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第6章「霧の谷を超えて」




北へ続く街道は、やがて白い靄に呑まれていった。

昼だというのに太陽は隠れ、谷全体が灰色の帳に包まれている。


「……ここが霧の谷」

アズラが低く呟く。

「古くから旅人を惑わせる場所だ。道を誤れば二度と戻れない」


綺羅は肩をすくめ、わざと軽い調子で言った。

「気味が悪いね。墓場みたい。……ねぇ犬っころ、尻尾が震えてるんじゃないの?」


シバは無言で前を進む。

だが、その耳は常に霧の奥の音を探っていた。

水滴が葉を打つ音。どこかで獣の遠吠えが響く。

赤布が湿気を含み、重く肩にのしかかる。


「……違う。震えているのは、この谷そのものだ」

シバが低く言うと、綺羅は目を丸くした。


アズラは筆を握り、霧に目を凝らす。

「……この濃さは自然のものではない。碑文の残滓が混じっている」


その言葉にシバは赤布を掴む。

誓いと遺志。

この霧の奥にも、灰徴兵団の影が潜んでいるのだろうか。


霧の谷は静かに口を開け、三人を呑み込もうとしていた。



---


霧の中を慎重に進む三人。

濡れた草を踏みしめる音だけが響く。


アズラが筆を杖のように突き立て、足を止めた。

「……さきほどの二つ首の獣」


シバと綺羅が振り返る。

アズラは霧を見つめながら、低い声で続けた。


「本来、あれは存在しない生き物だ。

 灰徴兵団は古の碑文を歪め、獣をねじ曲げて兵器にしている」


綺羅が鼻を鳴らす。

「兵器ねぇ。鎖につながれてる時点で、ただの獣じゃなかったけどさ」


「違う。あれは……碑文術による実験体だ」

アズラのモノクルに炎が映り込み、瞳が揺れる。

「肉体を裂き、別の命を繋ぎ合わせた。

 碑文の残滓を血肉に刻み、制御できぬものを鎖で縛った」


綺羅は言葉を失い、シバは拳を固く握る。

赤布が湿気を吸い、重く垂れた。


「……碑文を……獣に刻んだ、だと……?」

シバの声には怒りが滲んでいた。

「碑文は、生きる者の祈りだ。

 それを歪めて兵器にするなど……許せるものか」


アズラは小さく頷く。

「だからこそ、断片を探す。

 灰徴兵団の手に渡る前に、正しい形で記さねばならない」


綺羅は肩をすくめ、無理に軽口を装った。

「ったく、どいつもこいつも物騒な連中だね。

 ……けど、そういう話、嫌いじゃないよ」


霧の奥から、不気味な獣の遠吠えが響いた。

三人の影が揺れ、緊張がさらに高まっていく。



---


足音がした。

濃霧の奥で、鎧が擦れる低い音が重なって響いてくる。


シバは即座に四足に身を沈め、耳を立てた。

「……来る」


やがて白い霧を割り、影がいくつも浮かび上がる。

鎧に灰布を巻いた兵士たちが、槍を構えてじりじりと迫ってきた。

霧に揺らぐ姿は、まるで亡霊の群れのようだった。


「谷の侵入者を見つけたぞ!」

「赤布を奪え!」


号令と共に、兵たちが一斉に前へ進み出す。

足音は霧に反響し、数が倍にも膨れ上がって聞こえる。


綺羅が唇を吊り上げ、短剣を抜いた。

「霧に紛れて数で来るか……やり口がいやらしいね」


アズラは筆を走らせ、墨で符を描く。

「足音は幻だ。実数は少ない……だが油断するな」


シバは赤布を翻し、低く唸った。

目に映る影の数は曖昧だが、牙を剥く兵の気配だけは鮮明に感じられる。

――誓いを違えるわけにはいかない。


兵士の一人が槍を突き出し、霧を裂いた。

その瞬間、三人の戦闘が始まった。



---


槍の穂先が霧を裂き、シバの頬をかすめた。

鋭い金属音が谷に反響し、霧が震える。


「囲め!」

兵士たちが声を上げ、霧の中から次々と影が迫ってくる。


「数が……!」

綺羅が舌打ちし、影を地面に走らせる。

――《影縫》。

黒い糸が兵士の足を絡め取り、倒れた影が槍を取り落とす。


「寝てろって言ってんの!」

綺羅は短剣を振り下ろし、兵士を無力化していく。


だが霧が濃すぎて、影の走る範囲も限られていた。


「……視界を開ける」

アズラが筆を振るう。

「――《風裂》」

符が空気を裂き、霧の一角が一瞬晴れる。


その瞬間、兵士の位置が鮮明に浮かび上がった。


「シバ!」

アズラの声に応え、シバは赤布を翻して飛び出した。

二足に切り替えた足で岩を蹴り、兵の前列へ突撃する。


「うおおおッ!」

ナイフが閃き、盾を弾き、鎧の隙間を裂いた。

兵士が呻き声を上げ、崖際に崩れ落ちる。


「赤布の犬だ! 囲め!」

恐怖と怒号が入り混じり、兵たちは必死に槍を構える。


綺羅が背後から影を這わせ、槍を絡め取った。

「ほらほら、鈍重すぎ!」


シバがその隙を突いて兵を倒し、アズラが符で霧を操り、三人の動きを繋げる。


やがて数で劣った哨戒部隊は崩れ、残った兵は霧の中へ散っていった。



---


霧が静まり、谷に再び湿った静寂が戻った。

倒れた兵の影が霞に溶けていく。


「ふぅ……」

綺羅が短剣を収め、汗を拭った。

「思ったより数は少なかったね。音で誤魔化してただけか」


シバは赤布を揺らしながら周囲を警戒していたが、ふと後ろを振り返る。

「……アズラ?」


アズラが片膝をつき、筆を杖代わりにしていた。

指先が震え、墨壺を落としかける。


「っ……」

額に薄紅色の紋様が一瞬、浮かび上がった。

まるで碑文そのものが皮膚に刻まれたかのように。

すぐに霧に溶けるように消えたが、苦痛の痕跡は残っていた。


指先の墨は皮膚に染み込み、いくら拭っても落ちなかった。

それを見せまいと、アズラは静かに拳を握りしめた。


綺羅が眉をひそめる。

「……ねぇ、無理してんじゃないの?」


アズラは震える手で筆を拭き、息を整えた。

「……碑文を走らせれば、代償は必ず来る。

 記す者の肉体に刻まれるのは……自然の摂理だ」


綺羅は舌打ちをして、わざとそっぽを向く。

「そんな理屈、知らないけどさ……死なれても困るんだよ」


アズラはかすかに笑みを浮かべ、筆を仕舞った。

「……だからこそ、慎重に扱う。

 碑文は……命そのものだ」


シバは沈黙したまま、その背を見つめていた。

赤布を握る手に、知らず力がこもる。



---


夜。

霧の谷を抜けた岩場で、小さな焚き火が揺れていた。

炎の赤が三人の影を揺らし、湿った冷気をわずかに追い払っている。


綺羅は背中を壁に預け、干し肉をかじっていた。

だが、その視線は火ではなく、遠くの闇に注がれていた。


アズラがモノクル越しにちらりと見やり、低い声を落とす。

「……さっきの『ありがとう』が、まだ頭に残っているようだな」


綺羅は肩をすくめ、無理に笑ってみせた。

「へぇ、学匠様は人の心まで読み取れるの?」


「表情に出ていた。気にしていない振りは、下手だ」


綺羅は一瞬、黙った。

火花が弾け、その光に彼女の横顔が浮かぶ。


「……人を助けても、結局裏切られるだけ」

その声は低く、笑みとは反対の色を帯びていた。

「昔、助けてやった奴に……背中から刺されたんだ」


冷たい刃が背を裂いた感覚が、一瞬よみがえる。

あの夜の吐き捨てるような笑い声――綺羅は炎を睨み、心に鍵をかけた。


シバが顔を上げた。

赤布が揺れ、彼の目が細められる。

だが、問いただすことはしなかった。


綺羅はわざと明るい声を作り、干し肉をもう一口かじった。

「ま、そんな話はどうでもいいの。

 私は私のやり方で生きるって決めてるから」


風が吹き、炎が揺らいだ。

彼女の影は長く伸び、谷の闇に溶けていった。



---


翌朝。

霧はまだ晴れず、谷は白い幕に閉ざされたままだった。

三人は古びた吊り橋に差し掛かる。


木板は湿気で腐り、縄は所々ほつれている。

谷底は深く、白い靄に覆われて見えない。


綺羅が鼻を鳴らした。

「……最悪。落ちたら骨も残らないね」


シバは首元の赤布を押さえ、足を踏み出した。

板が軋み、不吉な音を立てる。

「渡るしかない」


三人が進み始めたその時――。


「今だ、落とせ!」

霧の奥から声が響き、灰徴兵団の兵が仕掛けた。

縄を切る刃が走り、橋が激しく揺れる。


「くっ!」

アズラが筆を振るい、結界を張って片側の縄を押さえた。

だが橋は大きく傾き、綺羅の体が宙に投げ出される。


「――っ!」

綺羅の悲鳴。


シバは反射的に片手で切れかけたロープを掴み、体を支えた。

もう一方の手で赤布を引き解き、綺羅へと差し伸べる。


「……掴め!」


綺羅は必死に片手を離し、布を掴んだ。

その瞬間、赤布を通して熱が走る。

まるで師の声と誓いそのものが、彼の腕を突き動かしているようだった。

赤布が悲鳴を上げるように引き伸ばされ、二人の体重を受け止める。


「馬鹿……そんな無茶……!」

綺羅の声は震えていた。


シバの牙が剥き出しになり、獣のような唸りが漏れる。

「誓いを……違えるわけにはいかない!」


その言葉に、綺羅の瞳が揺れた。


アズラが結界で兵を押し返し、筆先を霧に突き立てる。

「――《風裂》!」

霧が一瞬吹き飛び、敵兵が後退した。


その隙にシバは全身の力を込め、綺羅を引き上げた。

二人が岩場に転がり込んだ瞬間、橋は轟音と共に崩れ落ちていった。


白い霧の中、解き放たれた赤布だけが強く揺れていた。



---


崖を越えた先には、湿った草原が広がっていた。

白い霧は背後に取り残され、空には淡い星が顔を出し始めていた。


三人は岩に腰を下ろし、しばし無言で息を整える。

崩れ落ちた橋の轟音が、まだ耳に残っていた。


綺羅は腕の擦り傷を撫で、苦笑を漏らす。

「……助けられるなんて、柄じゃないんだけどね」


シバは赤布を結び直し、短く答える。

「誓いを……違えるわけにはいかない」


その言葉に綺羅は一瞬だけ黙り、火花のように笑みを浮かべた。

「……あんた、ほんと頑固だね」


アズラは筆を拭いながら、額に残る痛みを押さえていた。

「……霧の谷を越えた。だが次は、さらに険しい地だ」

その目は北の地平を捉えていた。


シバは星を仰ぐ。

赤と藍翠――師から受け継いだ誓いと遺志。

そして今、守るべきものが隣にいる。


夜風が吹き、赤布が再び揺れる。

三人の影は並んで伸び、北の闇へと消えていった。






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