第4章「灰の補給拠点」
翌朝。
廃都を抜ける細い街道を、三つの影が並んで進んでいた。
赤布をなびかせたシバは無言のまま先を歩き、
綺羅は背伸びをしながら欠伸をかみ殺す。
その背後では、アズラが黒外套を翻し、杖を兼ねる長筆を軽やかに支えていた。
「……で、結局北へ向かうんだ」
綺羅が干し肉を噛みながらぼそりと呟く。
「灰徴兵団の補給拠点があるってのに、物好きなこと」
シバは短く答える。
「……行かねばならない」
それ以上は語らなかった。
彼の脳裏には、炎に包まれた村の光景がよぎっていた。
奪われたもの、失われた声。
灰徴兵団の旗を見るたびに、胸の奥が鈍く疼く。
沈黙を破ったのはアズラだった。
「補給拠点には……碑文の断片が眠っている」
淡々と告げる声は風に紛れ、しかし確かに二人の耳に届いた。
綺羅は片眉を上げる。
「また碑文? あんた、よっぽど執念深いね」
アズラは表情を変えない。
ただモノクルの奥の瞳だけが、かすかに揺れていた。
街道を抜けた先――山裾の谷間に、それは見えた。
粗末な砦を囲う柵。並ぶ物資の山。
鎧に灰色の布を巻いた兵たちが列をなし、
捕らわれた民が荷を運ばされている。
「……灰徴兵団の補給拠点」
シバが低く呟いた。
綺羅は唇を歪め、短剣の柄を撫でる。
「さて、どう料理してやろうか」
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谷間に吹き下ろす風が、三人の外套を揺らした。
眼下には補給拠点。柵に囲まれた倉庫群と、巡回する兵の列。
綺羅が腰をかがめ、瓦礫の陰から覗き込む。
「正面突破は自殺行為だね。見張りが倍はいる」
シバは目を細め、周囲を見渡した。
崩れかけた吊り橋、荷を積んだまま放置された馬車、油壺を並べた倉庫。
「……利用できる」
アズラが静かに頷き、筆を掲げる。
「吊り橋を崩せば、退路を断てる。油に符を刻めば……火が走る」
「へぇ、派手好きだこと」
綺羅は口元に笑みを浮かべると、短剣を抜いた。
「じゃあ私は影で兵を誘導する。犬っころ、あんたは前に出て暴れて」
シバは黙って頷く。
胸の奥で鈍い痛みが広がる――灰徴兵団。
奪われた日々の記憶が、刃を握る手に熱を籠めた。
――甲高い笛の音が響き、兵たちが動き出す。
最初に飛び出したのは綺羅だった。
路地裏に影を走らせ、兵を誘導して狭い通路へと押し込む。
「こっちだよ、鈍重ども!」
追い込まれた兵が怒声を上げた瞬間、シバが影から飛び出す。
二足に切り替えた脚が石畳を蹴り、赤布を翻して敵列へ突っ込んだ。
ナイフが閃き、兵の盾を弾き飛ばす。
その頭上から、アズラの筆が符を描く。
油壺に走らせた朱墨が一斉に燃え上がり、炎が夜を裂いた。
「――《火走》」
炎に怯んだ兵を、綺羅の影縫が絡め取る。
シバが渾身の突きを叩き込み、敵列が崩れる。
混乱の只中、灰色の外套を纏った小隊長が現れた。
鉄槌を肩に担ぎ、憎悪の眼で三人を睨み据える。
「赤布の犬……そして盗賊、学匠。ここで終わりだ!」
シバは低く唸り、ナイフを握り直した。
三人の影が、炎に照らされて重なり合う――。
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炎に照らされ、鉄槌を担いだ小隊長が前へ出る。
灰色の布を巻いた鎧は煤に汚れ、眼光は獣のように鋭い。
「赤布の犬……! その布もろとも叩き潰してやる!」
地を揺らす一撃が振り下ろされ、石畳が粉砕される。
シバは四足へ切り替え、刃を閃かせながら駆け抜けた。
だが鉄槌は重く速い。僅かな遅れで地面に叩きつけられた衝撃が、全身に震動を伝える。
「犬っころ!」
綺羅が叫び、影を走らせる。
――《影縫》。
小隊長の脚を影の糸が絡め取るが、筋骨の力で容易く引き千切られる。
「小賢しい!」
鉄槌が横薙ぎに振るわれ、綺羅の身体が石壁に叩きつけられる。
シバの唸り声が響いた。
「――ッ!」
跳ね上がった彼の目は鋭く光り、二足に切り替えて突撃する。
その刹那。
背後からアズラの声が飛んだ。
「赤布……その刃を導け!」
長筆が宙を走り、朱墨の符がシバのナイフに刻まれる。
赤く燃える刃が、鉄槌の死角を狙った。
ガキィィン――!
火花が散り、鉄槌がわずかに軋む。
「綺羅!」
シバの声に呼応し、綺羅が影から飛び出す。
「了解!」
影縫を逆手に操り、敵の足元を瞬時に狭める。
一瞬の隙。
アズラが紫墨を筆に走らせた。
「――《幻声》」
小隊長の耳に重なり合う声が響き、視界が揺らぐ。
「な……ぐッ……!」
その隙を逃さず、シバが跳び込んだ。
赤い光を帯びたナイフが弧を描き、鉄槌を弾き飛ばす。
返す刃で鎧の継ぎ目を裂き、血飛沫が舞った。
小隊長は膝を折り、呻き声を残して倒れ込む。
炎と煙の中、三人は肩で息をしながら立っていた。
シバの赤布が揺れ、綺羅が短剣を下ろす。
アズラは筆先を静かに拭いながら、モノクルの奥に疲労を滲ませていた。
勝利の余韻。
だが、これが終わりではない。
灰徴兵団は補給拠点を失い、必ず牙を研いでくるだろう。
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夜。
崩れた補給拠点の外れで、三人は焚き火を囲んでいた。
炎の揺らめきが赤布を照らし、焦げた匂いと静寂だけが残る。
シバはナイフを研ぎながら黙して火を見つめている。
綺羅は背中を伸ばし、干し肉を噛みながら口を開いた。
「解放者みたいに見られちゃったね、あんたたち。
でも……人助けするために戦ったわけじゃないんでしょ?」
シバは少しだけ目を伏せる。
胸の奥に浮かんだのは、灰徴兵団に焼かれた村の光景。
声にすることはない。ただ刃を研ぐ音だけが続いた。
アズラが黒外套を正し、筆を拭いながら口を開いた。
「……この地には、まだ碑文の断片が眠っている。
私が追う理由は……今は語れない」
綺羅が鼻を鳴らす。
「神秘ぶっちゃって。まぁいいけどさ」
焚き火の火花が弾け、シバは小さく呟いた。
「……まだ、北だ」
綺羅が眉を上げる。
「奇遇だね。灰徴兵団の本拠地も、その先にあるって噂だよ」
火に照らされる三人の影は、それぞれ形も大きさも違う。
だが、今は同じ方向を見つめていた。
夜風が吹き、赤布が揺れる。
その揺らぎは、これからの旅路を示す旗のようにも見えた。