第35章「四つの眼の帷」
縫い目をくぐり抜けた先は、音の浅い広間だった。
天井から垂れた黒糸が床際で束になり、四つの空白──目のような穴──を形作っている。
見られている、測られている。皮膚の内側でざわつく感覚が、鼓動を半拍ズラす。
「距離十。拍は二重」
アズラが耳栓越しに短く言う。「表拍と、その下の遅拍。片方だけでも吸われる。両方噛まれたら、心が持っていかれる」
翠は全員の左手首に細い包帯を結んだ。「引っ張られたら戻れ。線は切れてもいい。まず退く」
「了解」綺羅が指先を揉み、無理に笑みを作る。「震えてたって、縫うのは得意」
ライカは背の双剣──牙音──の柄に軽く触れ、鼻先で空気を嗅ぐ。「乾いてるのに、冷たい匂い。……いや〜な狩り場だね」
シバは一歩前へ。赤布には触れない。拳を握って開くたび、前脚の影痕が薄く疼いた。(頼るな。脚と鼻だ)
四つの空白がずれる。
表拍に一つ、遅拍に三つ。目が合った瞬間、胸骨の内側で鼓動が片足を滑らせる。
「入ってる。逆拍だけじゃ足りない」
アズラは床に三点、素早く筆を当てる。「“間”を作る。無音の一拍で切るんだ」
「号令は俺が打つ。三、二、無」
翠の合図と同時、綺羅の影が目の縁へ“縫い止め”を入れる。
ライカが斜行で踏み込み、牙音の片方を横から噛ませて、黒糸の拍を一瞬だけ狂わせた。金属の乾いた鳴りが短く響く。
「もう一丁——」
言い終わる前に、床下から影の網が跳ねた。
ライカの膝下を絡め取る冷たい手。遅拍が足首を攫い、体が前に倒れる。
「くっ……!」
綺羅の指先がビリッと痺れ、影糸が浅くほどけた。
アズラの視界が色相反転し、筆が半拍遅れる。
シバは投げナイフを抜く——が、握力が抜けて柄が一度滑った。影痕が疼いて手が震える。
「シバ、右!」
翠の声に反射で掴み直し、二枚のナイフを網の結び目へ刺し込む。
黒糸がびくりと跳ねて緩み、ライカの足が解けた……その瞬間、背後の目が囁きを上げる。
——守れなかった夜を、まだ数えてるのか。
——赤は誓い? 何人、間に合わなかった?
鼓動が乱れ、シバの前脚がガクンと折れかける。
綺羅の手からナイフが一枚、落ちた。痺れがいつもより強い。
ライカは片膝で踏みこらえ、息を荒げた。「あたしを喰うつもりかよ……!」
「一回、退く!」
翠が包帯を引く。全員が半歩、帷から離れた。
短い呼吸の隙間に、アズラが壁の刻みを見た。
白い粉で記された小さな印が三つ、円をずらして並ぶ。白衛団の方位印だ。その下に、ナイフの背で削った走り書き。
> 〈二折目で心拍逸脱(二名倒れる)
金属共鳴は増幅に転じる
片眼は飢えさせろ/四点注視は禁忌〉
「……なるほど」
アズラの声が低くなる。「白衛団は二回目の畳み込みで落ちた。金属音で拍を増幅させたんだ。だから引き返した」
「飢えさせろ、ってのは?」綺羅が息を整えながら問う。
「四つの目は“注目”を食う。四人で四つを同時に見ると、回路が閉じる。一つは誰にも見せないで、飢えさせておく」
翠が短く頷く。「金属も無しだ。音は紙で作る。指、まだ痺れるか?」
「……ちょっとね。でも縫える」綺羅が指を振って笑う。
「アズラ、視界」
「まだ反転してる。長くは持たん」額に滲む汗の中、アズラは紙札を三枚噛んで小さく破った。「**紙拍**でやる。微かな擦過音で、金属の代わり」
「ライカ、足は?」
「あたしは噛まれたくらい平気。——仕返しする」ライカが牙を見せる。
シバは深く息を吸い、吐く。前脚がまだ震える。(いい。震えてても踏み出せ)
赤布には触れない。
「段取りを言う」
アズラが端的に告げる。「三人だけで目を見る。残りの一つは誰も見ない。綺羅、片眼を影で目隠しして飢えさせる。ライカは刃の背は禁止、紙拍に合わせて柄で打て。シバは粉で縁を出す。翠、合図は無音の一拍で」
翠が顎を引く。「三、二、無だ。失敗したら即退く。もう一回やる体力は、ここで使い切るな」
再突入。
四つの目が、ずれる。
綺羅の影がひとつの空白を黒く覆う。誰の視線も届かない“飢えた目”ができた。
残り三つに、三人が散る。
「三、二、無」
無音の一拍。
アズラが紙札を擦る。布と紙がこすれるごく低い音が、拍を一つ外側へ滑らせる。
シバは白粉チョークを弾き、目の輪郭を浮かせる。
ライカが柄でコツと叩く。金属ではなく、木と革の鈍い手応えが拍をくぐらせた。
「——くる」
遅拍の圧が、腹の底から押してくる。飢えた目が、覆い布を剥がしに回り込んできた。
「縫い直す!」
綺羅が影糸を走らせる——が、指が攣る。
縫いは浅い。剥がれかけた縁から囁きが染み込む。
——また遅れるの?
——誓いなんて、風で飛ぶ布だよ。
シバの握ったナイフが湿る。手汗で滑り、落ちかけた刃を肘で押し戻す。
(落とすな。今は落とすな)
影痕がズキンと鳴る。
「俺が一拍、持つ」
翠が包帯を握り、自分の胸を軽く叩いて呼吸を刻む。「四・二・四。戻れ」
綺羅の目が一瞬で正気を取り戻す。「……ありがと」
「もう一回、無——今!」
アズラの紙拍に合わせ、綺羅の影が今度は深く落ちる。
シバの粉が縁を走る。
ライカが柄で斜めに叩き、拍を外へずらす。
飢えた目が、餓える。
三つの目は拍を外され、右奥の黒糸が帷のようにめくれはじめた。
「通せ!」
ライカが半身を切り、シバが前へ出る。
その瞬間、覆っていた目が跳ね、飢えが噛み返した。
アズラの視界が大きく反転し、足がもつれる。「っ……!」
「つかまれ!」
シバが肩でアズラを押し、広間の縁へ倒れ込ませる。
牙音の片方を構えたライカの肘が軋む。疲労の音だ。
「——まだだ。無!」
翠の無音に、全員の体が条件反射で動く。
綺羅が最後の縫い止めを切り、アズラが紙拍を捨てるように落とし、シバとライカが足音を消して狭い開口へ滑り込んだ。
背後で帷が噛み合う音。
囁きが遠のき、広間は閉じた。
しばし、呼吸だけが響いた。
アズラが壁にもたれ、鼻筋を伝う血を指で拭う。「……二折目が罠だった。白衛団が引き返した理由、体で分かったな」
「学習してるのは向こうも同じってこった」翠が短く言う。「次は期待するな。薬は底だ」
ライカは膝に手をついて息を整え、苦笑する。「あたしの肘、ガタが来てる。けど、道はこじ開けた」
綺羅は痺れる指をさすり、いつもの軽口を少しだけ戻す。「影さん、繊細だけど根性悪い。……でも縫い目は見えた」
シバは振り返らない。
前方から冷たい風が当たる。外気ではない、内へ吸い込む風。
首の赤布は黙っている。
(光らなくていい。今は、皆の拍で進む)
足をそろえる。四人と一匹の歩調が、同じ無音で二歩、三歩。
通路は広間に開け、中央に黒曜の円壇。縁には白衛団の方位印が斜めに三つ、そして刃で刻まれた短い線。
> 〈三折目は餓死させろ/四に揃えるな〉
アズラが低くまとめる。「四つ眼の帷は守門だ。本体じゃない。ここで注視を食わせて、減らしてくる」
「つまり、いまのは前座ってことね」綺羅が肩を回す。
「前座でこれなら、トリは上等だ」ライカが牙を見せた。
「測るなら手短にしろ」
翠が背を丸めず立つ。目は疲れているが、声はぶれない。「こっちは救う予定が山積みだ」
「——ようこそ」
風か石か拍か。声ではない声が、円壇の下から揺れた。
待つでも笑うでもない。測る気配だけが、鮮やかにそこにある。
シバは赤布に触れず、刃だけを確かめる。前脚の震えは消えてはいない。
(ここで終わらせる。皆で)
尾が、わずかに揺れた。
円壇の縁に、黒糸の薄い影が再び集まる。
白衛団が残した教訓は、今度は攻め手になるはずだ。
決着の拍が、静かに刻まれはじめた。




