6
寒蝉が物悲しく鳴く夕暮れ、長亭は夜の帳に包まれる。
窓の外の夜景を眺めていると、月明かりが、運命の悪戯のように、私だけを照らし出していた。まるで、舞台の上でただ独り、スポットライトを浴びているかのように。
妹があんな目に遭ってからというもの、私の心は、どうにも制御が効かなくなってしまったらしい。教室の椅子に腰かけていても、教師がどんなに熱心に語りかけようとも、その声は、私の耳を素通りしていく。
私の意識は、いつの間にか、はるか遠くへと飛んでいた。
妹の通う、あの場所へ。
窓の外の夜空を見上げながら、ふと、母が教えてくれた、眠れぬ夜の過ごし方を思い出した。
「そうだ、星を数えるんだった」
呟く声は、ほとんど息だけで、隣で眠る妹を起こさぬよう、細心の注意を払っていた。
夜空に散りばめられた星々を、私はじっと見つめる。月と同じように、確かにそこに光っているから、見つけるのは容易い。
「ひとつ、ふたつ……」
指を折りながら数える。そうすれば、もっと集中できるような気がしたのだ。
しかし、「二十三」まで数えたところで、私の視線は、ある一点に釘付けになった。
月のすぐ隣に寄り添うようにして、ふたつの星が輝いている。月の光に守られるようにして、ふたつは寄り添い合っている。まるで、私と妹のように。大きな星と小さな星が、寄り添い合うように。
そして、私の思考は、再び時空を超えて、遥か彼方へと飛んだ。辿り着いたのは、私と妹の、まだ幼い日の記憶。初めて、同じ布団で眠った、あの夜のことだ。
「はあ……」
知らず、ため息が漏れた。どうやら、もう冷静ではいられないらしい。昂ぶった感情のせいで、目はさえてしまっている。
それでも、私は再び布団に戻った。そして、いつの間にか、妹の微かな寝息を子守歌に、深い眠りへと落ちていった。
「お兄ちゃん!」
朝の光が、ようやく差し込んできたのだろう。しかし、その眩しさに、夜更かしをした私が目を覚ますことはなかった。最後の最後、妹の不満げな揺さぶりによって、ようやく、私は瞼を開いた。
「もう、お兄ちゃんったら! お母さんがもうご飯、用意できてるよ。まだ寝てるの?」
頬を膨らませ、不満げな表情を浮かべる妹。だが、私の目には、それがただの照れ隠しの、愛らしい仕草にしか映らなかった。
思わず笑みがこぼれる。私は布団の中で、ぐっと背筋を伸ばした。そして、ふと窓の外に目をやった。
その時、一つの疑問が浮かんだ。いつもなら、妹は私よりずっと遅くまで眠っているはずなのに。そして、私が学校へ行く時間になってようやく、目をこすりながら、見送りに来るはずなのに。
その答えは、窓の外を見た瞬間に、すぐにわかった。
窓が、大きく開いている。窓の外からは、寂しげな風の音とともに、冷たい空気が、部屋の中に流れ込んでいた。
冷たい風が、激しく吹き荒れている。そう形容するのが、正しいのだろう。
私は、昨夜の自分の行動を、悔やまずにはいられなかった。月明かりを浴びながら、あの寄り添う星々に心を奪われた、あの時の自分を。
ようやく気づいたのだ。自分が、なんて馬鹿なことをしてしまったのかを! 窓を閉め忘れるなんて!
頭に手を当て、項垂れる。しかし、心の中では、どうやって妹に謝ろうか、そればかりを考えていた。
自分のせいで、妹は早起きしてしまったのか?
寒さのせいか? それとも、眩しい光のせいか?
罪悪感が、心の中で渦巻く。善悪二つの人格が、激しくせめぎ合っている。
だが、結局は、自分の心に従うことにした。謝ろうと口を開きかけたその時、身体が先に動いていた。妹を、強く、強く、抱きしめていた。
「ごめん」
ただそれだけ。簡潔で、飾り気のない言葉。兄妹の会話は、いつもこんな風だ。しかし、それが関係の良し悪しを意味するわけではない。
「うん……」
私の腕の中に抱かれた妹が、小さく、そう答えた。
妹は、母と同じように、聡い女の子だ。
「女の子」という言葉で、すでに大人である母を形容するのは、どこか不適切な気もするが、他に適当な言葉が見つからない。妹は、まだ「女性」ではなく、確かに「女の子」だったのだから。
束の間の、至福の時。その後、身支度を整え、私は家を出た。無意識のうちに帽子を脱ぎ、妹に別れを告げる。
「すっかり、癖になっちまったな……」
心の中で、自分自身にツッコミを入れる。だが、愛情を込めた眼差しが、抑えきれずに、妹へと向けられる。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん!」
妹は、幼い手を差し出す。笑顔で細められた瞳が、三日月のように美しい。その小さな手を、風に揺らしながら、私と別れを惜しむ。
そんな、愛らしい姿を見せられては、兄としては、いてもたってもいられなくなる。
「まるで、血が騒ぐってやつだな」
そうして、平凡な日々は、まるで一直線のレールの上を走るかのように、どこまでも滑らかに、終わりなく続いていくかに思えた。
しかし、その平穏を打ち砕く石は、必ずやってくる。
前回は、外側からのものだった。だが、今回は、内側からだった。
桜が爛漫と咲き誇る季節、妹が小学校に上がった。
信じられない…あの、いつも「お兄ちゃん」と呼んでいた小さな口が、もう小学校に通っているなんて。
時間とは、本当に、人の掌から零れ落ちる砂のようなものだ。気づけば、確かにそこにあったはずなのに、いつの間にか、指の間をすり抜けてしまっている。
この三年間、様々な人や出来事が、この平凡な田舎町にも訪れた。しかし、それらは、決して、この町の本質を変えることはなかった。変えたのは、ただ、時間だけだ。
今にして思えば、なんと夢のような日々だったのだろう。この頃は、私と妹が、共に学生生活を謳歌できた、おそらく、最も長く、そして最も濃密な時間だった。
毎朝、妹は私と一緒に起きた。顔を洗うのも、食事をするのも、家を出るのも。私と妹は、まるで影のように、いつも一緒だった。
まだ覚えている。朝の時間、私は自転車を漕ぎ、その後ろには、制服を着た妹を乗せている。
妹はいつも、片足を片側に投げ出し、私がペダルを漕ぐたびに、ふわり、ふわりと身体を揺らしていた。
そして、私は、毎回、必ず声をかけていた。「気をつけろよ!」
「ふふん」
それが、妹からの、いつもの返事だった。
しかし、ある時、曲がり角での、ほんの一瞬の不注意が、私にブレーキを強く握らせた。
安堵の息を吐いた、その瞬間。背中に、温かい感触が広がった。
あの時、妹は初めて、自転車の上で両足を上げた。そして、初めて、私の腰に、しっかりとしがみついたのだ。私たちは、まるで永遠に絡み合うDNAのように、ぴったりと寄り添っていた。
それからというもの、私は自分に言い聞かせていた。「すべては、妹の安全のためだ」と。そして、曲がり角のたびに、わざと急ブレーキをかけるようにした。
そのたびに、妹は私にしがみつき、私たちは寄り添った。
本当は、全部わかっていた。自分がこんなことをするのは、妹の安全のためなんかじゃない。ただ、もっと妹と近くなりたいだけだって。
夕暮れ時、落ちていく太陽の光が、校舎を優しく染める。私は毎日、校門の前で、いつも遅れて出てくる妹を待っていた。
そして、そのたびに、友人は決まって、こう冷かすのだった。
「また彼女を待ってるのかよ!」
そのたびに、私は決まって、こう言い返す。
「何言ってんだよ、妹だって!」
しかし、心の奥底では、もうとっくに気づいていた。自分の中での、妹という存在の定義が、いつの間にか、ずれてしまっていることに。
妹が、校庭を小走りに駆けてくる。満面の笑みを浮かべたその姿を見るたび、私も思わず微笑みを返していた。
友人も、察して、そっと離れていく。ただ、その顔には、「わかってるよ」とでも言いたげな表情が浮かんでいる。
私は気づかないふりをして、妹が飛び込んでくるのを受け止める。
帰り道、私たちは尽きることなく語り合った。妹は、嬉しそうに、学校での出来事を話してくれる。
「ねえねえ、お兄ちゃん、聞いてよ! 私のクラスメイトがね…」
「ねえねえ、今日ね、先生がね、たくさん面白い話をしてくれたんだよ…」
道中、自転車が巻き上げる桜の花びら。私たちの感情は、確かにそこに形となり、誇らしげに、空気の中にまき散らされている。
妹は、いつの間にか、自然と、私の腰に手を回すようになっていた。
それからは、もう、わざと曲がり角でブレーキをかける必要もなかった。出発するときから、私たちは、もう、ぴったりと寄り添っていたのだから。
一学期が終わった。学校は、いつだって退屈だ。しかし、妹がいると思うだけで、退屈も、なんだか悪くない気がしてくる。
そうして、私たちは、小学生になって初めての、長い休みを迎えた。
学校生活で満たされていた毎日が嘘のように、家に帰ると、急に虚しさと退屈が襲ってきた。
妹も、どうやら同じように感じているらしい。そう思うたびに、妹の社交性が心配になった。しかし、毎日の帰り道の楽しそうな話を聞くたびに、その心配はすぐに消え去った。
だが、意外なことに、妹は一歩も家の外に出ようとしなかった。そして、すっかりインドアな気質が身についてしまった私と一緒に、部屋にこもりきりだった。
その理由が、当時の私には理解できなかった。これが、私と妹、そして母との、決定的な違いなのだろう。この点は、どうやら父に似たらしい。
私は父と同じで、どこか間の抜けたところがある。あるいは、母と妹が、あまりにも聡明すぎるから、そう見えるだけなのかもしれない。
だから、当時の私は、ただ単に、妹が日焼けや汗を嫌がっているだけだろう、と決めつけていた。だから、外に出ずに、私と一緒にいることを選んだのだ、と。
しかし、心の奥底では、妹と一緒にいられる時間が、ただただ嬉しかった。
歪んでしまった私の感情は、より一層、妹に近づこうと駆り立てる。そして、妹もまた、同じだった。私たちは、そうやって、夏休みを共に過ごした。
楽しい時間とは、そういうものだ。夏休みは、その一つに過ぎない。
この先も、同じような休みは、何度も訪れるだろう。しかし、この夏休みだけは、おそらく、一生忘れることはないだろう。
なぜなら、これが、私と妹が、ただ一緒に過ごしただけの、最も長い休みだったからだ。
その時、私は九歳で、妹は六歳だった。




