第十三話
木々の隙間を縫うように、派手な躑躅色の着物が翻る。
あのジジィとまではいわないが、俺よりずっと格上である居待の姿を捕えるのは容易ではない。居待が目立つ色の衣を纏うのは、盗賊狩りの女が槍の先に輪を下げるのと同じ、自らの居場所を知らせるためなのかもしれない。
目視したところで、ついて来られるならついて来いという挑発だ。
もう分け入る事もないだろうと思っていた東山の山中で、俺とでこぱちは『稽古』という名目で居待に縛られているのだった。雨の季節は半ばを過ぎ食糧にも困らないこの季節には夜に凍える事もなく、山籠りをするにも不自由はない。
雨も上がらぬうちから始まった居待の稽古は、修行と呼ぶに相応しかった。
一瞬でも気を抜けば背後を獲られ、鋭い武器が喉元に突き付けられる。
「青殿は考えを巡らせ過ぎる帰来があります。考えるより先に動いた時が、最も速く、巧みで、正確な動きが出来るものですよ?」
耳元に囁かれ、背筋にぞわりと悪寒が走る。
その時には既に、喉元に赤い筋が刻まれていた。正の字が2つと、短い横一文字。
十一。
修行を始めてから、俺が居待に命を獲られた回数だ。
「耶八殿は対極。廉直なだけでは通用せぬことも、この世の中には数多存在し得るのです」
ぎゃん、と啼いて木の枝から叩き落とされたでこぱちは、喉元に数え切れぬほどの正の字を刻まれている。ひらひらと逃げ回る居待に対して、幾度も戦いを挑んだ結果だ。
居待の指に嵌められているのは、鋭い爪の様なものだった。
見覚えのないその武器は、力加減と技さえあれば簡単にヒトの喉笛を掻き切る事が出来る。
無論、喉だけではない。
手足の末端に至るまで、腱や血管などを鋭く裂いてしまうだろう。
間違いない。
浅葱鷺之丞という男と、その息子の立待は誤りなく正統派の剣士であろうが、居待は違う。剣士ではなく、むしろ隠密の武器と動きに近い。
もし、俺たちの先達だと言った居待の言葉を信じるとすれば、居待は――
「ほら、また小難しく考えていらっしゃる」
喉元に十二本目が刻まれた。
頭では分かっている。考えない方がずっと理想に近い動きが出来る事。
羅刹と対峙した時、最終的に命を救ったのは思考ではなく、無意識の感覚だった。戦闘経験で身体に染みついた動きが、結果的に最善の策を生み出した。
だからと言って、常に考えを巡らせるこの癖をすぐに直せるかと言われれば、そうでもない。
「耶八殿、策もなく敵に刃を向ける事は玉砕行為と何ら変わりませんよ?」
太い枝に腰掛け、足を組んだ居待は、地面に転がる俺たちを見下ろし、ため息をついた。
「まったく……お二人を足して、割ることが出来れば丁度よいと思うのですが」
共に修業をしながら、未だ一度も会話のない俺たちの事を、居待がどうとらえているのかは知れない。
しかし、居待には分かっているのだろう。
俺に足りない思い切りの良さを持つあいつと、あいつに足りない思慮深さを持つ俺とが、お互いを補い合って戦ってきた事を。
そしてそれは、俺たち自身が誰よりよく分かっている。
だからこそ、行動を共にしていた。
ちらりと見やれば、隣に居るでこぱちは、珍しくほんの少しぴりぴりとした空気を背負っている。口がへの字になっているし、俺の方を見ようとしていない。
怒っている事を主張しているのだろうか。
でこぱちの喉元は、居待に付けられた傷で赤い輪を嵌めたようになっていた。痛々しい傷だが、それだけの回数、あいつが居待に挑んだ証拠だ。
また、空から雨粒が落ちてきた。
つぃと空を見上げた居待は唐傘をさし、軽く地面に着地した。
「私はそろそろお暇します。姉上に申しつけられた分の稽古はきちんとこなしてくださいね」
「……姉上?」
眉を寄せて聞き返すと、居待は肩をすくめただけだった。
「おれ、あっちで立待に言われた稽古してくるっ」
雨の向こうへと消えていく向日葵色の上着を無言で見送った。
引き止める気もないし、かける言葉もない。
振り向きもしない飴色の髪は、そのまま藪の向こうへと消えていった。
そうだ。このまま、あいつの事を心の底から締め出してしまおう。奥底に根付く澱にこの感情を絡め取られる前に。
そんな様子を見た居待がくすくすと笑う。
「頑なに彼を遠ざけるのですね。それは一体、何を怖れていらっしゃるからなのでしょう」
何を怖れているのか。
ジジィも全く同じことを聞いた。
その問いに俺はまだ答えを持たない。
「それではまた明日、参ります」
躑躅の着物を翻し、去っていく居待も見送ると、雨の中、薄暗くなってきた東山の中で一人、佇んでいた。
物心ついた時からずっと独りで生きてきた。
今さら孤独を感じる事があるはずはないというのに――指一本を動かす事も、思考を巡らすことさえも億劫だった。もしも今、羅刹族に遭えば、一瞬で屠られるだろう。何の抵抗もせず、ただ目の前に突きつけられる刃にこの身を差し出すだろう。
全身が倦怠感に支配されていく。
もういいだろう、と澱が囁く。
「めんどくせぇ……」
しとしとと顔を打つ雨を、目を閉じて受け入れた。
一人雨の中、ただ立ち尽くした。
が、幾許もせぬうちに藪から飛び出してきた影に静寂を破られた。
「いたぞ!」
「?!」
はっと見れば、盗賊狩りの女がこちらを指さし、仲間を呼んでいる。雨の中、山中を駆けまわったのだろう。結いあげた髪は解れ、着物は汚れて葉や枯れ枝を引き連れていた。
もうここまで追って来やがったのか。
「さっさと来い、緋狐! 狸休!」
女の声でケモノたちが追い付いてくるのは時間の問題だ。
先ほどまで居待の修行をし疲労している今、戦うのは得策ではない。何より、こいつらの相手は面倒。逃げる以外の選択肢はない。
刀を手近な木の幹に突き刺し、踏み台にしてそのまま枝に飛び乗った。
「待て!」
待てと言われて待つヤツがいるか。
団子屋でもそうだったが、あの女は俺に待てと言えば待つとでも勘違いしているようだ。
先ほどの居待の動きを真似て、木の枝から枝へ、なるべく地面が藪に覆われた方向へと駆けた。
面倒な事すべて、何もかもから逃げるつもりが、何故か道場の娘を引き連れ、盗賊狩りに追われ。俺はいったいこんな山奥で何をしているのだろう。
ため息をついたが、気は晴れない。
苛立ちが募るばかりだ。
陰鬱な感情すべてを脱ぎ捨てるかのように、ますます速度を上げた。
雨がやまない。
空の何処にこれほどの水が在るのか、疑わしくなるほどの雨が毎日降り続いていた。
俺はじっと息を殺して木の上に潜んでいた。
烏組は、羅刹との関わりを絶とうとする政府の意向と裏腹に、東山における物量作戦を展開したようで、朝から晩までそれらしい人間が山の中を幾人もうろついていた。
この雨の中、ご苦労な事だ。
気を抜いた瞬間、木の下から大声が上がる。
「いたぞ! 青髪の盗賊だ!」
舌打ちをして刀を手にする。
そのまま下へ飛び降り、盗賊狩りの下っ端と思われる二人の男を同時に峰でなぎ倒した。声もなく倒れた男たちに向ける同情はない。命までとらぬのは、その血の匂いでヒトならざるモノを呼んでしまいそうな気がしたからという理由からだった。
声につられてぞくぞくと盗賊狩りたちがやってくる。
めんどくせぇ。
この数日、ずっと逃げ回っている。
盗賊狩りに追われて別れてから、相棒の顔は久しく見ていない。
まあ、あいつの事だ。何処の誰とも知れない誰かと仲良くなって、元気にやっているだろう。
このままあいつが俺から遠ざかってしまえばいい。そうすればきっと、怖れる事も、傷つくこともないだろうから。
居待はあの日以来見かけなかったが、得体の知れぬあの少女は今もどこかで俺たちを見ているような気がしてならない。
要らぬ思考を頭から追い出すように、大きく空気の塊を吐き出した。
追ってくる声が遠ざかるのを確かめながら藪の中を駆け抜けた。
こうして盗賊狩りたちと鬼事をしているうち、床に伏せっていた間に鈍った身体は急激に回復していった。あれほどの深手を負ったのが嘘のように全身の隅々まで感覚がいきわたっているのが分かる。床に縛り付けられた日々を取り返すかのように勘を取り戻していった。
「東の尾根へ向かっているぞ!」
俺のいる位置より少し上から声が降ってくる。図らずも、盆のように窪んでいる場所に入り込んでしまっていた。見下ろされる場所からは早く離れねば、身を隠す事も出来ない。
しかし、塒を東山に移したことで、徐々にこの辺りの地形を把握しつつあった。
山の起伏。崖の位置。山道と尾根の位置関係。
この先の尾根を越えて下れば、その先は下草の生い茂る杉の林だ。そこへ逃げ込めば……。
と、その瞬間、凄まじい敵意を浴びせられ、心臓が縮み上がった。
反射的に屈みこんだ頭上すれすれを、何かが通り過ぎ、地面に突き刺さった。鋭い針のようなそれは、よく見れば雨粒を弾かせて煌めく蜻蛉玉が下がっている。
刺さる簪の方向を見れば、微かに躑躅色の裾が捕えられた。
「居待……?」
足を止めそうになったが、後ろから盗賊狩りの追う声がして、居待から遠ざかるようにそのまま足を進めた。
俺を殺す気なのか?
いや、死んだらそれまでと攻撃を仕掛けてきているのだろう。もちろん、殺す気で。
これも修行の一環です、と笑顔で告げる居待の笑わない鶯色の瞳が容易に想像できた。つまりは、追ってくる盗賊狩りに加えて居待からも追撃を受けると言う事だ。
なんて面倒なんだ。
居待の言葉ではないが、強制的に修行をさせられている気がして釈然としない。
などと余計な事を考えているうちに、目の前には先回りしてきたのであろうケモノの姿。
大槌を振りあげ、迫ってきた。
居待は俺をこの方向に追いこもうとしていたのだ。
「今度こそ死にやがれ!」
駆け抜ける俺自身の勢いと相まって、猛烈な速力を経た槌が迫ってきた。
突っ込めば今度は床に伏すという訳では済まない。確実に肉が爆ぜ、骨が砕けて命を落とすのは必至だ。
しかし、速度を落とすという選択肢はなかった。
髪一本でも避ける位置を読み違えれば即死。
その状況で俺は、強く地を蹴った。
大槌の間合いぎりぎりを沿うように、上へ。
目の前に斥量のある塊が迫る。
触れずとも勢いだけできれそうなほどの槌の真上を、俺は寸でのところで通り抜けた。
「待ちやがれ!」
このキツネもあの女と同じように、待てと言えば待つと思っているのだろうか。ここ何日も逃げ一辺倒を貫いているのだから、そろそろ学習して欲しい。
大槌を一瞬でどこかへ消し去り、追ってくる緋狐の声を聞きながらぼんやりと思う。
あいつは獣だ。人型を捨て、獣の姿になれば藪の中を走る俺に追いつく事など容易な筈だ。馬鹿なあいつがそれに気づく前に、どうにか振り切らねば。
尾根から峰へと方向を変えた。
東山から賽ノ地へ流れる、賀茂川支流の渓谷へと向かう。
藪を突き抜ければ、雨続きで濁流と化した川が目の前に現れた。万一、足を滑らせでもしたら賀茂川どころかその先、まだ見ぬ海まで連れ去られるかもしれない。
さて、どうにかしてあの狐を下に落としてやろうか……と、考えを巡らせた時。
「うわあああっ、緋狐ぉっ! 助けてぇー!」
上流から助けを求めながら、狸が流れてきた。手には何故か、しっかりと団子の串を握りしめている。
何事かと見れば、少し離れた川岸で、でこぱちがいーっと狸休を見送っていた。
「おれを川に落としたお返しだっ!」
そう言うでこぱちの手にも団子。
こっそりと東山を下りて、雷の店で調達してきたに違いない。
団子の罠で豪流に呑み込まれていった狸休を追って、緋狐は川岸を下流へと駆けていった。
と、でこぱちははっとそこで俺の姿に気づき、慌てて林の中へと消えた。
ようやく俺の後を追う事を諦めてくれたらしい。大丈夫、あいつならきっと何処へ行っても誰かと仲良くなって、元気に暮らしていくだろう。
終わりの見えない、居待の修行とやらが終わった後も。
このままお別れだ。
少し寂しい気もするが、これでいい。
きさらの元を離れ、でこぱちを遠ざけ、心の奥の澱が落ち付いて気分が楽になったはずだったのに、何故か胸のあたりがぐるぐると渦巻いて酷く落ち付かなかった。