第37 章「内核前庭」
開いた裂け目を抜けると、石段はさらに下へと続いていた。
湿った冷気が頬を撫で、足音は壁に吸い込まれるように小さくなる。
「行くぞ」
シバが短く告げ、先頭に立つ。赤布には触れない。掌の軍用ナイフの柄を握り直し、微かな震えを意識の外へ追いやった。
通路の先は、丸い空間にひらけた。天井は低く、四方の壁から黒い石柱が四本、内側へ傾くように立っている。床には円が重ねられ、浅い刻みが網の目のように走っていた。
「前庭だな」アズラが刻みをなぞる。「測る場……拍、影、声。三つを揃えろ、だ」
綺羅が口の端を上げる。「また“拍”? 芸がないわね、ここの作り」
「芸じゃない。規格だよ」アズラは目を細めた。「白衛団の方位印……ここで引き返してる。『声が乱される』と注記がある」
ライカが耳を立てる。「分かる。音が遠いのに近い、近いのに遠い……嫌な響きだね」
翠が全員の顔色を見回し、低く言う。「深呼吸を二回。舌は口蓋につけて、喉を締めるな。自分の拍を崩すな」
その時、シバの影痕がじんと熱を帯びた。(呼ばれてる――違う。測られてる)
鉄の冷たい匂いが混じる。殻持ちの匂いだ。
「来る」
石柱の根元の裂け目から、殻持ちが身を起こす。甲冑のような殻は以前より滑らかで、鏡のように暗く光っていた。
「音は禁忌だよ」綺羅の影が床に走り、殻と地の隙間へ薄く貼りつく。擦れる音が殺される。
「牙音、布で包んだまま。鳴らすな」翠が念を押す。
「了解」ライカは背から双剣を抜き、革布で刃を包んだまま、殻の関節を叩く。鈍い衝撃だけが骨に響き、脚ががくんと折れた。
二体目が槍を構えて突進。
シバは二足から四足へ滑り込み、左へ空走。槍影だけを見て逆サイドへ跳ぶ。刹那、投げナイフが二枚、殻の腋を打ち、動きを鈍らせる。
「今!」
ライカの双剣が十字に走り、継ぎ目を断つ。音は鳴らない。内側の肉が潰れる重さだけが空気を沈めた。
その後だった。三体目が石柱の陰で身を丸め、鏡面をこちらに向けた。
刹那、綺羅の視線が反射像をかすめる――次の瞬間、綺羅の足元が半拍遅れ、空振りしたナイフが石に当たって指が痺れた。
「っ……!」
ライカの一撃も、反射像に誘われて肩を外す。逆に殻の突きがのしかかり、シバの肩口をかすめた。熱い痛み、毛が焦げる匂い。
「視るな!」アズラが叫ぶ。「像じゃなく縁だ!」
翠が冷静に畳みかける。「視線だけじゃ足りない。曇らせろ。土を上げろ」
綺羅が影で床の粉塵を撫で上げ、ライカが足で砂を払って殻の面へ浴びせる。鏡面がうっすらと曇り、誘う像が鈍る。
「もう一回」シバが低く唸り、視線を足先に固定。自分の拍を半拍ずらし、縁だけ見て踏み込む。
ライカの双剣が再び十字を描き、継ぎ目を断った。今度は殻が崩れた。
静けさが戻る。荒い息が石壁で細く揺れる。
アズラのこめかみから汗が落ち、視界が一瞬白黒反転する。翠がすぐ手首に触れ、「脈、速い。鎮静滴少量」と短く言って小瓶を渡した。
「助かる」アズラは舌に滴を落とし、呼吸を整える。
「前庭の『測り』は耳と目だ。次は――声」
床の円に沿って、半月状の窪みが四つ。刻みには短い文が刻まれている。
> 〈同声に非ず――同意にて開く〉
「同じ声じゃなく、同じ意?」綺羅が眉を上げる。
「音程じゃない。意味を揃えろ、だ」アズラはうなずいた。「白衛団はここで失敗してる。備忘がある――『号令一斉発声、反響に食われる』」
「なら、一発いくか」ライカが窪みに足をかける。
四人が位置につき、合図とともに声を重ねた。
「生かす」「守る」「奪わせない」「終わらせる」――
瞬間、天井から微細な遅延が返り、声がほどけて絡み合った。床の光はつきかけ、しぼむ。
「ダメ」綺羅が舌打ちする。「揃えた声が食われるってこういうことね」
アズラが即座に言語化する。「この部屋は音を二重化する。正確に同時だと、反射が干渉して意味が潰れる。白衛団は点呼で失敗したんだ」
翠が短く頷く。「息は合わせるな。だが意は揃えろ。手首、貸せ。脈を感じながら、順に重ねる。大声も要らない」
四人は互いの手首を一瞬ずつ握り合い、自分の拍を確認する。
アズラが囁く。「順番は――シバ、綺羅、ライカ、翠。半拍ずらしで重ねる。意味は同じで、言い回しはお前たちの言葉で」
シバは中心に立ち、喉の奥を開いた。(光らなくていい。俺の声でいい)
「終わらせる」
半拍後、綺羅が静かに続ける。「奪わせない」
さらに半拍、ライカが低く重ねる。「守る」
最後に翠が短く落とす。「生かす」
四つの言葉は同時ではない。だが、同じ方向へ流れた。
今度は反響がほどけずに受け止められ、床の刻みが深く光る。石柱の内側で低い共鳴が生まれた。
「正解だ」アズラが息を吐く。「白衛団は声を揃えようとした。俺たちは意を揃えた」
ライカが拳を握る。「回りくどい門だね。けど、分かりやすくもあったさ」
円の内側がわずかに沈み、前方の壁に亀裂が走る。静かな風が流れ込んだ。匂いは薄い。けれど、確かに誰かの気配がある。
誰もすぐには動かなかった。
これまでの道のりが、一瞬、胸の内をよぎる。
村で交わした「ありがとう」。ベルンの喧噪。西へ迂回した獣道の泥。
崩した岩場。牙音の金属臭。明け方の冷え。
そして、幾度も噛み締めたそれぞれの言葉――生かす/守る/奪わせない/終わらせる。
「……ここが、内核の手前だ」アズラが静かに言う。声は震えていない。だが筆を持つ手は、わずかに汗ばんでいた。
「引き返すなら今だぞ」翠が習慣のように告げる。
綺羅は笑って肩を竦めた。「言うわけないでしょ」
ライカが牙を覗かせる。「当たり前だ。ここまで来て尻尾巻けるかっての」
シバは赤布に触れず、刃だけを確かめる。影痕が内側から返事をした。(測りは越えた。次は――終わらせる番だ)
「行く」
短く告げると、仲間がうなずいた。
扉が開く音はしない。けれど、内核は確かに口を開け、彼らを待っていた。




