落ちこぼれ魔術師ですが、第三王女だけはなぜか優しい
魔術師の管理棟の裏庭に、甘い匂いが漂っていた。
レインは鍋を持ち、額に滲む汗を袖でぬぐいながら、小さな鍋をじっと見つめていた。
近くのテーブルには残りわずかなチョコレートとミルクと蜂蜜。
もうあとがない。これ以上失敗できない。
長めの前髪は銀色の目にかかり、伸びた後ろ髪は適当に結んでいるのでぼさぼさだ。レインの銀髪はこのあたりでは珍しいらしく、よく「灰かぶり」とからかわれた。
魔術師見習いの灰色のローブはあちこちに焦げ跡があり、左の袖などはもはや原形をとどめていない。
どうしてこうなったかというと、火加減を間違えたからである。
しかし失敗を続けた甲斐があって火加減はうまくなった。
中庭に作った簡易的なかまどに魔法で火を起こし、その上に鍋を置いて材料を入れる。ミルク、チョコレート、蜂蜜の順だ。
いい感じに溶けてきた。……けれど。
「なんでいつもここで分離するんだよ。もう!」
混ぜ方が足りないのだろうか。
手にしたヘラを鍋に突っ込んで乱暴にかき回す。この失敗は何度目だろうか。
「何がいけないんだよ!」
イライラして呟いた瞬間、魔力の出力を誤りボッと炎が大きくなったと同時に、ぼん、という情けない音が響いて鍋の中身が湯気になって消えた。
「あーあ」
背後から声がした。
レインは振り返ることもなく目を閉じた。聞き間違えるはずがない。この声だけは、どんな喧騒の中でも聞き分けられる自信があった。
それは嬉しいことなのか、それとも自分の業の深さの証明なのか。
「殿下。このあたりは立入禁止のはずですが」
覚悟を決めて振り返ると、豪奢なドレス姿のオレンジ色の髪の毛に鮮やかな緑色の瞳の少女が立っていた。
彼女に対する第一印象は「実家にいたトラ猫っぽい」だったことは、誰にも内緒である。
「私はお姫様だもの。どこだって入れるわ」
ザク、ザク、と足元の土を踏みしめながら近づいてきた彼女の名前は、エリーゼ・ヴァルトハイン。この国の第三王女だ。
その王女様がスカートの裾が汚れることも気にせずレインの隣に何のためらいもなくしゃがみこみ、鍋の残骸を覗きこんで、ひとこと言った。
「下手くそ」
「存じております」
「七回も失敗したの?」
「六回です」
「数えてたのよ、私。あなたの失敗は七回目」
レインはようやく横を向いた。
エリーゼは口の端をわずかに持ち上げて、彼を見ていた。翡翠色の瞳にはおもしろがるような光が浮かんでいる。オレンジ色の髪の毛はきれいに結われていて、綺麗なリボンが揺れていた。
小汚い自分とは大違い。王女なのだから当たり前だけど。
けれど性格はざっくばらんで、思ったことはすぐ口にするし、やりたいことは即実行する。そのあたりはまったく王女らしくない。
初めて会った時から友達のように話しかけてきたし、いつだって親しげに声をかけてくれた。レインのやっていることや、レイン自身にも興味を持ってくれた。
見込みがあるからと田舎から王宮の魔術師見習いにしてもらったはいいものの、まわりのレベルについていけず一人ぼっちになっていたレインの心が、つかまれないわけがない。
けれど相手は王女様だし、第一、エリーゼはもともとがそういう性格なのである。
自分だけ特別、なんて、思いあがるわけないだろう?
湧き上がる気持ちを心の奥の引き出しにしまって鍵をかける。そういう作業にも、もうだいぶ慣れた。
「なんで魔術でチョコレートなんか作ろうとしてるの。しかも、厨房でもないところで」
「明日、師匠の誕生日なので。厨房は、見習いには使わせてもらえないんです」
「買えばいいじゃない」
「お金が」
「ないの?」
「ないです」
エリーゼはしばらくレインを見てから、プッと噴き出した。
王女らしくない笑い方だ。でも、レインはエリーゼの気持ちを隠さない笑い方が好きだった。
「お金はなくても製菓用のチョコの破片は買えちゃうんだ? もう少し出せばお店のチョコレートが買えると思うけど」
「これ、買ったものじゃないんです。チョコレートの破片も、ミルクも、蜂蜜も、王宮の厨房で皿洗いのバイトをして分けていただいたものなんです」
「……ふーん。で、そのなけなしの材料を七回も吹き飛ばしているわけ? もったいない」
「うっ」
「それで、何を作ろうとしているの? 見た感じだとガナッシュかしら。ねえ、作り方は厨房の人に教わらなかったの?」
「教わりました。一番簡単なチョコレート菓子の作り方を。けど、ぜんぜんうまくいかなくて……」
「誰がそんな雑な作り方を教えたのよ」
そう言って、エリーゼはレインから鍋をひったくった。
「お菓子は繊細なのよ。手順を守って、優しく、時間と手間をかけないとできないの。はい、これもっと細かく砕く」
慣れた手つきで材料を確かめ、エリーゼが皿に載ったチョコレートの破片を示す。
砕いたつもりだったのだが足りなかったのか。
言われたとおりに魔法を使ってチョコレートをさらに細かく砕くと、うんうん、とエリーゼが頷いた。及第点をもらえたようだ。
「次、火を出す。一定の大きさにして」
これも言われた通りにかまどに火をともすと、エリーゼが鍋にミルクを注いで火の上にかけた。自分で火からの距離を調節しながら、ミルクが温まっていく様子を見つめる。
「うん。これくらいかな。はい、チョコレート入れる」
言われるがままに皿のチョコレートを鍋に入れる。
エリーゼはすぐに混ぜないで、チョコレートがミルクの中で柔らかくなるのを見つめていた。
「レインはチョコレートとミルクが混ざらなくて怒っていたでしょ。ミルクの温度が高すぎたんじゃないかしら。あと、乱暴に混ぜたらだめ」
鍋を持って火からの距離を絶妙に調節しながら、エリーゼがそっとヘラを鍋の中に入れる。
「はい、そこの蜂蜜を入れる」
「殿下、その」
「この人、妙に慣れていてお姫様らしくないって思った?」
「思いました。でも殿下らしいな、とも」
レインの言葉にエリーゼが「ありがと」と笑った。
「まあ、侍女長には内緒だけどね」
エリーゼがゆっくり鍋をかきまぜる。
レインはそれを黙って見ていた。
夕暮れの光が斜めに差しこんで、エリーゼの横顔を柔らかく縁取っている。いつもは勝気で、鋭くて、誰に対してもひるまない顔が、今はただ静かに、目の前のことだけを見ていた。
きれいだ、とレインは思った。
それも、引き出しにしまった。
「……なんで、手伝ってくれるんですか」
気づいたら、口から出ていた。
エリーゼの手が一瞬止まった。止まってから、また動いた。
「別に」
ぶっきらぼうな声だった。
「あなたが七回も失敗してる匂いが塔まで届いてたから、見に来ただけ。たまたまよ」
「たまたま」
「そう、たまたま」
エリーゼはわけがあって王宮本体ではなく、王宮の片隅にある魔法使いの管理棟の塔の一角に住んでいる。だから見習い魔術師のレインも顔見知りになれたのだ。
甘い匂いが、また漂いはじめた。今度は、消えなかった。
チョコレートがゆっくりと溶けて、艶のある茶色になっていく。魔術を使っていないのに、なぜかそれは、レインがどんな呪文をかけた時よりもずっとうまくいっていた。
「殿下、チョコレートを作ったことがあるんですね」
気が付いたら、再び口を開いていた。
また、エリーゼの手が止まった。
今度は長かった。
エリーゼはゆっくりとレインの方を向いた。翡翠色の目が、まっすぐに彼を捉える。レインは逃げなかった。逃げるのが正解だとわかっていても、今日だけはどうしても、その目を見ていたかった。
「うん。ある。よくある」
「それでそんなに手慣れているんですね」
「王宮の厨房が作るチョコレートは甘すぎるのよね。王妃様が、あまいあまーいチョコレートがお好きだから。でも、私は甘ったるいチョコレートは嫌いなの。あれじゃ、素材の風味が台無しだわ」
「……」
「レインは、甘いチョコレートのほうが好き?」
「……そう、ですね。王妃様のチョコレートがどれくらい甘いかは、知らないんですけど、甘いチョコレートは好きです。その……幸せな気持ちになれるから。だから、師匠へのプレゼントも甘いチョコレートにしようと……師匠、チョコレート好きだし……」
嘘はつきたくなくて、レインは正直に答えた。
エリーゼが鍋をかき混ぜながら、ほんの少し、視線を逸らす。
「私は別に、苦いチョコレートが好きとは言ってないわ」
甘いにおいがあたりに充満する。
「ほどほどに甘いくらいがちょうどいいと思ってる」
「ほどほど、ですか」
「そう、ほどほどよ。たぶん、レインが好きなくらいだと思う」
「……」
「王妃様のはとにかく甘すぎるんだってば! さっきの蜂蜜の量だと甘すぎることはないから大丈夫よ! だから今度、私にも作って!」
なぜか顔を真っ赤にしてエリーゼが言葉をぶつけてくる。
「わかりました」
どういう理屈なんだろう。よくわからないが、エリーゼのためにほどほどに甘いチョコレートを作れるようにしておきたいと思った。
次は失敗しない。
手順を守って、優しく、時間と手間をかけて。
エリーゼのために。




