第十七話
あの日から俺はずっと立ち止まっていた。
でこぱちが眠る部屋の隅で、身動きせずにただじっと、そこに居る。
時に目を閉じて眠り、きさらが運んでくる食事にほんの少しだけ手をつける。ただそれだけが生きる為の動作。
それ以外はずっと、息を殺すようにして部屋の隅に澱む暗闇に潜んでいるのだった。
後ろめたさか、ただの意地か。
逃げないで、というきさらの言葉が今も俺を此処へ縛り付けている。
自分がいったいどうしたいのか分からない。
でこぱちを遠ざける事をやめた自分は、この怖れから逃れるためにいったいどうしたらいいのだろう。澱の声を遠ざけるために、いったいどうしたらいいのだろう……?
考えても考えても、分からない。
「……めんどくせぇ」
羅刹戦の時と同じ予防線を吐き、俺は膝に顔を埋めた。
大切なモノを遠ざけようとする記憶の澱と、失くすまいと足掻く感情とが反発し続け、吐き気がするほど胸の内を引っ掻きまわす。
最後に失うくらいなら、最初から何も要らないだろう、と諦めの声が囁く。
が、ふと縁側とを隔てる木戸の向こうに気配を感じて顔を上げた。
何だろう。
かりかりと何かを引っ掻く音。
辺りに住むケモノだろうか。
手を伸ばして少し戸を開くと、去っていく気配がした。
外は暗闇。
その闇の向こうに、4つの光が瞬いた。
「……緋狐? 狸休?」
呟いた名に、4つの光は軽く上下に動いた。
まるで、お辞儀でもするように。
はっと足元を見れば、ころころと何かが転がっている。
拾い上げて見ればそれは、いくつかの大きな茸と立派な鰻だった。
何のことはない、羅刹を相手に共闘したでこぱちへ向けた、二匹のケモノからの見舞いの品。
もしかすると、でこぱちが怪我をしたのはあのケモノたちを庇ったせいだったのかもしれない。居待の修行を経て実力をつけたあいつが、簡単に大怪我を負う筈がないだろうから。
梅雨時期とはいえ、これだけの品を集めるのは大抵の事ではなかっただろう。
キツネとタヌキが懸命に山を駆けまわる姿を想い、知らず肩が震えた。
何故、俺は震えているんだろう。
敵だったはずのケモノたちがあいつの事を心配している。共に戦った事に感謝している。ただそれだけのことなのに、何故、これほど大きく感情を揺さぶられるのだろう。
こいつならそのうち、あの狐や狸とだって仲良くなってしまうに違いない――俺はいつだったかそう思っていたことがある。
いま、本当にそうなって、俺はあいつのすごさを改めて実感した。
己の感情に対して素直なあいつに、みんな不思議と惹きつけられるのだ。盗賊とは相いれない筈の岡っ引きも、盗賊狩りのケモノも、みんなあいつに惹かれてやってきた。
好きなモノを好きだと言い、大切なモノを大切だと認め、傍に居たいときはただ傍に居る。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、怒りたい時は怒る。
本当に素直に、真っ直ぐに、あいつは生きているから。
ただそれだけのことが、俺にとってはとてつもなく難しいことなのに。
『置いてかないで』という言葉が蘇り、左手でぐっと胸のあたりを掴んだ。
胸の内が苦しい。
これまでの後悔とは少し違う痛みが襲ってきた。
同じ『後悔』という言葉で表わされるその感情は、少しも不快ではなく、奥底でどろどろ足掻いていた澱を少しずつ解いていく優しい痛みだった。
失った目から涙が流れる事はない。
それでもこの時、きっと俺は泣きたかったに違いない。
怖れによって無為に固められていた心が緩んでいく。その隙間から、どろどろと足掻いていた澱が流れ出していった――流せなかった涙の代わりに。
ああ、そうか。
こんなにも、簡単な事だったんだ。
心の奥に溜まった澱が邪魔をして表に出なかった感情が、ようやく姿を現した。
口にしなくては。
今すぐに。この感情が消える前に。
俺の背に古傷がないのは、いつもあいつに背を任すからだった。それはあいつも同じこと。
あいつが背に傷を負ったのは俺の所為だ。心の奥底に溜まった澱の声に耳を傾け、あいつの傍を離れたからだ。
それなのに、あいつはあんな大怪我を負った後も俺が傍に居ることを確かめ、安堵していた。
俺はちゃんとそれに応えるべきだったんだ。
転げそうになりながら部屋に飛びこむと、床の振動ででこぱちはぱちりと目を開けた。
「どーしたの、青ちゃん」
うつ伏せのまま笑い、見上げてきた相棒に、今度こそ聞いてもらわなくては。
「でこぱち」
ぽん、と頭に手をのせると、でこぱちはくすぐったそうに笑う。
本当に心から嬉しそうに笑う。
「……ごめんな」
今度はちゃんと届いただろうか。
両の耳で聞いただろうか。
「置いていこうとしてごめん」
でこぱちの頭の上に置いた手が震えた。
「お前が話しかけても返事しなくてごめん。お前は俺を呼んだのに振り向かなくてごめん。お前の背中、守ってやれなくて、ごめん」
全部謝りたかった。
とてもでこぱちの顔は見られず、左手をふわふわの髪の上に置いて、俯いたまま告げることしかできなかった。
「……別々に生きていこうとしてごめん」
でこぱちが見上げているのが分かった。
俺は顔を上げられなかった。
それでも、いま、この感情を吐露しなければずっとこのまま、心の奥底でどろどろ足掻く澱から二度と抜け出せないような気がした。
「俺は、ずっとお前に頼って生きてたってのに、一人で生きていけるって勘違いしたんだ」
戦う時は背を預け合い、食べ物は半分に、怪我をするときは一緒。こいつは俺に足りない思い切りの良さを補い、俺はこいつに足りない思慮深さを補う。戦いのクセも正反対。性格だって似ているところなんてありはしない。
「ごめん」
幾度目か知れない懺悔が響く。
俺はきっと、一生、こいつの目に映る世界を理解することは出来ないだろう。思考の欠片だって共有することはないだろう。
だから俺たちは共に在ったんだ。
そう思ったら、気づかぬうちに口からぽろりと言葉が零れた。
「……俺はお前になりたいよ」
本当はきっと、真直ぐで正直で、素直なでこぱちがうらやましくて仕方がなかった。
もし俺がこいつのように素直だったら。もし俺が思うままに行動できていたら。
こいつが傷つくこともなかったのに。
俺は、そうまでしてこいつを傷つけたくないと思うほどに、この相棒を守りたいと思っていたはずだったのに。
こんなにも気づくのが遅かった。
でこぱちが怪我で倒れてからずっと消えない後悔が、喉もとで渦を巻く。
しかし、俺の言葉を聞いたでこぱちは、首を傾げた。
「青ちゃんがおれになったら、おれは青ちゃんになったらいいの? それ、楽しそうだね!」
予想外の言葉に驚いてはっと顔をあげた俺の目に飛び込んできたのは、嬉しそうに笑う相棒の姿だった。
痛々しく包帯巻きになっていても、治っていない怪我の痛みで起き上がれなくても、目の前の相棒はいつものように笑っていた。
「でもさ、青ちゃんが青ちゃんじゃなくなるのは、やだな」
なんの衒いもなく、当たり前のように言われて、俺は茫然とした。
当たり前の言葉。
きっとこいつにとって、何の特別もない言葉。
まったくもう、どうしてお前は――
震えていた手から、強張っていた肩から力が抜けた。
くだらないことを考えていた自分が馬鹿だった。
「本当にお前は……」
俺の髪が夜明けの空色だと言った。
赤色の嫌いな俺に、青という名をくれた。
どうしてこいつは、俺が望むモノを知っているんだろう。
伝えなくては。
あのケモノたちの想いに触れて露出したこの感情が、澱に呑み込まれて再び隠れてしまう前に。
俺が、この素直な感情を忘れてしまう前に。
素直な感情を口に出す事を拒んでしまう前に。
「なあ、でこぱち」
「なぁに、青ちゃん」
「……まだ、俺に愛想を尽かしてなかったら、でいいんだ」
その言葉を口に出すのが怖かった。
大切なモノを大切だと認めるのが本当に怖かった。
大切だと認めてしまえば、失った時に傷つくから。
それでも、その怖れを越えるほどに熱い感情が澱を破って心の奥からあふれ出していた。
「俺の前から消えないでくれ」
心の底から絞り出したのは、たった一つの望みだった。
このままでこぱちが姿を消せばいい、なんて本心なんかじゃない。本当は消えて欲しくなんてない。
耶八が俺の右腕を奪った時に、俺はその感情を封印しただけだ。
――大切なモノは、いつも俺を傷つけて消えるから
傷つけられたくなくて、消えて欲しくなくて。
心の底から怖れたのに、その感情を口に出すことなく澱の奥底に沈めてしまった。
口に出してしまえば、失った時の辛さが倍増すると知っていたから。
猩々緋色の過去が、大切なモノを作ることを頑なに拒むから。
面倒くさいと予防線をひきながら、大切なモノを大切だと認める事を諦めた。
「おれは消えないよ」
頭に載せた俺の左手の上にでこぱちの手が重なった。
撫でて撫でてとせがむように、俺の手を掴んで左右に動かす。
仕方ない。
俺はやんわりと左手を動かした。
「もっと強くなるよ。誰にも負けないように強くなる」
言っているうちに眠くなってきてしまったのか、頭を撫でる手の感触を楽しみながら、でこぱちの瞼が下りてくる。
「青ちゃんの背中は、おれが守るんだ」
うとうとし始めたでこぱちがまた眠りに就くのは時間の問題だ。
置いてかないで、と言った時は泣きそうだったその顔が、今はひどく満足げだった。
もう十分だ。
こいつが幸せそうならそれでいい。
本当にそれでいいのか、と澱が騒ぐ。
しかし、怖れを受け入れる事を覚悟した俺は、その言葉に流されなかった。
俺はこいつの隣にいる事を決意した。だから、そこにあるべきなのは、失くすことを怖れて逃げようとすることではなく、失くさない為に守ろうとする強い意思だ。
大丈夫。
大丈夫だ。
きっと、こいつとなら大丈夫。
丸盆に湯呑をのせ、きさらが部屋に入ってきた。
先ほどの俺の言葉を部屋の外で聞いていたのかどうなのか、その目は少しだけ赤かった。
「大丈夫だよ、青ちゃん。ハチは青ちゃんの傍を離れたりしないよ」
丸盆をでこぱちの枕元に置き、きさらは微笑んだ。
ふわりと優しい香りが俺を包む。
ほのかに甘い紅花の香り。
「きさら」
「なに、青ちゃん」
首を傾げたきさらの喉もとには、未だ消えぬ痣があった。
俺がつけた痕だ。
胸が苦しくなった。
そして、その苦しさから逃れるように、驚くほど素直な言葉が滑り落ちた。
「……お前もいてくれるのか?」
はっと顔を上げたきさらの霞色の瞳が俺を映す。
驚いた顔をしたきさらだったが、すぐにその顔は笑顔に崩れた。
霞色の目に、いっぱいの涙をためながら。
「いるよ。ずっといる。青ちゃんが嫌だって言っても、いる」
何でお前が泣くんだよ。
「私もハチも、青ちゃんの前からいなくなったりしないよ。消えたりしない。傷つけたりしない。だから青ちゃんもいなくならないで」
でこぱちと同じように、緋色の着物の裾をきゅっと握って。
きさらは震える声でそう告げた。
「……ごめん」
喧嘩している俺とでこぱちを見て、誰より傷ついたであろう少女に謝った。
腕で顔を覆って肩を震わせる少女を見て、まるで泣けない俺の代わりに泣いてくれているようだ、と少し嬉しく思った俺はきっと不謹慎だ。
それでも、穏やかに微笑む自分がいる。
でこぱちが完全に眠ったのを確認し、左手を今度はきさらの頭にのせた。
俺の腕は一本しかないから、もしかすると二人を同時に守ることは出来ないのかもしれない。こうして、一人ずつしか頭を撫でてやれないように。
それでも、俺の右腕を持っていったでこぱちが、俺の背を守ると言ってくれたから。
ゆっくりと頭を撫でていると、少しずつきさらの震えが止まってきた。
俺は、警鐘を鳴らす心の奥の澱に逆らった――大切なモノがいつか俺を傷つけて消えるという、確信にも似た焦燥に。
穏やかな感情に包まれているのに、この上なく怖い。
大切だと認めたモノが消えてしまうことが怖い。
「怖がらないで」
きさらは、赤い目で俺を真っ直ぐに見てそう言った。
俺が何を怖れていたかなど、彼女にはお見通しなんだろうか。
この二人が大切なのだと自覚してしまってから、失うことがますます怖くなった。
「……ああ」
それなのに、俺は今、確かに力を手に入れた。
不思議なほど穏やかな感情に包まれて。
これが幸せと言う感情なのだろうかとぼんやり思う。
長かった雨の季節が終わろうとしていた。