第32章「内郭の回廊」
石扉が背で噛み合い、冷たい空気が頬を撫でた。
低い天井、床には白い刻線の格子。扉脇の石盤には、鋭い一文——「猶予、一刻」。
「戻りは薄い。進む」翠が石盤を一瞥し、短く言う。「焦りは捨てろ。呼吸で刻め」
ライカが耳を立て、背後の闇へ顎を傾けた。
「足音、消えないね。距離は取ってるけど、数が増えてる」
「時間と追手、二重取り立てってわけね」綺羅が肩をすくめ、指先で小刀を弾く。
アズラが粉墨を指に取り、格子の縁をそっとなぞる。
「欠け桝は踏むな。歩調が合うと落ちる造りだ。半拍ずらしで“白”だけ踏む」
「号令は?」シバが低く問う。
「三拍で行く。吸って—止める—吐く。止めで足を置け」翠が即答する。
四人は呼吸を合わせた。吸って—止める—吐く。
綺羅は影糸を欠け桝に落として“沈み”を探り、アズラが×印を粉で打つ。シバは短い歩幅で先の“白”へ滑り込み、ライカが耳で床の鳴りを拾って危ない目を外す。
折れ曲がりで、壁に小さな刻印と擦過跡が見つかった。丸に縦線、その脇にC。返し傷が濃い。
アズラが目を細める。「錨柱C。白衛団の方位印だ。……ここで退いた痕がある」
「何でだ?」ライカが眉をひそめる。
アズラは傷の向きを指した。「右足重心で起動——白衛団はここで“足運び”を逆算してた。だが殻持ちが出た。返し傷の角度が、急に浅くなる」
「正面からは、通らせない構造ってことね」綺羅が口角を上げる。「じゃあ、横から抜く」
半円の前庭に出ると、中心に黒く煤けた柱が立っていた。錨柱C。足元には、黒い砂のような欠片が散っている。
「触るな。瘴気を吸う」アズラが短く釘を刺し、簡易封で薄膜を張る。喉が掠れ、指が一度震えた。
「三呼吸だけ、押さえられる」
「三もいらない。二で片付ける」翠が声を落とす。「ただし跳ぶな。拍で行け」
その瞬間、柱の基部が割れた。
ひび割れた甲皮、縫い合わせた複眼、黒い糸をまとった腕。殻持ちが押し出される。
「影縫い——半拍!」
綺羅の影が床に釘を打つ。巨体が刹那だけ沈む。
「今!」ライカが床を蹴り、牙音を継ぎ目へ叩き込む——が、弾かれた。甲皮は厚い。浅く入っただけ。
「硬いねぇ!」ライカが歯を食いしばる。
「右へ誘え!」シバが殻持ちの視界を奪い、二足で角度を作る。欠け桝の列まで連れていく。
赤布へ伸びた指を、彼は外した。(頼らない。運べ)
アズラの封がひと息沈む。「あと二拍いける」
「二拍じゃ足りない!」綺羅が影を二重に走らせた瞬間、殻持ちが学習を見せた。あえて膝を落として影糸を緩め、甲皮の肘でカウンターを放つ。
衝撃が床を打ち、欠け桝が起動。床板が微かに沈み、ライカの足が絡んだ。
「——っ!」ライカの片膝が落ちる。
即座に翠が飛び込み、膝窩を手刀で叩いて体勢を戻しつつ、布で膝を固定する。
「力むな。吐け、ライカ」
「助かった!」ライカが息を吐き、体重配分を切り替える。
殻持ちの黒い糸が床へ延び、シバの足首を狙う。
「そこまで」
シバは軍用ナイフではたき、間合いの外へ押し返す。
「継ぎ目を裂ける角度、左上がり——次は押しじゃなく滑らせる!」
「根拠は?」綺羅。
「壁の返し傷だ。白衛団は押して失敗した。なら滑らす」
アズラが壁の返し傷に粉で矢印を描き、短く言う。「右足重心で起動する桝が多い。左回りで誘え」
「了解!」ライカが左回りに回り込む。
綺羅の影が殻持ちの足首を横から絡め、半拍だけ体を横倒しに誘う。
シバがその半拍に合わせ、殻持ちの右足を“落ちる桝”へ踏ませる角度を作った。
「鳴け、牙音!」
ライカの双剣が滑る。押し込まず、継ぎ目へ沿わせて交差——
甲皮の合わせ目が開いた。黒い糸がほどけ、殻持ちの頭が仰け反る。
だが終わらない。殻持ちは床下の機構を叩いて再起動させ、別の桝を連鎖で落とした。
床が波打つ。立ち位置が崩れ、綺羅の足が半歩遅れる。
「綺羅!」シバが肩を押し、代わりに桝の縁を踏む。沈む。
とっさに爪で縁を掴むシバの指に、石の冷たさと痛みが走る。
「無茶するなよ、犬」翠が吐き捨てるが、手は素早い。腰の包帯を投げ、シバがそれで縁を引っ掛けて体を戻す。
「大丈夫だ」シバは短く言い、呼吸を整える。「吸って—止める—吐く……行ける」
「最短で落とす」アズラが汗を拭い、柱脚の白衛団の書き込みを指さす。
粗い刻みで「↘︎↗︎」とある。
「斜めに誘い、斜めに抜け。正面は罠だ——白衛団の置き土産だ」
「ありがたく使わせてもらおう」綺羅が口角を上げる。「右足、斜め前に“落ちる”」
ライカが左回りを続け、斜めの線で殻持ちを引きずる。
綺羅の影が足裏の**“踏ませたくない点”を外へ流し、シバがナイフの一閃で視線を散らす**。
「今!」
ライカの双剣が十字に走る。押しではなく滑りで、継ぎ目をひらく。
殻の内で、黒い糸が切れて崩れ、巨体が前庭の穴へ落ちた。
荒い息が広がる。アズラの封がひと段深く沈み、黒い砂の呼吸が弱まった。
翠が全員を素早く見て、短く頷く。「動ける。学んだ分だけ、次は早く死ぬ。進め」
背後の回廊で歯車の唸りが強まる。
「閉まる速度、上がってる」アズラが顔を上げた。「一刻が削れてる」
「上等だね」ライカが犬歯を見せる。「走ろうか」
綺羅は殻持ちの裂け目から微かな黒をつまみ、アズラの薄膜へ弾き入れる。
「片付けは最低限。——命が先」
シバは一度だけ壁の返し傷に目をやる。押して失敗、滑らせて突破。
(白衛団は退いた。俺たちは進む。違いは——連携だ)
「行くぞ」
短い一言。
四人は再び呼吸を合わせる。吸って—止める—吐く。
半円の前庭を抜け、内郭のさらに奥へ。
歯車の唸りが背中を押す。猶予は、確実に削れている。




