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第十一話


 心の奥のおりが囁き続けている。

 最初にこの澱を意識したのが一体いつだったのか……思い出そうとすると右耳の傷が酷く痛んだ。

 でこぱちに奪われた右眼と右腕と違い、この耳だけは最初から欠けていた。いったいいつこの傷を負ったのか、全く覚えていない。

 微かな記憶は緋色に染められていて、後悔と共に脳裏に刻まれていた。

 芥子のように甘い香りが充満するあの場所で、俺に『赤は嫌い』と囁くあれは、いったい誰だ?

 頭痛が酷い。

 目の前に迫る刃を握るのは、いったい誰だ……?



 雨を避ける為、荒れ地に生えた杉の木の下で一晩過ごし、目を覚ました。隣には、派手な向日葵色の上着を羽織ったでこぱちがすぅすぅと寝息を立てていた。

 どうやら雨は上がったようだ。晴天とは呼べなかったが、雲の多い空から雨粒が落ちてくる気配はない。夜雨の中を歩いて濡れた上着を陰になる枝にかけておいたのだが、それなりに乾いてはいるようだった。

 心の奥のおりが騒ぎだす前に、俺はこの場を離れる事にした。

 緋色の世界で目に刃が迫る夢を最近よく見る。

 刃を握っているのは、隣で寝ている相棒だろうと思っていたのだが、どうやら違うようだ。

 少女のような声をした彼女が、嫌いな色を狙って刃を振り落ろしたのだ。そして俺は抵抗し、刃は赤い目を逸れて――

 右耳の傷がずきりと痛んだ。

 後ろからは眠い目を擦りながらでこぱちがひょこひょことついてくる。昨日から一度も振り返っていないが、珍しく横道にそれる事もなく俺の後をずっとついてきているようだ。

 出会って間もない頃からずっとそうだ。俺が全く興味を示さなくても、こいつは勝手についてくる。

 それは、俺の右眼と右腕とを奪った後も変わらなかった。

 何故こいつは、俺の傍を離れないのだろうか。

 右眼を獲れば、こいつも俺の隣から消えると思っていたのに――

 いつしか俺の足は、昨日渡された地図の通りに道を辿り、町はずれに建てられた大きな道場の門へ向かっていた。

 意味はない。ただ退屈だっただけだ。

 盗賊狩りが進行した所為で盗賊が減り、喧嘩を売ってくる盗賊の姿はない。だからといって賽ノ地を離れる気もせず、羅刹族のいる東山に飛び込んでいくほど馬鹿でもない。

 鬱憤を晴らす相手を求めていた、というのが最も正解に近いのかもしれない。

 昨日から立て続けにこの賽ノ地に起きている事象を知り、さらによくわからない『お耳』なる役まで押し付けられそうになって。

 胸底は澱み、苛々は募り、最悪の気分だった。

 後ろをひょこひょこついてくるでこぱちを気に掛けるのも面倒なほどに。


 到着した道場は、立派な門構えではあるがどこか寂れた印象があった。それは、道場の主がここに腰を落ちつけているわけではないからだろう。あの男は江戸政府に仕えているのだから、普段は賽ノ地ではなく江戸にいると考えるのが普通だ。

 むしろ、遠方で使っていない道場を維持している方が驚きだ。

 ジジィをこんな辺境まで迎えに来るのだから下っ端かと思っていたが、もしかすると浅葱鷺之丞あさぎさぎのじょうと名乗ったあの男は思ったより高い地位にいるのかもしれない。

「はーい」

 ごんごん、と門扉を叩くと、中から幼い声が返ってきた。

 しばらく待っていると、重そうな扉が少しだけ開かれた。

 その扉の隙間から顔を出したのは、袴姿の少年だ。長く伸ばした黒檀こくたんの髪を後ろに細く編んでいる。黄金に近い鶯色うぐいすいろの瞳が、いぶかしむ様に見上げていた。でこぱちよりさらに小柄、年も俺たちよりいくらか下だろう。

「どちら様ですか?」

 声変りもしていない高い声で問われ、返答に困っていると、後ろからひょこりとでこぱちが顔を出した。

でげいこ(・・・・)に来たよ!」

「出稽古……? 父上のお知り合いか?」

 不審げだが、仕方ない。

 極彩色の着物の二人組が尋ねて来れば、当然の態度だろう。

「お前の父親かは知らんが、浅葱鷺之丞あさぎさぎのじょうというヤツに言われて来た」

「それは自分の父上の名だ」

 父親の名前を出したことで安心したのか、少年は扉を開いた。

「父上―っ! お客様がいらしているのですが、いかがいたしましょうか!」

 道場の建屋に向かって叫ぶと、稽古の最中だったらしい昨日の男が顔を出した。

 一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい顔で笑った。

「お二人共、よく来なさった。立待たちまち、道場に入っていただきなさい。それから、居待いまちも呼んできてくれないか」

「はい、分かりました、父上」

 立待たちまちと呼ばれた袴の少年は、はきはきと返事をして駆けていった。

「青殿、耶八殿。こちらへ」

 自分たちの名が既に知られていた事で一瞬躊躇したが、導かれるまま道場に入った。

 少し埃臭い道場は広く、冷涼な空気で満たされていた。天井近くと、足元に開かれた細長い窓から風が流れ込んでくる。

「奇妙斎殿は主らに何かおっしゃったか?」

 問われたが、答えずにいると、何かを察したのか男はそれ以上聞かなかった。

「では、主らはより強くなる為にこの道場の門を叩いたと解釈してよいな?」

 その言葉に、俺より先にでこぱちが返事する。

「うん! おれ、もっと強くなりたい!」

「よい返答だ。うちの息子もこれだけ素直なら……」

 目頭を押さえた男は、まなじりを下げて、でこぱちの頭を撫でた。

 その時、道場の戸ががらりと開けられた。

 先ほどの少年と、同じ年頃の少女だった。躑躅つつじ色の着物に身を包んだ少女の口元は笑みの形をしていたが、隣の少年と同じ黄金に近い鶯色うぐいすいろの瞳は微笑わらってはいなかった。

 警戒しているのが全身から伝わってくる。

 何者だ? この少女は。

「何用ですか、お父上」

 鈴を転がすような声で少女は尋ねた。

立待たちまち居待いまち。出稽古に来なさった青殿と耶八殿だ」

 袴の少年が立待たちまち、少女が居待いまちらしい。

 この男を父上と呼んでいるところから見れば、姉弟なのだろう。

 口元は笑みの形をしていても冷めた目をした姉の居待は、鋭い視線で俺たちを射抜いていた。

「二人にはしばらく稽古に出ていただく。立待、二人に基礎の鍛錬を教えてくれるか?」

押忍おす

 弟の立待は十字を切って承諾した。

「居待は組手の相手をして欲しい」

「……よいですが」

 不満げな居待に、親父の方も困り顔だ。

 それより何より、視線だけで射殺そうとでもしているかのような極寒の空気。俺たちがいったい何をしたというのだろう?



 基礎の稽古は繰り返し。

 型を身体に覚えさせるため、何度も何度も竹刀を振る。独自に剣を学んできた俺たちが、今までやってこなかった事だ。

 しかし、何もない空に向かって剣を何度も振り下ろすうち、その動きだけに意識が集中し、無用な事は何もかも忘れられる気がした。

 案外、剣の稽古は俺の性分に合っていたのかもしれない。

 言いつけられた5000回の素振りを終え、いったん休息をとった。

 でこぱちは今も、立待たちまちの厳しい指導に立ち向かっているようだった。

「まだ身体の軸がぶれています。重心じゅうしんを低く、上体は柔らかく」

「言われたとおりにやったら動きが遅くなっちゃうんだけど」

 不満を言うでこぱちに、立待が首を横に振る。

「確かに、これまでの型を意識して変えれば速度は落ちるかもしれません。しかし、鍛錬の後には確実に、きちんと基礎を身に付けた型の方が速くなるはずです」

「ほんとに? おれ、もっと速くなれる?」

「鍛錬を続ける事が出来れば」

「よーし、じゃあおれ、頑張る!」

 再び竹刀を振り始めたでこぱちを見ていると、いつの間にか隣に親父が立っていた。

 稽古用なのか、使い込まれてくたりと弱くなった袴を着こみ、常に皺が寄っているかのような眉間には汗が滴っていた。

「本当に、今日はよく来なさった」

「来いって言ったのはそっちだったと思うんスけど?」

 盗賊狩りのこのご時世、俺たちが政府から狙われる立場だという事が分かっていながら、この場へ引き入れていて大丈夫なのか俺には甚だ疑問ではあるのだが。

 そう言うと、親父は微かに笑った。

「そうであったな。失礼した。だが……奇妙斎殿から聞いておろう。それがしは主らを江戸へと連れる為に参ったのだぞ?」

「ジジィを連れに来たんじゃなかったんスか?」

「奇妙斎殿を? 隠居なされた御仁に頼るほど、江戸の政府は切羽詰まってはおらぬよ」

「じゃあ、最初から俺たちを……」

 面倒だからわしの代わりに行って来い、といったジジィの言葉は嘘だったのか。

 わざわざ回りくどい言い方をしなくても、結局断る事は分かっていただろうに。

「左様。賽ノ地に住まう奇妙斎殿の弟子で、腕のほども申し分ない。さらには、町奉行所とは敵対しておる……この辺境の地に根を張り、その土地の政治を用心するお耳として、主らほどの適任はおらぬからな」

 穏やかそうな面して結構はっきり言うな、この親父。

 ほとんど、賽ノ地町奉行所が怪しい行動を起こさないか見張れ、と口にしたも同然じゃねぇか。

 何と面倒な構図に巻き込まれてしまったのだろう。

 幾つもの組織が、それぞれの目的の為に別の方向へ動いている。利益と損得、そして平穏を求めて。

 複雑な関係だ。政府も一枚岩ではない事を実感させられる。


 何百年にもわたる羅刹族との争いに終止符を打とうとしているのは、江戸にある中央政府の将軍だ。数年前から羅刹族との和解を願い、努力してきた現将軍と羅刹族の長との間には、半年前、ついに和平が交わされた。

 和平の概要は定かでないが、どうやら表向き、ヒトと羅刹が争いをやめる事を指針としたもののようだ。

 その条項の一つに、羅刹の拠点をヒトの世に誘致する、というものがあったらしい。とはいえ、戦闘民族である羅刹たちの城を江戸の近くに作らせるなど論外。

 そこで、中央から遠く、またもともと羅刹たちが多く出没していた賽ノ地に白羽の矢が立てられた、というわけだ。

 しかし、これまで散々羅刹からの被害を受けてきた賽ノ地の人々が、そして町奉行所がそれほどすんなり受け入れるとは思えない。まして、この地を収めている近松景元ちかまつかげもとが噂通りの人物なら、一筋縄ではいくまい。

 中央政府と賽ノ地の間にひと悶着在って然るべきだ。

 いや、賽ノ地に新たな手駒を求めて人を遣るくらいだ。すでにその軋轢は生じてしまっているのかもしれない。もしくは、中央政府側が早々に賽ノ地全体の反乱を警戒しているのか。

 なんて面倒なんだ。到底首を突っ込みたいと思えるような事態ではない。

 心の底から関わりたくない。

 しかしそうなると、盗賊を狩り始めたのは、いったい誰なんだ? 元羅刹狩りに盗賊狩りの命令を下したのは、賽ノ地町奉行所なのか? それとも、江戸の中央政府なのか?

 くるくると傘を回しながら去っていった盗賊狩りの長の後ろ姿を思い出す。

 ああ、めんどくせぇ。

 すっかり癖になってしまった、大きいため息を吐き出した。



 一通りの稽古を終えた昼ごろには、居待いまちが作ったという握り飯を抱え、道場の庭ででこぱちと並んで座っていた。あの居待の作ったものには毒でも入っていそうな気がしたが、でこぱちがうまそうに頬張っているから大丈夫なのだろう。

 隣の相棒は、昨日から俺が意図的に遠ざけようとしている事を完全に忘れているのではないだろうか。いや、珍しくこいつの方から話しかけてこないと言う事は、気にしてはいるのか?

 何を考えているのか、相変わらず俺には全く分からない。

 いつもの距離、いつもの隣。

 しかし、間には決定的な隔たりがあった。

 朝は雲に覆われていた空を見上げると、ほんの少しの雲の切れ間に青色が覗いていた。

 時折、思い出したように心の奥で騒ぎだすおりは静まり返っていた。

 赤は嫌いだ。

 しかし、空の色は好きだった。

 俺の髪色が夜明けの空色だと言ったのは、他でもない、隣に座る相棒だった気がする。名も持たなかった俺の事を『青』と呼び始めたのももしかすると、でこぱちが最初だったかもしれない。

「青殿」

 思索にふける中、ふいに声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは居待だった。

 腿の半分までしか隠していない躑躅色つつじいろの着物の裾を見て、またでこぱちが中見えるなどと言いださないだろうかとぼんやり思う。

「父上がこの地にいらしたのは、貴方を迎える為だとお聞きしました」

 相変わらず、鶯色うぐいすいろの瞳に物騒な光を灯して。

「そうらしいな」

 返答すると、居待は着物の袖を口元に当て、ふぅ、と悩ましげなため息をついた。

「では、手加減致しませぬよ?」

「はぁ?」

「私如きに手こずるようでは羅刹相手には到底かなわぬと申し上げたのです」

 一体、この少女は何を言っている?

「あれ、もしかして居待はおれたちが羅刹に負けた事、知ってるの?」

 でこぱちの言葉に、居待はくすくすと笑った。

「さぁ、どうでございましょう」

 俺たちが羅刹と対峙した事を知っているのは、あの場で襲われた4人とあのジジィ、竹千代、それにあやかしの朋香。さらには、町奉行所の隠密である朋香から、賽ノ地の奉行所全体に知れているだろうことは想像がつく。

「羅刹は仕留め損ねた相手の元に再び現れると申します。ご用心くださいませ」

 仕留め損ねた相手の元に。

 その言葉でふっときさらの顔が浮かんだが、そんな筈はないとすぐに思い直した。

 何より、その感情を捨てる為に俺は草庵を出たんだろう?

 焦燥がざわざわと背筋を這い上がってくる。心の奥底に隠した澱が騒ぎだしていた。



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