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第九話


 草庵の付近で多少の運動はしていたものの、本格的に体を動かすのは久しぶりだ。

 軒下に吊るされていた上着を取り込んで着込んだ。軒で雨を避けてはいたが、袖を通せば、濡れているわけでもないのにしっとりと冷たかった。

 一ヶ月以上もあの草庵に籠っていたのだ。身体の鈍り具合は半端でない。腕を振りまわしてみるが、しっくりこない。まるで自分のものではないように感じる。

 ほんの一ヶ月。されど一ヶ月。

 荒れた生活を送っていた頃に戻るには少しかかるかもしれない。

 それでも、右腕を失った時ほどに時間はかからないはずだ。

 降っているというよりは漂っている程度の霧雨の中、笠もなく荒れ地を往く。

「静かだね、青ちゃん」

「そうだな」

 いつもならはぐれ者が厄介事を吹っ掛けてくるはずのこの場所が、気味悪いほどの静けさに包まれていた。あれからもう一ヶ月も経っている。盗賊たちは、元羅刹狩りの集団に残らず駆逐されてしまったのだろうか。

 賽ノ地に現れた羅刹たち。

 盗賊を狩り始めた元羅刹狩り。

 半年前に羅刹族との和平が成立してから、どうにも面倒な方向へ話が進んでいるようにしか思えない。

 顔に細かな雨粒があたり、髪に水滴が膨らんでいく。多少上着が濡れる程度だった雨が、徐々に強くなってきている気がする。

 どこかで雨宿りでもしようか、と思った時、ふいにあの茶屋の親父の顔が浮かんだ。

 社交辞令だとは思うが、また来い、と言っていたな。

 静まり返った荒れ地を抜け、俺たちは町の方角へと向かった。


 賑わいを見せるはずの町中も、雨の日ばかりはもの静かな雰囲気に包まれていた。笠や蓑に身を隠し、いそいそと道を往く人々の足も速い。

 本降りになってきた雨粒を避け、目的の茶屋に辿り着いた俺たちを迎えたのは、温厚な親父ではなく、騒がしい息子の方だった。相変わらずの岡っ引き姿で、腰に十手という茶屋の店先にはおおよそ似つかわしくない男は、でこぱちの姿を見止めるなりにこにこと笑いかけてきた。

「よぉっ、耶八やはち! 遊びに来いって言ったのに、なかなか来なかったじゃねぇか。何してたんだよ」

「んーとね、羅刹たちと戦って、大怪我して、休んでた」

「はぁ?!」

 でこぱちの答えに、茶屋の息子のらいは眉の真ん中に大きくしわを寄せる。

 余計な事を、と思ったが面倒なので放っておく。

 俺たちが何も言わないうちから湯呑に入った熱い茶と団子を数本、丸盆に乗せて持ってきた。友人でももてなしているつもりなのだろうか、客として扱っていないのならば、もともと代金を払うつもりのないこちらとしても願ったりかなったりだ。

「おい、耶八。何だその羅刹がどうのってどういうこった?」

「きさらを探して山に入ったら羅刹がいてさ、いきなり襲われたんだ。一生懸命戦ったんだけどあいつら、びっくりするくらい強くってさぁ」

「ん? ちょっと待て、意味分かんねぇんだけど。何? 山に入って羅刹がいたって? きさらって?」

 勢いで聞き返されて、でこぱちは首を傾げた。

「んー、おれも実はよくわかんないんだ!」

「何だそれ」

「でも今はもう元気だよ! 青ちゃんも元気になったしね!」

「ん? ならどうでもいいか」

 そうして笑いあった二人の会話のあまりの意味のなさに、力が抜ける。

 駄目だ。隣で聞いているだけで疲れる。

 頭痛を催してきた頭を押さえ、大きくため息をついた。

 と、そこへふっと影が差した。

 見上げれば、唐傘からかさを差した浅縹あさはなだ色の髪をした町娘の姿があった。

 いや、違う。町娘のような格好をしているが、ヒトではない。

 雨避けの唐傘を肩に乗せ、俺を見下ろした女は、唇の端で笑んだ。

「怪我はもういいの?」

 微かな獣の匂い。

 以前、この場所で喧嘩を吹っ掛けてきた狐狸とは比べ物にならない化け技術だが、それでもあやかしの気配を完全には消せはしない。

「お陰さまでな」

 あの時、羅刹から俺たちを逃してくれた忍び装束のあやかしだった。

「隣、いいかしら」

「どうぞ」

 丁度、二人のくだらない会話を聞くのも飽きてきたところだ。

 唐傘を閉じて立てかけ、あやかしは繊細な仕草で俺の隣に座った。

 このあやかしに何の事情があるか知れないが、とりあえず助けてもらったのは事実だ。礼だけは言っておくべきだろう。

「その節は、助けていただいてありがとうございました」

 棒読みで礼を述べると、そのあやかしは驚いたように目を見開いた。

「なんスか」

「貴方がお礼を言うような柄には見えなかったから少し驚いただけよ」

 そう言ってくすくすと笑ったあやかしに、でこぱちと雷がようやく気付いた。

「あ、朋香ほうかさん。景元かげもとさまは? 一緒じゃないんですか?」

 きょろきょろと誰かを探すように辺りを見渡しながら。

「ごめんなさいね、今日は私一人なの。景元様なら今頃、奉行所に籠りきりよ」

 景元かげもと様。

 そう呼ばれるのはこの賽ノ地で一人しかいない。

 近松景元ちかまつかげもと――数年前に町奉行の職につき、荒れ果てた賽ノ地をここまで再興した立役者。不良奉行と言う評判も聞くが、町人からの信頼は厚いと聞いている。

 朋香と呼ばれたこのあやかしは、その町奉行がかかえる隠密の一人なのだろう。ヒトではないが、噂から察するに奉行がそのような事を気にする性分でないのは明らかだった。

 なんとなく合点がいった。

「そうなんですか」

 不満そうな雷の様子に、朋香というあやかしは優しい声音で、しかしはっきりと言い放った。

「景元様が今、賽ノ地(さいのち)の為にどれだけ心を砕いているか、貴方にも理解出来ない筈はないでしょう? この地にもたらされる脅威がどれ程のものか、理解できない筈はないでしょう? あの和平によってこの地に下された処遇が如何に理不尽なものか、理解できない筈はないでしょう」

 隣でぽかんと口を開けて聞いていたでこぱちが、首を傾げる。

「『脅威』って、羅刹たちのこと? おれ、あんなにたくさんの羅刹を見たの初めてだったよ。和平とかそういうのはよくわかんないけど、これからああやって羅刹がおれたちの近くに来るようになるってことなの?」

 その言葉に、朋香の顔色が変わった。

「……貴方達、知らなかったのね。だからあの時、あんな場所に」

玖音くのんも同じこと言ってたな」

 ここがどんな場所か分からないの、今日が何の日なのかは知らないでしょうけど、と。

「あの日は確か夕刻に賽ノ河原で政府の人間と羅刹たちが話しているのを見た。羅刹たちが東山を通って帰る事は分かっていたから、きさらを迎えに行った。それだけだ」

「もしかして『羅刹検分』の日の事か? お前、奉行所からのお達しを聞いてなかったのかよ?! 景元さまからのお言葉だぞ?! 聞けよ!」

 面倒だからとにかく黙っていて欲しい。

 やかましく喚く岡っ引きの口を塞ぐため、団子を一本、無造作に突っ込んでおいて、俺は朋香というあやかしに尋ねる。

「どういう意味だ?」

「あの日は賽ノ地に最も近接した地域に居留地を構える羅刹の一団が政府との会合に応じる『羅刹検分』があるという御触れが、賽ノ地町奉行所から出ていたのよ。決して賽ノ河原と東山には近づかないように、と。これからきっとこの御触れを出す事が増えるでしょう。また景元様のお心に負担ばかりが郭大かくだいするのね」

 しんみりと呟いた朋香は、でこぱちに微笑みかけた。

「『和平』という一つ言葉といっても、たくさんの意味があるわ。指折り数えても足りないくらいの決め事が江戸の政府と羅刹の主君の間に交わされた。もちろんその中には、ヒトに危害を加えない、という条項もある。もちろん、その盟約が何処まで守られているか知れないのは、貴方達自身が既に体感したでしょう」

 自分たちが実際に対峙した羅刹の性分を考えれば、確かにヒトを襲うなという方が無理な気もする。さすがに政府の人間がいれば大っぴらにはしないだろうが、俺たちのように町から離れ、山の中を歩いているようなヒトを発見すれば、即座に襲いかかるだろう。おそらく、朋香が現れたことで羅刹が退いた理由はそのあたりにある。

 賽ノ地の町奉行所はそれを見越して町全体に警戒を促し、羅刹族との邂逅を防ぐ。

 いったい、和平に何の意味があったのか。

 政府に守られる立場にない俺には関係のない事だが。

「ちょっと待ってくださいよ、朋香さん! じゃあ、耶八とこいつは、羅刹が北倶盧洲の政府共との盟約を破ってヒトに手ぇ出した動かぬ証拠って事じゃ」

 団子を食い終わっていきりたつ岡っ引きがうるさい。

 二本目の団子を口に突っ込んでやった。

 そちらをちらりとも見ず、朋香は続けた。

「羅刹との間に交わされた決め事は膨大。中でも大きいのは、ヒトの世に羅刹の拠点を誘致する事を政府が許可した事ね」

「羅刹の拠点……?」

 嫌な予感がする。

 きっと、盗賊狩りに遭った時から感じていた、面倒な事になりそうだという予感が現実のものとなる。

 首を傾げたでこぱちとは対照的に、俺は思わず眉間にしわを寄せた。

「……貴方はさとい子ね。もう粗方の事情は呑み込んだはずよ」

 皆まで言わぬのは、この場で口に出すような話題ではないからか。

 岡っ引きが二本目の団子を喰い終わる前に、俺は立ち上がった。

「帰るぞ、でこぱち」

「えっ? あ、うん」

 話の途中にもほどがあるが、これ以上深入りすれば確実に抜けられなくなる。

 だから、俺に何を求めるというんだ?

 何故、今ここで、こんな話をした?

 それを聞いてしまえば最後、捕われる。

 俺のこんな浅い考えなどお見通しであろう。町奉行に忠誠を捧げるあやかしは、俺たちが去っていくのを止めなかった。

「最後に一つだけ知っておいて」

 止む気配を見せない雨の中に歩きだした俺たちの背に声がかかる。

「賽ノ地の人間は皆、『その事』を知っているわ。それでもこの地で普段と変わらぬ生活を続けているのはひとえに景元様のお力に依るものよ」

 迷いのない眼差しに、俺は何も返答しなかった。

 めんどくせぇ。

 自分の預かり知らぬ処で、何かが着々と進められている感じがする。

 分からない事が多すぎる。

 苛々する。


 あの日、雷に追い立てられながら駆け渡った橋に差し掛かった。

 欄干に妙なひげ面親父が立っていたっけ。あれはいったい何だったんだろう――と、ふと欄干を見れば、その時と同じ場所に、くるくると唐傘を回す誰かが手摺に立っていた。笠の下から細身の着流しが覗いている。不安定な手摺の上で、とんとん、と踵で拍子をとった。

 明らかに不自然なその姿に、思わず立ち止まる。

「お待ちしておりました」

 俺たちが立ち止まると、その傘が振り向いた。

 黒で全身を纏めた細身の男が、橋の欄干に佇む。落ち付かなくさせる笑顔と、左目尻の泣き黒子ボクロには覚えがあった。

 緋狐と狸休を破った時、群衆の中から俺を真っ直ぐに見ていた男だ。

 ひげ親父のように川へと落下していくことはなく、とん、と軽く欄干から降りた男は、肩に置いた傘をくるくると回しながら笑う。

「本日は、ご挨拶にあがりました」

「……何者だ」

 警戒が伝わり、でこぱちは背の刀の柄に手をかける。

「申し遅れました。私は『烏組』かしら烏之助うのすけと申します」

「ようやく真打ちの登場ってわけか」

 不機嫌そうな槍の女も、緋狐ひこ狸休りきゅうも、元羅刹狩りの一味『烏組』に属しているという。最も今は、盗賊狩りと言い改めるべきなのかもしれないが。

「次々面倒な相手を差し向けやがって……羅刹を狩る事が出来なくなったら次は盗賊か? 単純な事だな」

「違いますよ」

 傘を持つ反対の手で腰帯に差していた扇を広げた男は、口元を隠すようにしてさらりと告げた。

「私たちが盗賊を狩るのは、これまでと同じ、政府からのご指令です。何しろ近いうち、この賽ノ地には羅刹の城が誘致されるのですから……そのために、貴方達のような盗賊は、邪魔なのですよ」

「えっ?」

 隣ででこぱちが驚いていたが、俺の方は予想していた事だった。

 それが聞きたくなくて逃げてきたというのに。

「ですから、今日は御挨拶です。既に部下が何名か御世話になっているようですが……そうそう、今日のこの登場も部下の真似をしてみたんですよ。如何でした?」

「……あのひげ面親父もお前の一味か」

 否定しないのは肯定の証。

 烏組という羅刹狩りが俺たちを狙っているのはもはや疑いようもない。

「青ちゃん、今のうちにこいつ、っちゃう?」

 ひやりとする空気を纏ったでこぱちが、刀を半分抜く。

 俺が号令をかける前に、男はぴしりと扇を閉じ、俺たちにくるりと背を向けた。

「また近いうち、お会いしましょう」

「俺はもう会いたくねぇ」

 くすくすと笑いながら去っていく烏之介の後姿を見送って、俺はもう逃げられない事を痛感した。


 この界隈に近いうち、政府の誘致で羅刹の城が造られるというのはどうやら事実らしい。

 中央の江戸からは遠く、隣の府州はすぐそこ。賽ノ地は、ヒトの住む里といえども、羅刹にとっては重要な戦略点に成り得るだろう。

 羅刹城の誘致のため、俺たちのような盗賊が邪魔になるのは時間の問題だった。

 静まり返った荒れ地を往きながら、俺はまた心の奥のおりが騒ぎだすのを感じていた。




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