第31章「猶予一刻」
前室へ転がり込んだ扉は、背後で石の歯車をかみ合わせ、低く唸って止まった。
壁に並ぶ三つのソケットのうち、AとCはかすかに脈を打つ。だがBだけが沈黙している。
「……足音、戻ってきてる」
ライカが耳を伏せ、壁越しの振動を拾う。「殻が擦れる音、十五……いや、二十はいる」
「時間はない。一刻はもたない」
翠が短く言い、布を口に当てさせた。「吸うな。粉磁は肺を焼く」
綺羅は膝をつき、指先の影を石目地へ滑らせた。
「右壁の中、空洞。風が返ってくる。細い換気の孔……」
「そこに“柱”がいる」
アズラが白衛団のチョーク痕をなぞり、角度を測る。「北壁基準で刻印。ここは東へ三度ずれてる。Bは右壁の内側、東北だ」
シバは鼻先を寄せ、継ぎ目を嗅いだ。冷たい筋と、粉の薄い筋。
小石で点を打つ。「ここが冷える。薄い」
「口、こじ開ける」
ライカが木楔を叩き込み、石をわずかに“遊ばせる”。
綺羅の影が継ぎ目をすくい、掌一つぶん裂けた——その瞬間、奥の粉だまりがざらりと崩れ、灰色の粉磁がふわりと舞い上がる。
「下がれ!」
翠が霧吹きを押し、酢と樹脂の薄霧で粉を沈めた。咳き込むアズラの肩を小突く。
「深く吸うな。短く吐け」
「……悪い。いける」
アズラは息を整え、裂け目に手を伸ばした。粉に埋もれて割れた導光盤の折片がある。
「これを楔にする。Bの頭にある回転輪へ“光を噛ませる”。ただし、死点を越えないと二度と回らない」
「死点ってのは、ここだな」
シバが肩で石を支え、腕を差し入れる。指先にざらつく輪の縁。強く押す——が、
「……くっ」
輪が逆に跳ね、指をはじいた。中で何かが落ち、Aの灯が一瞬ふっと弱まる。
「戻った。Aが逆戻りした」
アズラが舌打ちした。「順番を外すと全体が落ちる仕掛けだ。やり直しだ」
「もたねぇぞ」
壁の向こうで、殻持ちの槍が扉を叩く音。綺羅の影縫いを浅く張り、先頭の足を縫い止めるが、長くはない。
「影は十数えるまでしか保てない!」
「十で足りる」
ライカがロープを肩に回し、支点を作った。「合図くれ。押し切る」
翠は前室の入口で耳を澄ませ、短く数える。「二十まで。……十九、十八——」
アズラが計算を終える。「右へ三度。半度戻して落とす。今度は一拍遅らせる。
――今」
シバが木楔で死点を持ち上げ、綺羅の影が縁を引き、ライカが肩で押し込む。
輪がわずかに回る——が、また硬直。粉が噛んでいる。
「固着してる。潤滑が要る」
翠が水袋を投げた。「油はない。水でいい、砂を洗え」
アズラが水袋を絞り、粉を流す。シバは指の感覚だけで“重さの向き”を探る。
(右じゃない。下だ——)
「次、下へ半度。せーの!」
三人の力が重なった瞬間、輪が「コトリ」と落ち、硬直がほどけた。
同時に、Bのソケットが淡く明滅を始める。
三つの灯が呼吸を揃え、扉の縁に細い継ぎ目の光が走った。
「開く。猶予は短い」
アズラが扉の際に封じ紋を二枚刻む。「開いている間しか効かない。踏めば鈍る程度だ」
「了解」
綺羅の影縫いが前室手前で先頭の殻持ちを絡め取り、体勢を崩させる。
ライカはロープを引いて石梁を落とした。通路の幅がさらに削れる。
「行け。半刻もたねぇ」
翠の号令で、シバが先頭に滑り込む。綺羅、アズラ、翠——
最後尾のライカが振り返り、双剣の柄で殻持ちの槍をはじき飛ばしてから身を翻す。
槍先が封じ紋を叩き、火花のように散った。
その刹那、扉の奥——Bの器の底ではめ込まれた黒い欠片が、かすかに“呼吸”したように見えた。
冷えが風になって走り、シバの胸奥で影痕が疼く。
「っ……」
膝が抜けかけ、シバは赤布を押さえた。布は氷みたいに冷たい。
「脈が乱れてるな」
翠が手首に指を当て、目を細める。「深く吸って、ゆっくり吐け。今のは匂いじゃない——脈を狂わす波だ」
アズラが黒い欠片を見据える。
「座標媒体の位相脈だ。裂け目と呼応して、生き物の拍を“ずらす”。影痕が共鳴してる。長く浴びれば倒れる」
「つまり、急げってことね」
綺羅が肩をすくめ、しかし影を増やして灯の周りを縛った。「欠片は光に弱る。今だけね」
「前へ」
ライカが短く言い、最後尾の責めを引き受ける。「来るなら来いよ、殻坊や」
扉が重く内側へ閉じはじめる——その縁を、殻持ちの盾がこじ開けようと差し込んだ。
石が悲鳴を上げ、封じ紋がひとつ弾ける。
「押される!」
アズラがもう一枚、符を刻もうとして手を止めた。指が震えている。
「……すまない、手が痺れる」
「任せろ」
シバが踏み返した。爪が石を噛む。
(赤布に頼るな。脚で押せ)
体重を前へ、尾を下げ、肩で扉を押す。
ライカが横から石楔を叩き込み、綺羅の影が盾の縁を滑らせる。
「今だ、せーの!」
四つの力が一点に揃った。
扉は重く盾を押し返し、殻持ちの指が石に砕けて落ちる。
最後の隙間をライカがくぐり、閂が落ち切った。
闇が戻る。
ただ三つのソケットだけが、なおもかすかに呼吸していた。
「……上出来だ。全員、無事」
翠が短く確認し、シバの手首から指を離した。「影痕は厄介だ。近づけばまた乱れる。覚えとけ」
「理解した。助かった」
シバは息を整え、わずかに尾を揺らす。
アズラは黒い欠片から距離をとり、淡く光る導光盤の折片を見やった。
「『呼吸』に見えたのは、外と内の拍が噛み合う瞬間だ。危険だが、道標にもなる。
……ただ、あれは長居すべきじゃない」
「なら、さっさと遠ざかろう」
綺羅が微笑み、肩の力を抜く。「影も、長く張れば伸びるだけ」
「前しか見ない」
ライカが双剣の柄を軽く叩く。平時の癖だ。
「殻は学習する。こじ開けに来る」
「学ぶのは向こうだけじゃないさ」
翠が口布を外し、タバコを指で転がすだけにして戻した。「歩け。喋るのは必要だけ」
シバは赤布から手を離し、前を見た。
(光らなくていい。——俺は俺の脚で、ここを越える)
「行こう」
短い一言に、三つの灯が呼吸を揃えたように見えた。
四人は暗い回廊の先に差す微かな光へ、音を殺して歩き出した。




