第3章「学匠のカラス」
荒野を抜けた先に、崩れかけた街が広がっていた。
石造りの家々は壁を失い、瓦礫は風に磨かれて砂のように崩れている。
廃都。十年前の戦火に焼かれ、そのまま放棄された街だ。
シバは赤布を結び直し、崩れた門を越える。
風に揺れる藍翠の裾が、ひび割れた石畳を擦った。
「やっぱりね」
声に振り返ると、瓦礫の陰から黒い影が現れた。
短髪に琥珀の瞳――綺羅。
影のように滑り出て、口元に挑発的な笑みを浮かべていた。
「結局あんたもここに来たのね。赤布ってやつは、目立って仕方ない」
「……利害が同じなら」
「はん、変わらないわね」
二人は言葉少なに並び、崩れた大通りを進む。
だが静寂は長く続かなかった。
――カンッ。
どこかで石が跳ねる音。
崩れた建物の屋根に、松明の光が揺れる。
次の瞬間、数十人の兵が瓦礫の影から現れた。
前にも、後ろにも。
鎧に刻まれた徽章が月明かりを反射する。
灰色の布を巻いた兵たち――戦後の瓦礫を支配する「灰徴兵団」。
戦火で生まれた孤児や流民を徴収し、各地で暴力と略奪を繰り返す勢力だ。
「赤布の犬を捕らえろ!」
隊長格の男が怒声を張り上げた。
「布を持ち帰れば灰徴兵団は我らを評価する!」
綺羅が舌打ちし、短剣を抜く。
「やっぱり、あんた目立ちすぎなのよ」
シバも無言でナイフを構える。
四足に重心を落とし、唸るように息を吐いた。
矢を番える音が夜に響く。
逃げ道は、ない。
その時だった。
――羽音のような気配が頭上をかすめる。
風に黒外套が翻り、瓦礫の頂からひとりの影が降り立った。
月明かりに光るモノクル。
髪を束ねる金の筆簪が、かすかに揺れている。
綺羅は目を細め、半笑いで呟いた。
「……何よ、今度はカラスまで仲間にしたってわけ?」
黒外套の青年は、背筋を伸ばし静かに地面へと降り立つ。
左目のモノクルが月光を鋭く反射した。
「……通りすがりの学匠だ」
落ち着いた声が廃都に響く。
「だが、この状況を放っておくほど冷血でもない」
兵の一人が怒声を上げ、矢を放った。
ひゅ、と音を立てて夜を裂く。
青年はすでに杖を兼ねた長筆を滑らせていた。
墨壺から藍墨を取り、地面に走り書きを刻む。
――《結界》。
透明な膜が張り、矢が砕け散った。
綺羅の瞳が一瞬だけ驚きに揺れる。
「へぇ……やるじゃない」
シバは返事をせず、四足で一気に距離を詰めた。
ナイフが月光を受けて閃き、先頭の兵を切り裂く。
背後から迫る影を綺羅が影縫で拘束し、短剣で喉元を狙う。
「囲め! 赤布も盗賊もまとめて仕留めろ!」
敵の号令が響く。
アズラは深く息を吸い、紫墨を筆先に滲ませた。
地面に描かれた線が光り、夜気が震える。
「――《幻声》」
廃都に、二重の声が響いた。
怒声が幾重にも重なり、兵たちは混乱して隣同士を睨み合う。
一人が剣を振り上げれば、仲間を斬りかける始末だ。
綺羅は口元を歪めて笑った。
「ふふ、なかなかやるじゃん。小難しい学匠のくせに」
アズラは答えず、金の簪を抜いた。
朱墨でシバのナイフに素早く符を刻む。
赤い輝きが刃を走り、ナイフが熱を帯びる。
シバは一瞬だけ振り返ると、無言で頷いた。
次の瞬間、赤い閃光が敵列を貫いた。
甲冑の裂け目を狙った刃が、まるで火を噛ませたかのように弾け、兵が倒れる。
混乱は頂点に達し、敵は次々と退いた。
残党は罵声を残し、廃都の闇に消えていく。
静寂が戻った。
荒れ果てた石畳の上に、三人の影だけが残る。
シバはナイフを振って血を払う。
綺羅は影縫の糸を解きながら、肩で息をしていた。
そして――黒外套の青年は、長く息を吐き、筆を地面から離した。
モノクルの奥の瞳は揺らぎ、指先はかすかに震えている。
シバはそれを見逃さず、低く呟いた。
「……代償か」
青年は応えず、腰の革袋から布を取り出した。
朱墨で赤く染まった筆先を、丁寧に拭う。
まるで戦場ではなく、静かな書斎にでもいるかのように。
綺羅は思わず吹き出した。
「ちょっと……戦場でそれやる? 神経質にもほどがあるでしょ」
青年は淡々と答えた。
「筆は道具であり命だ。粗末にすれば、次の一筆で裏切られる」
「……あーはいはい。真面目なカラスさんね」
綺羅は笑い混じりに肩をすくめる。
赤布をなびかせたシバは黙したまま。
だがその視線は青年の震える手と、拭われた筆に注がれていた。
沈黙のあと、青年は小さく付け加えた。
「……この廃都には、古い碑文の断片が眠っていると聞いてな」
「碑文……?」綺羅が眉をひそめる。
アズラは目を逸らし、筆簪を髪に戻した。
三人はまだ、完全な仲間ではない。
だが月明かりの下――確かに肩を並べた瞬間があった。
そしてその羽織の裾に刻まれた刺繍が、青年の視線をわずかに引き止めていた。