第二十二話
町奉行が昏倒したところに、毒から立ち直り、刀を構えた耶八がやってきた。
「トドメさす気、ある?」
「……ねぇよ」
「じゃあ、おれがトドメ、さしちゃおう」
「やめろ、耶八」
俺の言葉で、耶八は刀を引いた。
しかし、その瞳に宿る闘争心は未だ燻っている。
かろうじて俺の声が届く今の内に、戻さねば。
「おい、こっちこい」
耶八を呼ぶと、眉間にしわを寄せてむっとしながらも俺の方へ寄ってきた。
その皺の寄った眉間に、刀の柄を強めにあててやる。
突然の衝撃に仰け反ったでこぱちは、何が起きたかわからない、という顔をしてきょろきょろとあたりを見渡した。
「……あれ?」
何かおかしい、と思いつつも、自分でもよく分かっていないのだろう。
内に潜む、羅刹の事など。
辺りを見渡す相棒が視線を止めたのは、つい今したが倒したばかりの町奉行だった。
「あいつ、生きてる?」
「ああ、たぶんな」
俺の一撃で気絶しているか、玖音の毒で動けないかのどちらかだ。
「じゃあ、殺っちゃう?」
そうだった。でこぱちもこういうヤツだった。
はあ、と一つ溜息。
が、刀を構えるでこぱちと町奉行の間にふっと影が差した。
上から飛び降りたわけでもなく、そのばにふっと現れたその影は、忍び装束を纏ったあやかし。
町奉行を庇うようにして現れたのは、朋香だった。
苦しげな呼吸は、きさらが調合し、玖音が使った痺れ玉のせいだろう。
「景元様」
静かに呼ぶ朋香の声に、町奉行の指がピクリと動く。
が、すぐには動けない筈だ。
朋香はそれを察し、自分も毒が効いてふらふらとしているというのに、体格のいい町奉行の下に入り込んで背負った。
顔を上げたケモノの瞳が闇夜に光る。
何かのまじないか、化け狐の幻術か。
次の瞬間には、二人の姿がその場から消え去っていた。
最後に振り返った朋香の悲しそうな顔だけがやけに印象深かった。
俺は、恐る恐る地面に伏せる老人の元へと向かった。地面に広がる血だまりは戦闘で踏み荒らされ、寄ってたかって毟られた様になっていた。
ゆっくりと歩み寄ったが、身体まであと一歩、その距離が踏み出せなかった。
いつのまにか倒れ伏していた、きさらやでこぱちの時とは違う。
目の前でジジィがあの刀に貫かれるところを見ていたのだ。
俺の右側にはでこぱちが立ち、左手にそっときさらの細い指が重なった。その指は震えていた。
「ばかやろぉ」
ああ、もう、どうして俺はこう、いつも少しだけ遅いんだ。
あんなくそジジィ、死んでしまっても構わない。
今まで散々こき使われ、馬鹿にされ、挙句の果てに――
ああもう、めんどくせぇ。
最悪だ。
こんな感情、最初からなければいいのに。
だから大切なモノを大切だと自覚するのは嫌だったのに。
「泣いてる」
きさらの指が、そっと左の頬に触れた。
泣いている。
そんな自覚はなかった。
「泣かないで」
隣の相棒も両手で顔を覆っていた。
霞色の瞳が潤み、頬を涙が伝った。
「それはこっちの台詞だ」
自分自身の血で赤く染まった左手が拭った頬には、赤く筋が残った。それでも次々あふれてくる涙が、その血も滲ませていく。
地に伏した体を見ていられず、くるりと背を向けた。
肩を震わせたでこぱちを、きさらを見て、俺は唇を噛んだ。
これが失って悲しいという感情なんだな。
胸の痛みを抱え、俺は決意する。
俺はもう泣かない。
お前たちが代わりに泣いてくれるのなら、俺はもう泣かない。
ところが、背後からふーっと煙を吐く音がした。
「やれやれ、このまま死んで土に還るってのもいいが、焼かれて空に昇る方が嬉しいんだが」
背後から声。
聞きなれたしゃがれ声だ。
「……は?」
自分からこれほど間抜けな声が出た事が、未だかつてあっただろうか。
振り返った俺をあざ笑うかのように、煙管を吹かすジジィの姿があった。
「何呆けてんだ、青。そんなに死んでいて欲しかったのか?」
そして鼻腔をくすぐる、ほのかに甘い香り。
きさらと同じ香り。
先ほどまでの虚脱感は一瞬にして吹き飛び、全身の血が沸騰する。
「きさらの『緋珠』かっ……!」
じゃあ、先ほどの戦闘は。
刀は。
ジジィに刃を向けた町奉行は。
怒りの方向が定まらず、隣でぽかんと口を開けるでこぱちの額を思い切りはたいてやる。
「いってー、何すんだよ、青ちゃん!」
それでも全くおさまらず、きさらを振り切って左手の刀を握り直し、ジジィに斬りかかった。
「死ね! もっかい死ね! くそジジィ!」
二度も同じ過ちを繰り返すなんて!
しかし、いきり立って斬りかかった俺が地面に伏せられるまで、ほんの数秒も持たなかった。
俺の上にのしかかった老人は、煙管の煙と共に皮肉を吐いた。
「こんな甘っちょろいヤツを放り出して死ねるか、阿呆」
ジジィの言葉に返せるはずもなく、今度はうれし涙を流すきさらとでこぱちを見上げることしかできなかった。
気が抜けたせいだろうか、全身の痛みが舞い戻ってきた。
ああそうだ。骨も折れているんだった。
早いところ自分の上に圧し掛かるジジィをどかさないと……
安心したような、腹立たしいような。
そのまま気を失ってしまいたかったが、痛みはそうさせてくれそうにもなかった。
俺はこれからを思ってため息をついた。
あの日から3日。
政府側の動きはまだない。
あの襲撃はいったい何だったのか。
確実に刀で貫かれていたのを見た。が、あれがもし演技だったと言うなら、必ず相手の協力が必要な筈だ。ジジィが町奉行とにいったい何のつながりが。
でこぱちときさらはジジィが無事に生きていただけで満足している。
ジジィは俺が何度問い詰めても決して吐かなかった。
相変わらず、分からないことだらけだ。
ああもう、苛々する。
目の前では相変わらず玖音がでこぱちと竹千代の相手をしている。
俺は相変わらずぼんやりと縁側に座ってそれを見ている。
これまでと何も変わらない。
あれだけの事があって、変わらない筈がないというのに。
ただ俺の右腕の付け根は、肩まで大きく固められていた。半月は絶対安静。きさらにそう言い渡されて。
きさらは裏で洗濯ものを干し終わったのか、大きな籠を抱えて戻ってきた。
「退屈そうだね、青ちゃん」
面倒なので返事をしないでいると、きさらは俺の隣に座った。
周囲に烏の気配がないか見渡す癖がついたのは、ある意味仕方のないことかもしれない。
烏の姿は見当たらなかった。が、ふと気配を感じて草むらを見やる。
烏ではない。敵意もない。
一体なんだ……?
注視していると、草むらからがささ、と現れたのは、腹に包帯を巻いたキツネとタヌキだった。
きさらの姿を目にした瞬間、まっしぐらに彼女に飛びついて行った。
「見つけた!」
「見ぃつけたぁっ」
ふっさりとした尻尾をぶんぶんと嬉しそうに振りながら。
驚きながらも迎え入れ、きさらは飛び込んできたタヌキを膝に乗せた。キツネはきさらの後ろから肩に飛び乗る。
くすぐったそうにしながら、きさらはケモノたちを撫でた。
「元気そうだね。よかった」
「元気ちゃうねん。こいつのせいで頭痛いねん。こいつ、俺の頭の後ろゴンって殴ったんや!」
隣に座っている俺の膝を尻尾でべしべしと叩きながら訴えるタヌキ。
ごめんね、タンコブになってるね、と優しく撫でてやるきさら。
確かに事実なのだが、非常に理不尽な気がするのは何故だろう。
思わず喧嘩腰の口調になる。
「で、何しに来たんだ、お前ら」
タヌキはきさらに撫でて貰ってご満悦のまま、のんびり返答した。
「お前とあっちの黄色を呼んで来いって言われてん」
「俺たちはただの使いだ」
「誰が呼んでんだ? お前らの頭か?」
それだったら絶対に行かないが。
「ちゃうちゃう。呼んでんのは、お奉行さまや」
「場所教えるからさっさと行け」
きさらの背中に張り付いたまま、しっし、とふさふさの尻尾を振るキツネ。
あの尻尾を引っ張って地面に引きずり降ろしてやりたい。
しかし、呼んでいるのがあの近松景元だという。危険な気はするが、知りたいことが多すぎるのも事実だ。
何か真実の欠片でも知ることができれば、俺の中の苛立ちが少しは消えるかもしれない。
逡巡は一瞬、俺はでこぱちを呼んだ。
近松景元が指定した場所は、花街の一角に在った。
指定された夜刻を待ち、足を踏み入れた花街の空気は嫌いではない。
鮮やかな色彩と高濃度の芥子の香りが充満する場所を、何故かとても懐かしく思うから。
何処ともなく漂う芥子の香りは、心落ち着けてくれる。
明らかに花街と縁のなさそうな俺たちは嫌な顔一つされず、案内された何枚もの襖の向こう、甘い香りとしめやかな空気が満ちた絢爛なその部屋に、その男はいた。
「来たな、悪童ども」
そこに待っていたのは、つい数日前に死闘を繰り広げたばかりの男の姿だった。
朋香の姿はなく、しかし代わりに幾人もの華やかな女性が取り巻いていた。
「何の用だ」
機嫌悪くそう言うと、町奉行は侍らせていた女たちをすべて部屋の外へ追い出した。
最初から追い出しておけよ、とうい俺の心の声は届かない。たとえ届いたとしても、この町奉行は気にもかけないだろう。
町奉行は、場所に似合わぬ密談でもするように、声を潜めた。
「呼んだのは他でもねぇ。お前たちに頼みがあっての事だ」
「頼み? 町奉行のお前から盗賊の俺たちに?」
「お前たちはこれから盗賊じゃなくなるんだよ」
俺が眉を寄せると、町奉行は一瞬だけ真剣な顔に戻った。
「お前たちには、賽ノ地を守る為、隠密として江戸に出向いて欲しい」
すぐには意味が理解できなかった。
しかし、これまでに起きた様々な事を思い出し、一つ一つを解釈していく。
ああ、そうか。そういうことか。
ジジィも知っていたのか。
わざわざ目立つように現れたのも、演武と言ったのも、俺たちの力に合わせて戦ったのも、最後にやられたふりをしたのも。
だからあの時――
「……今回のこれは、ただ中央政府を欺く為だけの芝居かっ」
思わず絞り出すようにして呟いていた。
返答の代わりに返された笑みが肯定の証拠だ。
こいつと烏組が草庵へと現れた時、この上ない最悪だと思った。
だが、あれはどん底ではなかったようだ。
「全く、気にくわねぇ。お前はすべて知っていて、俺たちを狙ったな?」
奇妙斎と名乗るあのジジィが昔、『鬼』と呼ばれた手練であったことも、お耳として政府に仕えていた事も、今も政府とのつながりを断っていなかったことも。
すべては、俺たちを『こう』するため。
首を傾げた隣の相棒がどこまで理解したかは甚だ疑問だが、なんとなく騙されていたような気がする、ということだけは理解したようだ。
そして、敵対していた筈の目の前の男が敵ではないということも。
政府から俺たちに、賽ノ地町奉行所を警戒するための隠密になれというお達しが来る事を予見していたのだろう。だから、わざと俺たちとの敵対関係を作り、分かりやすく表面的な対立を打ち出した。
俺たちが賽ノ地と対立し、中央政府の為に働くだろうことを印象付けるため。
「お前たちを欲するのは何も中央政府だけじゃねぇんだよ。この混乱の時代だ、使える手駒は多い方がいいだろう?」
「俺たちを使う気か?」
「当たり前だ。だってお前たちは、俺の味方だろう?」
にぃ、と笑った町奉行の言葉に、反論を持たない。
羅刹城がこの地に誘致されれば、賽ノ地に住む人々がすべて危険にさらされる。もちろん、きさらもその外ではない。
この町奉行は俺たちがそれを望まぬ事などお見通しだ。
俺たちの望まぬことと、この町奉行が望まぬことは、図らずも同じ結果を求めた。
それは、賽ノ地への羅刹城誘致を撤回させることだ。
自分が汚れ役を買って出てでも駒を一つずつ手に入れ、目的へ向かう。
この男の信念は、やはり強い。
勝てない。
どうしても、この男には勝てない。
悔し紛れにぼそりと呟いた。
「……下種野郎」
「その台詞は、お前さんみたいな青くさい少年に言われても嬉しかねぇんだよ。ほら、きさらちゃん呼んでこいよ、きさらちゃん」
「ふざけんな」
こいつは中央政府の内情を探る為に俺たちを送り出す気だ――中央政府直属の隠密という名で。
その実、俺たちは賽ノ地に羅刹城が誘致されることを防ぐよう働く。
つまりは、二重間者。
めんどくせぇ。
いったいどこからどこまでが偶然で、どこからどこまでがこいつの計算だったんだ? 烏組は? 江戸から俺を迎えに来たという浅葱鷺之丞は?
何処から何処までが味方で、何処からが欺くべき敵なんだ?
一連の出来事を思い出そうとしたが、そんな事を考えたところで現在の状況が変わるはずもない。思い出すだけ無駄だからやめた。
「話はそこまでだ。俺からの連絡は……まあいい、そのうち適当にやるから今日はここまでだ」
俺たちが肯定も否定もしないうちから、町奉行の中では勝手に決着がついたようだ。
無論、俺たちに断るという選択肢はない。
俺たちがここで首を横に振れば、町奉行所の指令で動く玖音や、草庵で暮らすきさらと竹千代にどんな負担が降りかかるか知れない。
体のいい人質だった。
「死に腐れ」
捨て台詞を残し、その場を後にする。
また来いよ、という冗談まがいの言葉にさらに苛立ちを覚えたが、振り返る事はしなかった。
草庵への帰り道、俺はでこぱちにも分かるように噛み砕いて今の状況を説明してやった。
半年前に和平が成立したところから順を追って。
難しい話だったと思うが、眉を寄せながらも相棒は真剣に聞いていた。
羅刹族との和平条約で、賽ノ地に羅刹城が誘致されることが決定したこと。そのため、俺たちのような盗賊が狩りだされたこと。
これから羅刹がこの地に多く下りてくるだろうということ。
羅刹の恐ろしさを知っている相棒は、眉をハの字にして俺の言葉を受け止めた。
そして、先ほどの町奉行がこの地を羅刹から守ろうとしている事を説明してから、聞いた。
「でこぱち、お前はどうする? あの町奉行に従ってこの地を羅刹の手から守る為に働くか、それとも玖音もきさらも竹千代もジジィもみんな連れてこの地を去るか」
選択肢は二つだった。
今ならまだ、逃げる事が出来る。何の柵もなく、ただの盗賊でいる為に。
「青ちゃんは、どうするの?」
「……俺は江戸に行くと思う」
逆に問われたが即答し、俺は自分が思うよりずっと意思を固めていたことを自分で知った。
何かの為に働く、なんて以前の俺なら面倒臭いの一言で済ませていただろう。
でも今は違った。
大切なモノを自分の手で守ると誓っていたから。
「きさらたちは賽ノ地から出たりしないだろうからな、めんどくせぇけど連れて逃げるよりここを守った方が楽だ」
「じゃあ俺も江戸に行くよ」
にこりと笑って見上げてきた相棒に、俺は笑い返した。
大丈夫だ。
こいつと一緒なら、大丈夫。
その足で相棒と二人、大きな道場の扉を叩いた。
迎えてくれたのは最初と同じ、黒髪の少年だ。もう夜も遅い、眠そうに瞼をこすりながらも今度は訝しげな態度などなく、軽く微笑んで俺たちを迎え入れてくれた。
「青殿、耶八殿。父上がお待ちです」
通された道場で黙想していた浅葱鷺之丞はその目を開き、俺たちを振りかえった。
「ご決断なされましたか」
「ああ」
俺たちの雰囲気だけで返答を察したのだろう。
江戸から俺たちを迎えに来た髷の武士は、笑った。
「江戸までは陸路で5日はかかります。いろいろと身支度も御座いましょう。出発は3日後ということで宜しいかな」
「勝手にしてくれ」
ぞんざいな返答にも文句ひとつなかった。
どうして申し出を受ける気になったのか、聞く気もないようだ。
もっとも、聞かれたところでロクな返答をしてやるつもりもないが。
花街から道場へ寄り道、子の刻を過ぎて草庵についた俺たちを、きさらが出迎えてくれた。
竹千代を起こさぬよう、小さな声で。
「おかえり、青ちゃん」
それでも、迎えてくれた笑顔にほっとする自分がいた。