第十二話
烏の声がする。
夕刻に降り出した雨はいつしか本降りになり、凶暴なまでに道場の屋根を叩きつけていた。視界も煙るこの豪雨の中、不自然なほどに烏が啼いている。
喉元を、さわさわと焦燥が這い上がる。
落ち付かない。
扉を開ければ、雨粒に紛れた夜闇がひしひしと肌に迫り来る。鼓膜を打つのは聴覚を麻痺させるほどの轟音。轟音に掻き消えぬ甲高い烏の啼き声。
こんな夜は大概にして善きモノはやってこない。
「どうなされましたか? 青殿」
「いや……何も」
遅くまで稽古に付き合ってくれている立待の声で、視線を外から道場の内へと向けた。
奥の方ででこぱちが竹刀を振っていた。言いつけ通りの回数をこなしているようだ。忍耐強く稽古を続けるのは性に合わないはずだ。しかし、強くなりたいと言う一心で黙々と稽古をこなしている。珍しい事だ。
羅刹族に完膚なきまでに負けたという経験は、思った以上にあいつの心にしこりを残しているのだろう。
俺の中に、今もくすぶる胸底の焦燥を呼び覚ましたように。
夜になっても、雨がやむ気配はなかった。それどころか、ますます強まっているようだ。
帰るあてのない俺たちは道場の隅を間借りし、床についた。
轟音が鼓膜を揺らす返しで、右耳の古傷が痛む。失くした右腕の付け根が痛む。既に失くしたはずの右眼が痛む。
少し距離を置いて転がったでこぱちが、ふいに声をかけてきた。
昨日、俺が振り向かなくなってから初めての事だった。
「ねえ、青ちゃん」
返答せずにいると、もぞもぞと寄ってくる気配があって、今度は少し近くで声がした。
「青ちゃん。青ちゃんはもうきさらとジジ様のところに戻らないの?」
不安げな声で。
振り向かなくとも表情まで分かる。眉をハの字にして泣きそうな顔をした相棒の顔が、見なくてもありありと浮かんだ。
いつもならここで振り向くのだが、俺の中に溜まった澱がそれを赦さなかった。
「あおちゃん……」
消え入りそうな声にも、心が動く事はない。相棒がいまどれだけ傷ついているかが分かっていても、全く気が乗らない。全身を倦怠感が包み込んでいる。
自分の中にこれほど残酷な感情が在った事を、これまで知らなかった。
ぐす、と鼻をすする音がした。
ああ、めんどくせぇ。
心の底からどうでもよかった。
それどころか俺は、こいつが俺の傍からいなくなる事を望んでいる。
――傷つけられて傷つく前に、傷つくところを見て傷つく前に。
竹千代を草庵へ連れていったあの日から、少しずつ、少しずつ喉元まで這い上がってきていた澱がとうとう全身を支配した。
奥からせり上がる吐き気と倦怠感。
視界を覆い尽くす猩々緋。
このまま緋色の世界に委ねて、何もかも忘れてしまいたい。俺を迎え入れてくれる人たちがいる草庵がある事も、背を預ける相棒がいる事も。
そんな倦怠感の中でも、感覚は正直だった。
屋根を打つ轟音に紛れて近づく足音を確実に捉えた。
それも一つではなく、複数。
立待か居待か、と思ったがどうやら違う。彼らの足音はこれほどまでに重くない。ましてや、二人の親父がこのような敵意を放つわけがない。
外から近づく敵意に、身体を起こす。
ぐい、と両腕で赤い目を擦ったでこぱちも、刀の柄に手をかけ、入口の扉に注目した。
足音が近づく。
同時に、言い争うような声も漏れている。
いかに声を霞める雨の中とはいえ、大声と敵意を垂れ流しにしながら……隠れる気がないのか、と扉をじっと見つめていると、突如、雨音と比較にならぬ腹に響く音を弾かせて扉が粉々に砕け散った。
同時に人影が飛び込んでくる。
「一番乗りぃ!」
「おい待て、壊したのは俺だ!」
「どうでもいい。黙るという事を知らんのか貴様ら」
砕けた扉の向こう、視界を遮る大粒の雨を背景に。
出来れば再会したくなかったヤツらが立っていた
元羅刹狩り集団『烏組』――小柄な槍の女を筆頭に、紅樺の着物を腰に巻いた化け狐と、老竹の着物を着崩した化け狸。
扉を破壊したのは大槌を振り回す緋狐だろう。相変わらず重量のある槌をどすん、と道場の床に打ち付けた。
槍の女が口元に笑みを湛える。
「この日を待ちわびたぞ、盗賊」
「俺は待ってねぇよ、盗賊狩り」
「抜かせ」
しゃん、と槍の先に下げた輪を鳴らした。
しかし3人ともずぶ濡れだが、わざわざこんな天気の悪い日を選んで来ずともよいものを。
川に落下していったひげ面親父といい、烏組には馬鹿ばかりしかいないのか。
めんどくせぇ。
大きくため息。
「何事だ」
母屋の方から立待と居待の親父が声を上げながら、雨の中を駆けてくる。
見つかると面倒だ。
入口を塞ぐ3人に背を向け、床近くにある風取りの引き戸を蹴破った。
「逃げる気か?!」
何より、こんな夜中にこいつらの相手をしてやる義理がない。
喚く声は背中で無視し、細い窓からするりと外へ、脱兎の如くに飛び出した。
途端に、痛いほどの雨粒が全身を叩き、肩を凄まじい力で抑えつけられているかのような感覚に襲われた。ほんの数歩先の地面も目視出来ない。
視覚だけではない。全身を打たれ、触覚も鈍り、雨で嗅覚を奪われ、轟音で聴覚も働かない。苦行の中を往くように、現身から敬遠されていく。それは、逃げる俺も、そして追う彼らにとっても同じだった。
記憶を頼りに庭を駆け、庭石を踏み台にして天からの流れに逆らうように塀の上へと跳び上がった。
道場の辺りから辛うじて追ってきていた声はやがて遠ざかり、すべての感覚が麻痺していった。
すべてを振り切った後も、遅れずついてくる足音は一人分だけ。
それがいったい誰なのかは振り向かなくても分かっている。
脳髄を揺さぶる轟音は扉を一枚隔てた向こう側で響いているように遠く、全身を打っていた雨粒は分厚い布団を被った時のように弱まり、視界を遮っていた闇はいつしかほんのり明るく感じるようになっていた。
ただ、重かった。
手にした刀が、左右交互に跳ね上げる両足が、この上なく水を吸った上着が。
それでも、足を止める事はしなかった。
闇夜の豪雨をただ駆け抜けた。
しかし、視界の悪い中に目立つ躑躅色の衣に出くわし、足を止めた。
俺が足を止めると、離れずついてきていた足音も止まった。
ざぁあ、と強い雨の音が耳元で鳴り響く。
唐傘をさし、道の真ん中に佇んでいたのは、先ほどまで母屋にいた少女だった。雨の中とはいえ、俺はずっと全力で駆けてきたのだ。到底、少女の足で追いつけるものではないはずだ。
相変わらず笑わない目をした居待は、二つに編んだ黒檀の髪を揺らしながら、俺たちの前に佇立した。
この少女は一体、何者だ?
いぶかしむ俺を尻目に、豪雨の中でも凛と響く芯のある声で居待が告げる。
「お待ちしておりました。さあ、参りましょう」
くすくす、と笑った居待は、躑躅色の着物の裾を翻した。
「稽古にいらしたのは貴方でしょう? 道半ば放り出すのは信条に反しませんこと?」
「……何故俺たちについてくる」
「ですから、私が稽古をつけて差し上げる為だと申しております」
「俺たちは政府の敵だ。お前の親父は江戸仕えだろう」
そう言うと、居待は肩をすくめた。
「あら、敵か味方かは問題ございません。私は貴方の先達になりますのよ」
「はぁ?」
眉を寄せると、居待はふっと唇の端に湛えた笑みを引っ込め、手刀で俺たちの首を狩る真似をした。
「何しろ、その首には既に逃れ得ぬ頑丈なくびきに括られておりますから」
全身を打つ雨粒より研ぎ澄まされた殺気が喉元を掠めた。
思わず、居待から距離を置く。
全力疾走したからという理由だけではなく、心臓の鼓動が速い。自分たちより年下の少女の殺気にぞっとする日が来るとは思わなかった。
知ってか知らずか、唐傘を揺らす居待が急かす。
「急ぎませんと、彼らに追いつかれてしまいますよ? 盗賊狩りの、ケモノたちに」
「……」
確かにこの場に留まるのは得策ではない。それは分かっている。
しかし、この得体の知れぬ相手の言葉に乗せられて、大丈夫なのか? 先達だと彼女は言うが、本当にそうなのか?
「どこへ向かう気だ?」
「東山へ」
その言葉で、一瞬躊躇する。
東山で羅刹族と邂逅し、腹を裂かれたのはつい先日の事なのだ。治りきったはずの傷が疼く気がして、思わず顔を顰めた。
「政府から身を隠すには、この上ない場所だと思いません?」
「逆だと思うが」
羅刹族が頻繁に出没する東山は、政府の目が隅々まで行き届いていると考えてまず間違いないだろう。わざわざそのような場所に向かう理由が分からない。
「政府は青殿が思うより羅刹族を怖れております。次の羅刹検分まであと半月、無意味な被害を出さぬ為に賽ノ地町奉行所は東山周辺からほとんどの隠密を引き揚げさせることでしょう。それより何より、羅刹が現れる場所でヒト同士とはいえ、諍いを起こしたくないのも事実。もしここまで追ってくるとしたら、そうですね、あの烏組くらいでしょう」
「まるで見聞きしたような言い方だな」
そう言うと、居待はにこりと笑った……初めてこの少女の目が笑うところを見た気がする。
「青殿、余計な事は知らぬが花ですよ」
自らほのめかしておいたくせに、釘をさす。
この少女の意図がまったく掴めない。
まるで俺が何処まで知っているのか、何処まで嵌り込んでいるか、何処まで来る気があるのかを暗に試されているかのようだ。
だが、言っている事には筋が通っている。
信じるか信じないか以前に、羅刹族と邂逅する危険を度外視すれば、最も喧嘩を売られにくい場所ではあるだろう。
面倒事からは遠ざかるのが得策。
腹を決めた俺は居待に並んで駆けだした。
唐傘を持ったまま、動きづらそうな着物を纏っているとは思えぬ速度で居待が駆ける。その足運びはやはり、親父である浅葱鷺之丞という男とよく似ていた。
このような形でも、かなりの手練である事は間違いない。
そもそも、こいつはジジィを江戸から迎えに来た男の娘だ、何か企んでいてもおかしくはない。
ああ、めんどくせぇ。
面倒事から逃げるつもりが、徐々に面倒事の中心へと向かっているとしか思えない。
何か大きな力が働いている。
きっとそのうち、逃れられなくなってしまうのだろうか。
ため息と共に吐き出した空気は、雨に叩かれ、地に落ちた。