花嫁の席を用意しなかった継母へ――三度の銀匙で家族の食卓を取り戻します
「晩餐を始めましょう」
百合彫りの銀匙は一本。椅子は十一脚。招待客は十二人。
どうやら今夜は、花嫁だけが食事をしないらしい。
薄桃色の薔薇、白い金魚草、青硝子の花器。磨かれた燭台には蜂蜜色の炎が揺れ、皿の上では赤葡萄のソースをまとった鴨肉と、翡翠豆のスープと、琥珀糖を散らした菫色の菓子が宝石箱を競っていた。
綺麗。たいへん綺麗。
その綺麗な食卓の中央、百合彫りの銀匙が置かれた女主人の席には、ドロテア夫人が座っていた。
ノエミ様は椅子のない場所に立っている。
「まだ婚礼前ですもの。家族の席にお入りになるのは早いでしょう」
ドロテア夫人は白手袋の指で銀匙を持ち上げた。百合の花弁まで丁寧に磨かれ、燭光が鋭く返る。
「ですが、ここはノエミ様がお母上から相続されたお屋敷では?」
客である私が尋ねると、夫人は上唇だけで微笑んだ。
「今はわたくしが管理しております。ソランジュ様はこの家の作法をご存じないのですわ」
「作法は存じませんが、足し算なら少々」
椅子が一脚足りない。
家の作法とは、ずいぶん算術に厳しいらしい。
「構いません」
ノエミ様はローザから受け取った淡青色の肩掛けを胸元で留めた。銀糸で縫われた小花が、彼女の指の下でひしゃげる。
「皆様のお食事を冷ましてはいけませんから」
ローザが何か言おうとした。
「給仕を続けなさい」
ドロテア夫人の声が落ちる。ローザは唇を閉じ、ノエミ様だけを見て一礼した。
ノエミ様は席のない食卓を離れた。
扉が閉じてから、十一人分の皿に料理が配られた。ローザは十一本の銀匙を下げ、給仕台に置かれていた予備の一本も銀器箱へ収めた。十二本。私は彼女の指が一本ずつ柄をなぞるのを見ていた。
宿に戻ったあとも、私は旅鞄の紐を解かなかった。
明日も別の宿を取ればいい。客というものは、いつでも帰れるようにしておくに限る。
もっとも、帰る先まであるとは限らないけれど。
* * *
「晩餐を始めましょう」
ドロテア夫人の前に、百合彫りの銀匙がなかった。
今夜の花は青紫の矢車菊。蝋燭は十四本。椅子は十二脚。ようやく数が合ったと思ったのに、今度は銀が一本足りない。
この家、晩餐のたびに何かを減らさなければ気が済まないのだろうか。
「誰も食堂から出てはなりません」
ドロテア夫人が立ち上がった。
「女主人の銀匙が盗まれました。荷物を改めます」
「使用人の持ち物まで?」
「当然です。ローザ、まず花嫁の肩掛けを」
女主人ではなく、花嫁から。
実に手際がよろしい。
ローザは動かなかった。別の侍女がドロテア夫人に顎で示され、椅子の背に掛けられていた淡紫色の肩掛けを取った。畳まれた布がほどけ、銀糸の花の間から硬い音がした。
百合彫りの銀匙が、白い卓布へ転がった。
列席者の息が一つに詰まる。
「違います」
ノエミ様は銀匙ではなくローザを見た。
「ローザが食堂へ持ってきた時には、何も——」
「使用人を庇えば罪が軽くなるとでも?」
ドロテア夫人は最後まで言わせなかった。
「婚礼前から家の物を盗む花嫁など迎えられません。婚姻交渉は中止。管理に従わない使用人も全員解雇します」
「待ってください」
私が腰を上げると、夫人の目がこちらへ滑った。
「ソランジュ様は昨夜から銀器ばかりご覧でしたわね。ノエミと親しくなさったようですし、共犯でないと誰が証明できますの?」
なるほど。
自分が銀匙を持つのは作法。花嫁が持つのは窃盗。私が数えるのは共犯。
便利な家では、同じ銀でも持ち主によって罪名が変わるらしい。
「一つ足りない。では、最後に一本へ触れた方から数えましょうか」
「盗人の言い逃れを聞くつもりはありません」
「でしたら二つからお選びください。今夜ここで、わたくしが銀匙の代金と使用人全員の未払い給金を弁償する。あるいは第三の晩餐を開き、銀器棚、客室、保管手順、出入りした者を列席者全員の前で確認する」
ドロテア夫人の指が、卓布の縁をひと撫でした。
「公開確認をなさるなら、発言した使用人をその場で解雇することはできません。証言が虚偽だと確定するまでは、住まいからも出せない。それが条件です」
「列席者を証人に、その条件でよろしいでしょう」
夫人は使用人たちを見回した。
ローザと目が合うと、声音が一段低くなる。
「誰がこの家で暮らさせてやっているか、皆、よく分かっておりますもの」
それから親族へ顔を向け、優雅に手を重ねた。
「婚礼を守るためです。ぜひ公開いたしましょう」
自分で選んだ。
私は皿の端へ避難させていた菫色の菓子を口へ入れた。甘い。とても甘い。
罠へ入った方が出した菓子だと思えば、なおさらである。
* * *
第三の晩餐まで、残る鐘は三つ。
一つ目の鐘が鳴る前に、私は未払い給金の総額を書き出させた。料理人が二か月、侍女が三か月、庭師と厩番が一か月。金額は違っても、空腹は平等にやって来る。まったく律儀で腹立たしい。
「証言によって職を失った場合、この額は私の寡婦年金から支払います」
保証証書を卓上へ置くと、使用人たちの視線が紙へ集まった。
「ただし、見たことだけを話してください。推測も忠義も要りません。誰が、いつ、どこへ入り、何を動かしたか。それだけです」
「奥様を疑っているのですか」
若い侍女の問いに、私は首を振った。
「私は数が合わないのを嫌っているだけです」
嘘ではない。
人を一人消しておいて、家族と称する計算は大嫌いだ。
ローザは証書の保証額を確かめ、それから署名欄へ目を落とした。
「わたくしが虚偽を申せば、ソランジュ様の年金が失われるのですね」
「ええ。老後のパンが薄くなります。できれば避けたいところです」
彼女はペンを取らなかった。
代わりに、まっすぐ顔を上げた。
「第一の晩餐のあと、十二本を数えました」
廊下の向こうからドロテア夫人の声が飛ぶ。
「ローザ!」
「十二本を数えました」
数字だけは痩せなかった。
私はラウレンツ様にも短い手紙を送った。味方になってほしいとも、ノエミ様を信じてほしいとも書かなかった。
最後まで証言を聞き、ご自身で選んでください。
返事は一行だった。
——承知した。
まあ、愛の言葉としては塩気が強い。
けれど甘い約束は晩餐に足りている。必要なのは、席を立たない人だ。
第二の鐘が鳴った。
私は旅鞄を客室へ置き、紐を結んだまま扉を閉めた。
あと一つ。
* * *
第三の鐘が鳴った。
「晩餐を始めましょう」
第三の晩餐には、椅子が十四脚あった。
ノエミ様の椅子もある。ただし食卓の最も端。彼女は深緑の衣装を着ていた。黒に近い天鵞絨の上を、銀の蔓草が肩から裾へ流れている。淡い肩掛けで身を小さく包んでいた昨夜とは違う。
ラウレンツ様は花婿側の親族とともに反対側に立ち、まだ誰の隣にも座っていなかった。
ローザと使用人たちは壁際に並んでいる。誰一人、給仕盆を持っていない。
ドロテア夫人だけが女主人の席に座った。
「では、公開確認の前に、客人のお荷物を改めます」
夫人が手を打つと、二人の侍女が私の旅鞄を運び込んだ。
紐は切られていた。
「わたくしの許可は?」
「婚礼を守るためです。底布まで調べなさい」
返答を待つ時と待たない時の区別が、たいへん明快でよろしい。
侍女の一人が蓋を上げる。畳んだ旅着を一枚ずつ出し、底布へ手を差し入れた。
硬いものが卓上へ置かれる。
百合彫りの銀匙だった。
親族の一人が椅子を引いた。別の者はノエミ様を見た。使用人たちの顔から色が引き、ローザの両手が給仕服の裾を強くつかむ。
ドロテア夫人は立ち上がった。
「これで明らかです。ノエミとソランジュ様は共謀して銀匙を盗み、わたくしを陥れようとしたのです。婚礼は中止。二人を屋敷から出しなさい。証言を企てた使用人も——」
「確認はこれからです」
「盗品はあなたの荷から出たのですよ!」
「ええ。ですから、失敗すれば私も失います」
私は内衣の隠しから封書を出し、食卓の中央へ置いた。花婿側の親族が封蝋を確認する。
「わたくしは、この婚姻契約の保証人です。婚礼成立までの財産保全、管理代理人による妨害の調査、契約当事者と使用人の証言保護を委任されています」
ドロテア夫人の口が半分開いた。
「保証人……?」
「盗難が事実であれば、私は職務上の信用と寡婦年金を失います。ノエミ様は持参財産と屋敷を失い、使用人は給金も住まいも失う。ですから全員、同じ食卓で確かめます」
私は封書をラウレンツ様へ差し出した。
彼は署名と封蝋を読み、親族へ回した。一人、二人、三人。確認した者から立ち上がり、ドロテア夫人ではなく食卓の中央へ向き直る。
「ドロテア夫人。調査を始める許可をいただいても?」
「も、もちろんですわ、保証人ソランジュ様。わたくしも誤解を解きたいと——」
敬称が増えた。
命令形は消えた。
実に軽い。銀匙より軽い。
「ローザ。第一の晩餐について、見たことを」
ローザが壁を離れた。
「食卓へ十一本、給仕台へ一本を用意しました。百合彫りの銀匙はドロテア夫人の前へ置きました。晩餐後、わたくしがすべて洗い、銀器箱へ納めました」
「何本ですか」
「十二本を数えました」
「その後、銀器棚の鍵は?」
「ドロテア夫人へ返しました」
「嘘です!」
夫人の声がローザへ飛んだ。
「お前が盗んだのでしょう。解雇されたくなければ、今すぐ訂正なさい!」
ローザの肩が一度だけ揺れる。
「十二本を数えました」
今度は、壁際から同じ数が返った。
「わたしも運びました。十二本でした」
「拭き布を片づける時に見ました。十二本です」
「銀器箱を閉めたのはローザです。鍵を受け取ったのはドロテア夫人でした」
夫人が使用人たちを振り返る。
「誰が発言を許しました!」
厨房係が半歩退いた。けれど、その後ろから年嵩の料理人が前へ出る。
「公開確認では、一人ずつ話してよいと伺いました」
「お前たちの給金も部屋も、わたくしが——」
「侍女には三か月分、ほかの者にも一か月以上支払われていません」
私は保証証書を持ち上げた。
「証言が虚偽なら私が支払います。事実なら、管理保証金から支払われます。今夜、口を閉じる代金はどこにもありません」
夫人の指が腰へ行く。
鍵束はある。
管理権はまだある。
声もまだ太い。
「第二の晩餐について」
若い侍女が進み出た。
「晩餐の一刻前、ドロテア夫人からノエミ様の椅子を食卓の端へ移すよう命じられました」
「席順を整えただけです!」
「どこへ移しましたか」
「最も端です。『花嫁が家族のつもりになるから、中央へ戻してはならない』と三度、命じられました」
ノエミ様の指が、椅子の背へ置かれた。
「次を」
給仕係の男が進み出る。
「同じ時刻、ドロテア夫人が銀器棚へ入りました。ローザを厨房へ行かせ、扉を内側から閉めました」
「棚卸しです。管理者なら当然でしょう」
「出てこられるまで、鍵は夫人の腰にありました。その後、ローザが銀器箱を開けた時には十一本でした」
「ではローザが隠したのです!」
「その時、ローザは銀器箱に触れておりません」
別の侍女が言った。
「夫人がご自分で開け、百合彫りの銀匙だけがないとおっしゃいました。探す前に、ノエミ様の肩掛けを調べるよう命じました」
親族たちの視線がドロテア夫人の手元へ集まる。
「花嫁が怪しいと思ったのです。あの子は以前から家の財産を——」
「『以前』の日付を」
ラウレンツ様が初めて口を開いた。
命令だった。
ドロテア夫人は彼を見る。唇が動く。日付は出なかった。
「第三の晩餐について」
私は客室係へ顔を向けた。
「本日の第二の鐘のあと、ソランジュ様の客室を整えておりました。ドロテア夫人が来られ、廊下から全員を下がらせました」
「客人の安全を確かめたのですわ」
「旅鞄には触れましたか」
「そのような物、わたくしは——」
「触れたかどうかだけを」
夫人の声が細くなる。
「わたくしにも、ご説明を申し上げるお時間をいただけませんこと、保証人ソランジュ様?」
「どうぞ。触れましたか」
「家のために必要な確認でした」
「触れましたね」
客室係が続けた。
「夫人はご自分の鍵で客室を開けました。中に入ったのは夫人だけです。出てこられたあと、扉を施錠し、鍵はずっと腰にお持ちでした。公開確認まで、ほかには誰も入りませんでした」
「ソランジュ様が先に隠したのでしょう!」
「私が?」
「そうです。自分の荷へ入れ、わたくしが置いたように見せかけたのです!」
自分が置いたように。
親族の一人が、ゆっくり夫人を見た。
ドロテア夫人の喉が動く。
「今のは言い違いですわ。誤解を解きたいだけです。婚礼を守るため、わたくしは——」
「花嫁の席をなくし、花嫁の肩掛けへ銀匙を入れ、保証人の旅鞄へ移すことが、婚礼を守る手順ですか」
夫人は答えなかった。
「婚礼が中止された場合、管理代理は継続されます。屋敷の収支も、人事も、夫人の手元に残る。ですが管理者による相続人の排除、財産の移動、婚姻妨害が公開確認で認定された場合、代理権は即時停止。管理保証金は未払い給金へ充当されます」
書面だけなら紙の話だ。
だから私は、夫人の腰を見た。
「鍵を」
「これはわたくしが預かったものです!」
ドロテア夫人が鍵束を握りしめる。
花婿側の親族が二人、食卓を回った。ノエミ様の親族も一人、その隣へ立つ。
誰も夫人へ手を伸ばさない。
ただ、待った。
白手袋の指が一本ずつ開く。鍵束が卓上へ落ちた。銀と鉄がぶつかり、百合彫りの銀匙が小さく跳ねる。
私は管理権停止の通知を夫人の前へ置いた。
「今夜から、屋敷への立入り、使用人への命令、婚姻交渉への発言はできません。私物は目録を作ったうえで、明日の第三の鐘までに運び出されます」
「ノエミ。あなたから皆様へ説明なさい。わたくしが家のために、どれほど——」
ノエミ様は返事をしなかった。
「ラウレンツ様。こんな醜聞のある娘との婚礼など、御一族が許すはずは——」
ラウレンツ様も動かなかった。
ドロテア夫人が扉へ向かうと、使用人たちは左右へ分かれた。
道だけを開ける。
呼び止める者はいない。追う者もいない。
扉が閉じた。
銀は戻った。
さて。
「次は、食卓から消された方を戻していただきます」
ローザが百合彫りの銀匙を白布で拭いた。
一度、二度。曇りが消え、百合の花弁に燭光が宿る。
彼女はそれをノエミ様の前へ運んだ。
けれど、端の席には置かなかった。
食卓の中央、先ほどまでドロテア夫人が座っていた場所へ置く。
「ノエミ様」
ローザが中央の椅子を引いた。
ノエミ様はすぐには座らなかった。
料理人を見た。客室係を見た。若い侍女を見た。給仕係を見た。一人ずつ名前を呼び、短く礼を告げた。
「今まで、私のために職と住まいを危険にさらさせてしまいました」
「違います」
ローザは首を振った。
「わたくしたちは、自分たちの女主人のために証言したのです」
「女主人は、皆の給金を滞らせません。部屋を盾にもいたしません。明朝、私の名で契約を結び直します」
ノエミ様は、自分で中央の椅子を引き直した。
それから座る。
ローザが百合彫りの銀匙を彼女の右手へそっと寄せた。
壁際にいた使用人たちが頭を下げる。
「お帰りなさいませ、ノエミ様」
一人の声に、次の声が重なった。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ、わたくしたちの女主人」
親族たちも立ったまま、ノエミ様へ一礼した。
ラウレンツ様がようやく歩いた。
彼はドロテア夫人のいた側には行かなかった。長い食卓を回り、ノエミ様の右隣の椅子を引く。
「婚姻は予定どおり行う」
短い声が食堂を通った。
「この屋敷はノエミの名で管理し、婚姻後は私も共同で責任を負う。今夜の証言者の給金と住居は、契約で守る」
ノエミ様が彼を見上げる。
ラウレンツ様は百合彫りの銀匙が見つかった時から一度も離れなかった。そのまま彼女の隣へ座る。
これで花嫁の席は戻った。
女主人も戻った。
私は保証証書を畳んだ。
「では、私の仕事は終わりです。皆様、どうぞ温かいうちに」
旅鞄の蓋を閉め、切られた紐をまとめる。今夜の宿はまだ取っていない。まあ、一夜くらいなら駅舎の待合室でも——。
木の脚が床を擦った。
ノエミ様が、自分の左隣の椅子を引いていた。
「ソランジュ様」
「そちらはご親族の席では?」
「はい」
ノエミ様は椅子から手を離さない。
「ですから、ここへ」
誰も菓子へ手を伸ばさなかった。料理の湯気だけが細く上がっている。
「あなたは私の席を戻してくださいました。けれど、あなたは毎晩、宿を変えている。客室を用意しても、旅鞄の紐を解かない。仕事が終わるたび、帰る場所を探すように次の町へ行ってしまう」
知られていたらしい。
数える側は、数えられないものと油断していた。
「東向きの部屋をあなたの部屋にします。客室ではありません。内側から施錠でき、誰も許可なく入りません。この席も、晩餐のたびに用意します」
「私は婚姻契約の保証人です。家族では——」
「今、なってください」
ノエミ様の指が椅子の背を包む。
「わたくしは、あなたに毎晩帰ってきてほしいのです」
ラウレンツ様が椅子の右側へ手を添えた。
「私からも頼む」
ローザは左側を支えた。
「お部屋の寝具は、もう整えてございます」
なんと手回しのよいことか。
けれど誰も笑わなかった。
「お帰りをお待ちします」
料理人が言った。
「朝食にも席をご用意します」
客室係が続く。
「旅鞄も、明日は箪笥へ移しましょう」
「毎日です」
「毎晩です」
「この家の一員として」
声が重なるたび、椅子は私の方へ近づいた。
逃げ道を塞ぐのに、鍵も契約も要らないらしい。
私は椅子の背へ手を置いた。
誰も晩餐を始めない。
ノエミ様も、ラウレンツ様も、ローザも、使用人たちも、親族たちも、私が座るまで待っている。
「それでは」
切れた旅鞄の紐を手から落とした。
「席も、部屋も、いただきます」
椅子に腰を下ろすと、十四人分の息がいっせいにほどけた。
ノエミ様が私の皿へ、まだ温かい翡翠豆のスープをよそう。
「お帰りなさいませ、ソランジュ様」
今度は、私が数え損ねた。
一人目の声に、何人の声が重なったのか。
* * *
翌朝、未払い給金はドロテア夫人の管理保証金から全額支払われた。
私の寡婦年金に付けた保証は、封を切られないまま返された。老後のパンは厚いままである。めでたい。
屋敷の管理権はノエミ様へ移り、ラウレンツ様との共同管理条項も加えられた。使用人の給金日は毎月二十五日。住居は雇用契約の終了後も三十日間保護。解雇には理由の記載と、ノエミ様本人の署名が要る。
数字は人を追い出すためにも使える。
守るために使う方が、ずっと見栄えがいい。
東向きの部屋で目を覚ますと、朝の光が白い壁を蜂蜜色に染めていた。寝台には陽だまりの匂いが残り、衣装棚には私の旅着が掛かっている。
旅鞄は空だった。
食堂へ下りると、焼きたての丸パン、金色の卵、林檎の蜜煮、湯気を立てる白いスープが並んでいた。
ノエミ様とラウレンツ様が中央にいる。ローザは給仕台のそば。使用人たちはそれぞれの仕事をしながら、扉の開く音に顔を上げた。
私の椅子だけが空いている。
「遅くなりました」
「構いません」
ノエミ様が立ち、私の椅子を引く。
今度の「構いません」は、誰かが食卓から退くための言葉ではなかった。
朝食に遅れただけで、私の椅子を空けて待つ人がいる。
これは少々、逃げにくい。




