第5章「灰の牙を超えて」
山道を抜ける風は冷たく、崖沿いの道は細く険しかった。
足元には砕けた岩が転がり、遠くには灰色の雲が垂れ込めている。
赤布をなびかせたシバは、先頭を歩いていた。
指先が無意識に布を掴む。
――赤は誓い。藍翠は遺志。
胸の奥で、師の声がわずかに蘇る。
綺羅が欠伸をしながら歩調を合わせた。
「ねぇ犬っころ、あんたさ……そんな布、暑苦しくないの?」
シバは視線を逸らし、短く答える。
「……これは、俺の誓いだ」
「ふーん。誓いねぇ」
綺羅は鼻を鳴らし、しかしそれ以上は追及しなかった。
その横顔は、先ほど村人に言われた「ありがとう」という言葉を思い返しているようだった。
後方からアズラが声を落とす。
「この先に……碑文の断片が残っている可能性が高い」
綺羅が片眉を上げる。
「また碑文? あんたほんと、そればっかりね」
アズラはモノクル越しに視線を崖の先へ投げた。
「……碑文は、人の記憶そのものだ。
粗末にすれば……必ず裏切る」
その言葉に、シバは振り返った。
アズラの横顔に浮かんだ一瞬の陰りを見逃さなかった。
風が吹き、赤布と藍翠の裾が揺れる。
三人の影は細い山道に並び、北の空へと伸びていった。
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突如、山道の先に金属音が響いた。
崖下からせり上がるように、灰徴兵団の旗が現れる。
鎧に灰布を巻いた兵たちが隊列を組み、鋭い眼光を向けていた。
その足元には――鎖に繋がれた獣。
黒毛に覆われ、二つの首を持つ異形の軍犬が牙を剥いた。
綺羅が舌打ちする。
「ちっ……派手に追っ手を差し向けてきたわけだ」
シバは低く唸り、ナイフを握り直す。
赤布が風に舞い、崖風に翻る。
胸の奥が疼く――灰徴兵団。
この旗を、何度夢に見たことか。
兵の号令が響いた。
「赤布の犬を捕らえろ! 布を奪え! 生かして返すな!」
獣が鎖を千切り、二つの咆哮を上げて飛び出す。
大地が震え、岩が砕ける。
綺羅が短剣を抜き、口元に笑みを浮かべた。
「犬っころ、あんた相手にピッタリの獣じゃない」
アズラは筆を掲げ、墨壺を開いた。
モノクルの奥の瞳に、微かな疲労と決意が揺れる。
「崖沿いだ……慎重に動け。
ここで落ちれば、碑文も誓いも灰に還る」
シバは四足に体を沈め、一息で前に飛び出した。
赤布が翻り、二つ首の獣と正面から衝突する。
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二つ首の獣が咆哮を上げた瞬間、灰徴兵団の兵士たちが剣を抜き、一斉に隊列を組んで迫ってきた。
崖道に金属音が響き渡る。
「囲め! 赤布の犬もろとも獣に喰わせろ!」
シバの赤布が風に舞う。
胸の奥に疼くのは、奪われた日々の記憶――。
「……ッ!」
四足に沈み込み、兵の前列へ飛び込んだ。
ナイフが盾を裂き、兵士の列を強引に切り開く。
刃を交わすたびに、赤布が閃光のように揺れる。
「数が多い……!」
綺羅が舌打ちし、地面に影を走らせる。
――《影縫》。
兵の足元が黒く絡みつき、次々と倒れ込む。
「邪魔だから寝てな!」
崖の反対側から迫る兵に、アズラの声が重なった。
「――《結界》」
透明な壁が立ち上がり、剣を弾き返す。
次の瞬間、筆先から紫墨が飛び散った。
「――《幻声》」
不気味な反響が兵たちの耳を狂わせ、隊列が乱れる。
その隙を縫うように、鎖を引き千切った二つ首の獣が突進してきた。
岩が砕け、崖道に土煙が舞う。
「犬っころ!」
綺羅が叫ぶ。
シバは二足に切り替え、正面から獣とぶつかる。
ナイフを突き立てるが、分厚い皮膚に弾かれる。
もう一つの首が牙を剥き、綺羅へ飛びかかった。
「……っ!」
綺羅は短剣で受け流すが、爪が肩を掠め血が飛ぶ。
「綺羅!」
シバの唸り声が崖道を震わせた。
アズラが筆を振り下ろす。
「赤布――その刃を導け!」
朱墨がシバのナイフを走り、刃が赤く燃える。
ガキィィン――!
燃え立つ刃が獣の肩を裂き、血飛沫が弾ける。
「シバ! 押し込め!」
綺羅が影を広げ、獣の脚を崖際へと縛り付ける。
シバは咆哮し、渾身の突きを叩き込んだ。
アズラの符が炎となって走り、裂け目を焼き尽くす。
――轟音。
獣が断末魔の咆哮を上げ、兵士たちを巻き込みながら崖下へと落ちていった。
残った兵士たちは恐怖に駆られ、武器を捨てて逃げ散る。
崖道に残ったのは、息を荒げる三人の影だけだった。
赤布が風に翻り、夜の闇へと伸びていた。
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崖道を抜けた先、小さな岩陰に焚き火が灯っていた。
三人は肩で息をしながら、その炎を囲んで座っている。
綺羅は破れた袖を裂き、肩の傷に巻きつけた。
「……ったく。あの獣、重すぎ」
苦笑しつつも、瞳にはまだ戦いの熱が残っている。
アズラは黙々と筆を拭っていた。
火に照らされたモノクルの奥に、わずかな疲労が浮かぶ。
「……符を走らせすぎた。代償が……残るな」
綺羅がちらりと視線を向け、わざと軽い声を投げる。
「無理してんじゃないの? あんた」
アズラは答えず、ただ筆を丁寧に仕舞った。
火花が弾け、沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのはシバだった。
赤布を握りしめ、低く呟く。
「……誓いを、違えるわけにはいかない」
綺羅が片眉を上げる。
「誓い、ねぇ。ずいぶん大げさな言い方」
だが、茶化す声には先ほどの村人の「ありがとう」が重なっていた。
彼女自身もそれを振り払えずにいた。
シバは火を見つめ続ける。
復讐だけではない。
――守りたいものが、この手の中にある。
その思いが、胸の奥で静かに膨らんでいた。
夜風が吹き、赤布と藍翠の羽織が揺れる。
三人の影は焚き火に重なり、北の闇へと伸びていった。