」
腕を組み、偉そうに俺を見上げてきたのはきさらの友人でもあり、忍の仲間でもある玖音だった。
面倒なヤツに会ってしまったものだ。
到底、忍とは思えぬ大声で返答した玖音は、眉間にしわを寄せながら生意気な口調でまくし立てる。
「ここがどんな場所か分からないの? 今日が何の日なのかは知らないでしょうけど。知ってたらわざわざこんなところに来るはず……」
こんな場所で時間を喰っている暇などないというのに。
「どけ」
しびれを切らして強引に退けて通ろうとすると、両腕を広げてさらに抵抗してきた。
「駄目よ。仕事中だって言ったでしょ」
何の仕事かなど俺には関係ない。邪魔をせず、勝手にやってくれればいい。
「どけって言ってんだろ」
苛立ったところに、後ろについていたでこぱちがひょい、と顔を出しておねだりした。
「ごめんね玖音、通してくんない?」
「――っ」
でこぱちの顔を見た玖音は一瞬息を呑む。
「おれたち、ここ通っちゃいけないの? 通さないのが玖音の仕事なの?」
「通さないのが仕事ってわけじゃないけど」
「じゃあなんで邪魔するんだよー」
ぶー、と唇を尖らせたでこぱちに、玖音はつられるようにして叫んだ。
「この先は、危ないから、あたしはここで入るヒトがいないか見張ってるのっ!」
「そうなの? じゃあ、おれたちの心配してくれたんだね。ありがとー」
でこぱちがそう言うと、玖音は口をパクパクさせて黙り込み、そして、みるみるうちに頬が紅潮した。
ああ、もう、分かりやすいのは勝手だが、頼むから俺を挟んで展開しないでくれ。
「でも、おれたち強いからだいじょうぶだよ! だからさ、ちょっとくらいいいじゃん」
でこぱちがそう言って笑ったところで、決まりだった。
「……仕方ないわねっ」
酷く切羽詰まった状況だというのに、気を削がれ、俺は大きくため息をついた。
どこから依頼された仕事かは知らないが、完全に持ち場を放棄してついてきた玖音と三人で闇夜の坂を駆けあがる。
「それにしても、何でそんなに急いでるのよ」
そう言いつつもしっかりとでこぱちの隣を維持している事にも気付いたが、俺に害が及ばないのならば当人たちの問題だから、どうなろうと別に構わない。
「きさらがね、ここにいるかもって青ちゃんが」
「きさらが?!」
玖音の表情が揺らいだ。
きさらとは年の近い忍同士、仲良くしている姿を見かける事も多い。
「目的はさっきの羅刹たちに会うことだと思っていいわね?」
さっきの。
やはり羅刹たちはこの場所を通っている。
昼過ぎに山へと入ったきさらが、帰りに出会ってしまった可能性は高い。
「あたしが先導するわ」
「えっ、ほんと? 玖音、羅刹たちの居場所知ってるの?」
でこぱちが表情をぱっと明るくすると、彼女は慌てたように視線をそらした。
「か、勘違いしないでよね! きさらが危ないっていうからっ」
「ありがとー、玖音!」
ああ、もう、めんどくせぇヤツだな。
「先導するなら早く行け」
「煩いわね! あたしに命令しないでよ!」
……ああ、もう、めんどくせぇ。
玖音の相手はでこぱちに任せる事にして、俺は黙っていよう。
いくらか見受けられる獣道すらも避け、玖音は熊笹の生い茂る急斜面を選択した。先を往く羅刹たちに悟られぬ為か、道なりに進む時間すらも惜しいというのか。
この闇夜の中、足元の覚束ない斜面を突っ切るのは並大抵のことではない。
しかし玖音はこの斜面の角度など感じさせない軽快な足取りで登っていく。流石は忍、といったところだろうか。でこぱちも器用にそのあたりの草木を掴みながらひょいひょいとついていく。
残念ながら、俺の方はと言えば片腕で抜き身の刀を手にしたままでは、少しきつい。さらには間の悪い事に癒えきっていない右足の傷に負担がかかっているようだ。斜面の中腹を過ぎる頃には、二人から多少遅れをとっていた。
気づいたでこぱちが斜面を少し下って俺のところまで戻ってきた。
もちろん、それに玖音もついてくる。
「青ちゃん、だいじょうぶ?」
「先に行け。すぐ追いつく」
「やだよ、青ちゃんと一緒に行く!」
その瞬間、玖音から無言の圧力がかかる。
なんでお前ばかりが、と言わんばかりのその空気にもう一つ溜息。
「分かった、分かったから、代わりにこれ、持ってくれ」
そう言って左手に持っていた抜き身の刀を渡すと、でこぱちはいい返事をして受け取った。
片腕が使えるだけでも、随分と登りやすい。
結局三人並んで崖のような斜面を攻略し始めた。
すると、涼しい顔をして先導する玖音がぽつりと言った。
「あたしが言うのもなんだけど……らしくないわね」
「あ?」
「面倒な事は全部、たとえきさらの事だろうと放っておくと思ってたわ。今、これだけあんたが必死になってるのはすごく意外」
そう言われて、はたと気づく。
確かに、羅刹と闘争になるかもしれないという恐ろしく面倒な事態に自ら首を突っ込んでしまうなど、面倒事を嫌う俺らしくない。出来る限りの争いごとを避けて通るのが常だ。
それなのに、面倒だと思う暇は欠片もなく、考えるより先に動いていた。
俺自身もわからないほどの心の奥底で、何かを怖れた。
「ま、あたしには関係ないけど」
自分の中に生まれた違和感が膨れていくのを、ひしひしと感じる。
思い出してはいけない何かを思い出しそうになる。
目の前を鮮やかな緋色の衣が翻る。
今朝洗濯したばかりの緋色の着物は、まだ軒下に吊るされたままのはずなのに。
赤は嫌いだ。特に、酷く鮮やかな猩々緋のような色は。
違和感が膨れ上がっていく。
ああ、駄目だ。
虚脱感が全身を包み込む。
何かを怖れようとする時、何かを思い出そうとする時、何も求めるな、ただ傷つくだけだと奥底に澱のように澱んだ感情が不安も焦燥も何もかも絡め取っていく。
全身を蝕む澱みに任せて足を止めそうになった時、ようやく熊笹の斜面を登り切っていた。
暗闇が周囲に鬱積し、慣れていない目では辺りの様子を窺う事すらできなかった。この暗さに慣れるまでには、もう少しかかるだろう。
「時間的に考えると、この下の登山道のあたりだと思うわ」
ここは尾根だと思うのだが、登ってきたのと反対の斜面の下には闇が澱んでいるだけだ。
確かめるには降りるしかない。
と、でこぱちがぱっと闇の一点を指した。
「青ちゃん! いた!」
「静かにしろ。見つかるぞ」
最も、既に見つかっている可能性も否定できないのだが。
でこぱちを抑え、指された方向にじぃっと目を凝らすと、少しずつ闇に慣れてきた目が、おぼろげな赤を捕えた。
羅刹の背の痣が、闇の中からこちらを睨んでいた。
数えるまでもなく、数体の羅刹が足元の登山道を移動している。それも、かなりの速さだ。すぐに追わねば見失ってしまうかもしれない。
「玖音。お前はもう帰れ。邪魔だ」
「あたしに指図しないで」
「……なら勝手にしろ」
東の空から先宵の月が顔を出す。
微々たる光源だが、夜闇に慣れてきた目には十分だった。
視線で合図し、滑るように登山道へと駆け下った。
遠ざかるように移動していく羅刹たちを追いながら、彼らの意識が俺たちの側に向いていない事を悟った。彼らがただ移動しているだけなら、この距離で追っていて、気付かれないはずがない。
何かを追っているからか?
焦燥に、ざわりと背筋を悪寒が走る。
それと相反するように、心のどこかから囁きが迫ってくる。もういいだろう、と。面倒事に首を突っ込むのはやめろよ、と。その先に何の救いもありはしないから、と。
理屈ではなく動いた感情と、それを抑えつけようとする過去の何かが胸中でせめぎ合っている。
――大切なヒトはいつか、俺を傷つけて消えるから
襲い来る異物の様な澱みに、吐き気がした。
「青ちゃんっ」
小声で鋭く飛んだでこぱちの声に、はっとした。
見れば、羅刹の集団が道の脇に寄って留まっている。
俺たちもすぐに足を止め、道の脇に身を潜めた。
円を描くように集まった羅刹は男女混合で四体。中でも、一際図体のでかい褐色肌の男が目をひいた。肩から頭にかけて半身に刺青を刻んでいる。さらに、額から伸びているのは、あやかしの鬼から奪ったと思われる二本の角だった。
「追い駆けっこはもう飽きたでしょう、衝? そろそろボクに譲ってくださいよ」
黄丹色の髪をした隣の羅刹が手にした血鎌をくるりくるりと回しながら問う。
その視線の先にいるのは、周囲を羅刹に囲まれながらも気丈に苦無を構える忍の少女の姿だった。すでに足元は泥に汚れ、顔の横に結んでいたはずの髪は解け、頬にかかっている。
肩で荒い息をしながら、それでもまだ、霞色の瞳は光を失っていなかった。
「きさら!」
その姿を見た瞬間、でこぱちは駆けだしていった。
しまった。直情的な相棒の性格を勘定に入れていなかった。
こちらに気づいていない羅刹たちの隙間を縫うようにして、きさらを背に庇うように立った。
先ほどから預けていた俺の刀を足元へ置き去りにして。
勝ち目のある戦いではないのは分かっているのだから、逃げるしかないのだが、羅刹たちの前に飛び出したあいつは、そんなこと微塵も考えやしないだろう。
きさらが東山へ向かったと気づいた時と同じ感情が全身を駆け巡った。胸の内がかっと熱くなる。
その場に落ちていた刀を拾い上げ、面倒だと思うより先に飛び出していた。
らしくないぞ、と自分の中の澱みが囁いたのは、聞こえなかったふりをした。
羅刹の横をすり抜けるようにして駆け抜ける時、ついでに不意打ちで膝の後ろを強く蹴り飛ばしてやった。
重量のある羅刹の躰がもんどり打つように跳ね、地面に叩きつけられた。
羅刹は四体。
つい今しがた転ばせた褐色肌の大男と、血鎌を手にした黄丹色の髪の羅刹。そして転がった大男を指さし、大口開けてげらげらと笑うやたらやかましい瑠璃色の衣を纏った羅刹と、目を奪う紅髪の羅刹女。
「ハチ。青ちゃんと、玖音まで」
茫然としたきさらの声。
気丈に振る舞っていても、その語尾は震えていた。
「このまま退くぞ、でこぱち! 玖音!」
「ちょっと、呼び捨てにしないでよね!」
言い返しながら、玖音は放心しているきさらの手を取った。
「全員、息止めなさい!」
次の瞬間、ぼうん、と鈍い音がして、辺り一面に煙が立ち込めた。
玖音の放った煙玉だ。
月明かりだけの晩、これで完全に視界を奪える。
事前の確認も、合図も何もなかったが、全員が弾けるように駆けだした。