第33章「回廊循環」
曲がり角の広間に、黒ずんだ石柱が一本立っていた。側面の刻印はまだ読める——錨柱D。柱の根元には白衛団の方位印が二重に刻まれ、後から刃で上から削り直した乱れが重なっている。石床には焼け焦げた白い徽章の破片。
「ここで一度は進んで、戻って……印を塗り替えた跡だな」翠がしゃがみ、焦げを指で払う。「押し通そうとして失敗。そんな擦り傷だ」
アズラがモノクルを押し上げ、柱脇の壁面に手を当てた。「聞け。壁が規則的に震えてる。ここは回廊が“面”を四分の一回転で入れ替える仕組みだ。継ぎ目はこの浅い筋、粉塵の線が目印。『カチ』って小さな調速環の音が合図」
「印は、面が回れば意味が変わるってことか」綺羅が肩をすくめる。
「なら、こっちの拍で上書きする」翠が短く言い、手首で拍を刻む。「吸って——止める——吐く。合図で動く」
シバは鼻先で風を嗅ぐ。湿った石、遅れて返る足音——半拍遅れだ。背の影痕が、ちり、と疼いた。(痛む……間の変化に反応してやがる)
◆
角に入った瞬間、頭上の調速環がカチと鳴り、壁の継ぎ目がわずかに開く。空気が吸い込まれるように流れ、別の面が横滑りでせり出した。さっきまであった廊下が、横倒しの石壁に置き換わる。
「戻り道、消えた」ライカが耳を伏せる。「音の返りも半拍ずれてる」
「遠くから誰かが拍をいじってる。強くはないが、集中を削いでくる」アズラが息を殺す。
数間先、床の黒砂が呼吸のように上下し、中から骨格線だけの殻持ちが再構築されつつあった。脈動に合わせ、砂が吐き出し・吸い込む。
「再構築台だ。起き上がる前に湧き口の呼吸を遅らせる」アズラが小瓶を二本、指先で示す。「濃墨一本、希釈一本。足りない分は——」
「増やす」翠が酒精と膠材を金皿に落とし、即席で薄墨を作る。「筆先交換、布はこれ。アズラ、痺れが出たら即申告」
「承知」
「楔はわたし」綺羅が影糸を指にかける。「短時間だけど、湧き口を押さえる」
「継ぎ目を滑らせて切る。大振りはしない」ライカが背から牙音を抜く。
シバは頷き、二足で低く構えた。「俺が視線を取る。間合い、任せろ」
◆
「吸って——止める——吐く、置け!」
合図と同時に、綺羅の影が湧き口へ楔のように噛み、アズラの筆が床へ簡略の遮影図を刻む。黒砂の呼吸が一拍遅れた。シバが殻持ちの空洞の眼前に出て注意を釘付けにし、ライカの双剣が継ぎ目へ沿って滑り込み、線を断つ。
——その瞬間、頭上の調速環が予定より早く鳴った。回廊の面が半拍早回りし、継ぎ目が真下へ移動。床が斜めに沈む。
「うわっ——!」綺羅の足元が流れ、影糸が一瞬緩む。黒砂が逆流し、崩した骨格線がまた組み上がりかける。
「ずれた!」綺羅が歯噛み。
(今、痛む——)シバの背の影痕が針で刺すように走り、指の力が抜けかける。思わずナイフの柄が滑る。
「左回りに合わせろ!」シバは痛みを噛み殺し、声を張った。「白衛団の返し傷、押して失敗。なら斜め抜きだ!」
「了解!」ライカが半足だけ体の向きをずらし、刃を斜行に入れる。
「吸って——止める——吐く、置け!」翠が号令を早拍に切り替え、アズラが調速環の刻みに細い延滞線を一本追加する。湧き口の呼吸が二拍遅れ、回廊の早回りと相殺された。
「今——!」綺羅の影が再び噛み、ライカの双剣が熱を逃がす角度で継ぎ目を断つ。黒砂の脈が沈み、殻持ちは線を保てずにほどけた。
「……止まった」アズラが息を吐く。指が小さく震え、鼻に細い赤が滲む。綺羅は痺れた指を振って笑った。「まだやれる」
翠はアズラの指を布で巻き直し、ライカの膝頭を軽く叩く。「軋みは?」
「問題なし。踏み外さなきゃね」ライカが犬歯をのぞかせる。
シバは握り直したナイフの柄が汗で滑るのに気づき、手の内を拭った。影痕の痛みは波になって残る。(握力が落ちてる……長引けば、刃が振れない)
◆
湧き口が静まった刹那、錨柱Dの上部に組まれた小さな調速環がカチリと停止した。壁の継ぎ目が一本だけ開き、奥へまっすぐ伸びる短い通路が露出する。
「今しかない」翠の声が低く響く。
通路先、肋骨のような縁の扉に白衛団の手刻みが残っていた。
——内核は光を喰う。
「つまり、光でこじ開けるのは逆効果ってことね」綺羅が眉をひそめる。
シバは無意識に赤布へ指をやり、すぐに手を離す。布は冷たいだけだ。彼は腰のナイフを楔に持ち替えた。
「光に頼らない。こじ開ける」
「隙は三拍」アズラが短く告げる。「調速環、また動く」
「吸って——止める——吐く、今!」
肋骨じみた扉が閉じにかかる瞬間、シバがナイフを縁へ噛ませ、綺羅が影糸で一拍止め、ライカが肩で横押しして隙間を広げる。翠が拍を刻み、アズラが調速環の止まりにもう一拍の延滞線を重ねる。
石が擦るぎりぎりの音とともに、四人と一匹は滑り込んだ。背後で扉が閉じ、外の回廊の拍が遠ざかる。
◆
暗い。——いや、灯りが吸われる。前方の壁に、縫い目のような黒が一本、静かに横たわっている。足元の砂利が半拍遅れて鳴る。
(……来た。ここが内核)
胸の奥がきゅっと縮む。シバは自分の尾が小さく揺れるのを感じ、呼吸を一つ深くした。背の影痕が熱を持ち、左の握りが微かに痺れる。(長居はできない。ここでは、俺の手が先に死ぬ)
「……気持ち悪ぃ場所だな」翠が素直に吐く。「だが、終わりが見えた」
「怖くは、ない」ライカが刃を納め、拳を握る。「やっと掴める気がする」
綺羅は軽く笑ってみせる。「震えてるの、手じゃなくて声帯のほうだわ。喉が鳴る」
アズラは筆を胸に当て、短く頷いた。「ここで間違えなければ、戻れる」
一瞬、言葉ではない何かが耳の縁を撫でた。優しく、しかし冷たい指先で。
——見つけたよ。
誰の声とも知れぬ感触が過ぎ、シバの影痕が鋭く疼く。握りがぐらつく。彼は歯を食いしばり、赤布に触れずに前だけを見た。
「……進む。ここで終わらせるために」
誰も反論しなかった。拍が合い、足音が重なる。内核の奥、黒い縫い目がかすかに開く。回廊は、まだ回っている。




