第36章「鎖鏡の橋」
四つ眼の帷が嚙み合う音は、背後で完全に途絶えた。
前方の通路はわずかに下り、湿り気のある冷たい風が頬を撫でる。石肌は滲むように黒く、足音は自分のものでも他人のものでもない響き方をする。
「行くぞ」
シバが短く言い、先頭に立つ。赤布には触れない。手の中の軍用ナイフを一度だけ握り直し、影痕の疼きを飲み下した。
やがて通路が開け、広く浅い凹地に出た。
そこに張られているのは──鎖に吊られた無数の鏡板。人の背丈ほどの黒い板が、鎖で天井から垂れ、ゆるやかに揺れている。間を縫うように一本道があり、足を踏み入れれば鏡板同士が触れて金属音を立てそうだ。
「白衛団の印……」
アズラが足元の石に残る白い粉を指で払う。三角を連ねた方位印と、短い刻みが寄り添っていた。
> 〈金属音は禁忌/布で殺せ〉
〈視るな、映すな、映されるな〉
「さっきの“拍を増幅させた”失敗、ここでも同じ罠ってわけか」綺羅が低く息を吐く。
「刃は抜かない。鞘ごと包む」翠が即断した。「それから視線は互いの背。鏡は見るな。踏み出すタイミングは俺が切る」
ライカはうなずき、背の双剣──牙音──を革でさらに巻き、鎖に触れないよう体の重心を落とす。「四足はやめとく。二足で行くよ。揺れをもらったら負けだ」
「アズラ、光は?」シバが問う。
「最小限。縁だけ見せる」筆先が僅かに震えた。「長くは持たない。紙拍もあと数枚だ」
準備に使える布は、包帯と古い外套の裾だけだ。綺羅は器用に裂いて柄と鞘に巻き、鏡板の縁に引っかかりそうな突起を影でなだらかにする。
翠は全員の脈に触れ、低く数えた。「三、二、無──」
無音の一拍。
シバが一歩、ライカが半歩、綺羅が半歩。アズラは紙を擦って微かな布音を作り、揺れの拍を外へ逃がす。鏡板は触れあいそうで触れず、黒い面は誰の姿も映さないまま、ただ空白を吊っている。
二列目に差しかかったとき、足元の影が膨らんだ。
鎖の影から手が伸び、くるぶしへ回り込む冷たさ。
「下!」
シバは反射で身をひねり、落としかけたナイフの柄を鏡板の縁に当てた。金属は鳴らない。革が鈍く当たるだけ。影の手が形を失い、床へ染みる。
「くそ……学習が早い」アズラが顔をしかめる。「視線じゃない、映りを食いに来てる」
「なら、映さなきゃいいだけだ」綺羅が囁き、足元に影を薄い墨のように広げた。鏡板に近い足先が、黒に溶ける。
「三、二、無」翠の指先が手首の脈を押さえ、拍を刻み直す。「焦るな。遅れろ。合わせろ」
三列目。
不意に前方から微風が逆向きに吹いた。揺れが増幅し、鎖が互いを呼ぶ。
ライカが身を沈め、「今だ」と小さく言って、肩で鏡板の腹を押し返す。筋肉がきしみ、包帯の下で傷が疼く。
「無理すんな、肘が死ぬ」翠が睨む。
「大丈夫、まだ狩れるさ」
四列目の手前。アズラの視界がふっと白黒に反転し、足が空を踏んだ。
体が傾く——鏡板が迫る。
「つかまれ!」
シバが肩で受け、アズラをこちら側へ引き戻した。その拍、綺羅の影が鏡板の側面を薄く覆い、擦過音を殺す。
「助かった」アズラが息を吐く。「あと一列だ。無で抜ける」
最後の列。
黒い面の奥、どこからともなく囁きが滲む。
——赤は誓い。
——藍翠は遺志。
——それを持つ者を、通す。
「またそれか」綺羅が苦笑する。「ここでお出まし? 都合がよすぎるわね」
アズラは首を振る。「合言葉じゃない。識別の規格だ。赤=“誓いの拍”。緑=“引き継ぐ拍”。誰でもいい。踏めるなら、通れる」
翠が短く言う。「じゃあ、踏むぞ。お前は誓い、俺は遺志。三、二、無」
最後の無音が落ち、四人と一匹は一息に鏡板の森を抜けた。
背後で鎖が遅れて触れ合い、金属音がようやく鳴る。だがもう遅い。音は追いつかなかった。
渡りきった先は、丸い前庭だった。
中央に円壇。その縁に、また白い粉の印。斜めに三つ。それから刃で雑に刻まれた走り書き。
> 〈ここで引き返す。消耗が限界〉
〈核はさらに下〉
「引き返した理由、よく分かるわ」綺羅が指先を振って痺れを追い払い、冗談めかして肩を竦める。「私も指、まだ痺れてるし」
「俺の視界は半分反転のままだ」アズラが苦笑する。「だが、行くしかない」
シバは円壇の縁に耳を寄せた。
石の下で、なにかが呼吸している。
影痕が、内側から応えるように疼いた。
(呼ばれてる。……違う、測られてる)
「まだ終わりじゃないぞ」翠が全員を見回す。「薬は底、包帯も残り少し。倒れたら置いていくしかない。だから——倒れるな」
ライカが牙を覗かせ、笑う。「任せな。あたしはしぶといよ」
円壇の縁に、薄く線が浮いた。
アズラが筆でなぞり、静かに言う。「鍵は“同期”だ。拍を合わせる。誓う拍と、引き継ぐ拍。合わなければ開かない。強引には壊れない」
「やるだけだ」
シバが円壇に手を置く。
翠がシバの橈骨動脈に指を当て、自らの胸で呼吸を合わせる。
「三、二、無——」
無音が落ちる。
円壇がわずかに沈み、石の合わせ目が一筋だけ開いた。吐き出された風は冷たく、乾いて、匂いが無だった。
その隙間から、影がこちらを見た気がした。
「……足りない」アズラが息を切る。「もう一拍、深い同期がいる」
綺羅が眉を寄せる。「どれだけ食わせるつもり? こっちの身がもたないわよ」
「持たせるんだよ」翠が静かに言った。「約束したろ。生きたいなら助ける。だから生きろ」
シバは赤布に触れない。
銅の味が喉にうっすら戻り、前脚の震えは収まらない。
それでも、目の前の隙間から吹く無の風を、正面から受け止めた。
「もう一度」
声は低く、揺れなかった。
再び、四人と一匹の拍が重なる。
三、二、無——
石がさらに沈み、隙間が扉の線へと広がる。
そして、奥から声ではない声が、確かに触れた。
——ようやく、来たね。
「開いたらすぐ動く。考えるのは中でやれ」翠の声が段取りを戻す。
ライカが頷き、綺羅が指を振って痺れの余韻を追い出す。アズラは筆を握り直し、シバは刃の重さを確かめる。
裂け目は門となり、聖域のさらに下が口を開けた。
闇は深いが、もう闇だけではなかった。測る気配と、待つものの気配が、同じ底で重なっている。
シバは一歩、踏み入れた。
尾が、静かに揺れた。




