第30章「鉄喰いの廊」
逆拍の間を抜けると、幅広い石の回廊が口を開けた。鼻に刺さる鉄の匂い。床目の隙間には、黒い粉が砂のように堆く溜まっている。
「……磁鉄鉱の粉だな」アズラが指先で摘み、擦った粉を舌先で確かめるとすぐ吐き捨てた。「床下に『錨紋』が走ってる。昔、鉱車を磁で引く搬送碑文〈搬道〉に使ったやつだ。脈――拍で噛む」
シバは耳を立て、足裏で床を軽く叩く。遠いところで低く唸るような振動が応えた。四拍目と七拍目で吸われる、そんな“呼吸”が肉球に伝わる。
壁際に白いチョークの走り書きが残っている。《装具軽装》《金属注意》《四・七拍で噛む》。黒い外套のほころび糸――白衛団のものだ――が引っ掛かっており、薄い血の擦過が点々と続いていた。足元には、木製の楔と陶の小片。実務的な痕跡だ。
「先客は相当苦労してる」翠がメモを一瞥し、短く言う。「ここは金物を“喰う”。肺も粉塵でやられる」
「絶縁だな」アズラが頷くと、翠は皮袋から灰緑の膏を出して皆の手甲と靴底に塗りつけた。「樹脂に炭粉を混ぜた。磁に引かれにくくする。口はこれで塞げ」と、布に香草を染ませて配る。
「じゃ、段取りね」綺羅が懐から細いロープを出し、影を這わせる。「金属は“浮かせて運ぶ”。影釘で壁沿いに吊り、拍が噛む瞬間だけ持ち上げて逃がす」
「片方は持つ」ライカが双剣のうち一本だけ背から外し、もう一本は布袋に入れた。銀白の刃を背に残したまま、肩と腰を締め直す。「あたしが支点になる。ロープのテンションは任せな」
アズラは粉墨を撒いて床面の“淡い流れ”をあぶり出し、白い粉で拍の死点に印を付ける。「拍は八で一巡。四と七が噛む。二と六で“楽”になる。白い筋を踏め」
「オレが先頭」シバは二足で重心を落とし、四足に一度だけ滑り、すぐ立ち上がる。肉球に冷えと吸いが伝わるタイミングを鼻息で刻み、爪先で小さな点を打った。
「ロープ通すわよ」綺羅が指を弾くと、影が壁から枝を生やすように伸び、節を抱く。吊った布袋(軍用ナイフ、綺羅の工具、ライカの片刃、アズラの器具の一部)は床から数寸を保った。
「行くぞ」シバの一言に、皆が頷く。
踏み出す。二拍、送る。四拍目の直前で溜め、白い筋に足を置く。吸引の“噛み”が床下で牙を鳴らすが、絶縁を塗った靴底は粘り勝ち、体は沈まない。影縄が上で袋をふわりと上げ、噛む瞬間をやり過ごす。
突然、床下が唸りを強めた。拍が狂った――いや、錨紋が“こちら”を検知して噛み足したのだ。吊り袋がぴたりと床に吸い寄せられる。
「綺羅!」アズラの声と同時に、黒い幕が袋の下で反発の台となる。影が“あり得ない角度”で床を支え、一瞬の遊びを作った。
「持ってる!」綺羅の額に汗。影縄がもう一本生え、袋を抱え込む。
「死点、落とす!」ライカが木製の楔を白い筋の交差へ叩き込み、足でめり込ませた。白衛団が残した品だ。金属ではない楔が、錨紋の拍をわずかに“鈍らせる”。
「まだ強い……」アズラは腰の紙片を三角に折り、筆で素早く符を描いた。「解錨符。拍を一つ“抜く”」
陶片二枚に同じ符を鏡写しに描き、影縄の先に挟ませて床へそっと触れさせる。ぱち、と乾いた音。床下のうなりが、ひと息だけ弱まった。
「いまだっ」翠が短く切り、シバが前へ跳ぶ。綺羅の影が袋を持ち上げ、拍の“噛み”をやり過ごす。ロープのテンションをライカが肩で受け、背筋の筋が浮いた。
回廊の先から、金属の甲冑が乱れる耳障りな音。灰徴兵団の追撃が、床の磁に足を取られて怒号を上げている。非金属の網と鉤縄だけが蛇のように伸びたが、綺羅の影幕に絡んで空を切った。
「相手してる暇はない」シバが鼻を鳴らす。
「拍、二に合わせて走れ」アズラが低く数え、紙片を舞わせて空気の流れを読む。「右に行けば粉が薄い」
短い通路に入ると、粉塵が目と喉を刺した。翠が配った布で口を覆い、呼吸を浅く保つ。
やがて、天井に穿たれた竪穴――光井戸――に出た。床は左右で断たれ、真下は暗い。縁に、白衛団の黒い外套のほつれ糸がひっかかっている。近くには手書きの小さな表。「四と七噛む/絶縁手袋使用/負傷、北壁側へ退避」。彼らの“学習”の痕だ。
「ここはあたしが支点」ライカが腰を落とし、ロープを肩で受ける。「早く」
軽いシバが先に渡る。最後のスパンで、留め具代わりの影釘が短く鳴った。足が空を切りかけたその瞬間、ライカが肩を出して衝撃を吸う。ロープが唸り、石粉がぱらりと落ちた。
「助かった」シバは短く礼を言う。
「礼は肉でいいぜ」ライカが息を吐き、口角を上げる。
渡りきった壁陰で、シバは前脚を押さえた。毛皮の下、薄い黒条――影痕――がじわりと疼く。
翠が膝をつき、手首の脈と皮膚温を診る。影痕の周囲に樹脂の膏を塗り、上から布で馴染ませた。「追跡の“灯り”は鈍くなる。だが消えはしない。急げ」
半円の前室に出た。正面の扉は岩盤ごと彫り込まれ、枠の外周に三つの丸いソケットが穿ってある。床には割れた導光盤の破片と、白衛団の陶製絶縁楔。扉脇の壁に、白いチョークの細線が三本、互いに角度を変えて引かれていた。細い注記――《錨柱A・C反応/B未通》――。
「……見ろ」綺羅が顎で示す。
ソケットの一つに、黒い欠片――座標媒体――が“嵌まりかけ”で震えている。胸に響く低い脈動が、ここでも微かに聞こえた。
「触るな」アズラが即座に制した。「この扉は『錨柱』で方位を“固定”する仕組みだ。三点揃えば門は応える。白衛団はAとCを取ったが、Bが見つからず引き返したんだろう」
「つまり、ここ以外の“どこか”へ通じる穴に化ける可能性があるってことね」翠の声は平坦だが、目だけが鋭い。
その時だ。扉の石縁が、ひと呼吸だけ膨らんだ。粉がはらりと落ち、内側から冷たい風が頬を撫でる。――応えようとしている。だが、まだ足りない。
背後の暗がりから、湿った擦過の音が迫る。殻持ちが鉄喰いの廊を“学習”して歩を進め始めた音だ。磁の噛みが弱まる拍を、やつらはもう掴みつつある。
「来る」シバが低く告げ、腰を落とした。首の赤布に無意識に指が触れる。光らない。ただ、体温よりわずかに温い。
「開けるか、止めるか、時間はない」綺羅がナイフを傾ける。
「Bの錨柱を探すなら……扉前から右壁の裏、風が抜ける」アズラが空気の“走り”を見て指した。「白衛団のメモも北壁へ退くとある。そこに痕があるはずだ」
「なら、二手」翠が即断する。「ライカ、綺羅。右壁の裏。アズラはここで解錨符を重ねて殻持ちの足を鈍らせろ。シバはオレと扉を守る」
「了解!」ライカがロープを巻き直し、四足に沈んで一歩、刃を抜かずに壁際を駆ける。綺羅の影が薄闇を糸に変え、壁の継ぎ目へ潜り込んだ。
扉は、内から微かな呼吸を続けている。三つのソケットの内、二つがわずかに淡く、残る一つは沈黙のまま。
背後の闇が呻き、殻持ちの爪が石を噛んだ。
シバは前へ一歩。赤布に頼らず、脚と牙で。
扉の内から、また冷たい風が吹いた。
答えは、あと一つ――。




