第29章「逆拍の回廊」
崩した岩尾根を背に、薄闇の通路をさらに進む。足裏にざらつく石粉。壁には浅い線刻が延び、どれも同じ向きへ流れていた。数十歩もしないうちに、胸の内側がわずかにざわつく。
「……鼓動が合わされてる」アズラが囁く。
「前回と同じ“逆拍”だ。歩調や心拍を読まれ、引きずられる」
「対策は?」
「乱す。ただし無闇にはやるな。合図で崩すぞ」
通路の先は円環が三重に嵌った石床の広間だった。輪の溝には黒い小石が並び、耳を澄ますと、かすかなコッ、コッという聴石の音が逆拍で刻まれている。
「真ん中を“規則正しく”渡ると、拍を盗まれる仕掛けだな」 翠が短く言う。首から下げた聴診器を指に巻き、淡々と続けた。「息は俺の合図。吸って二、止め一、吐いて四。乱れたら戻る」
シバが一歩前へ。二足で踏み出し、次いで四足に切り替えて二歩、また立ち上がって一歩――幅もリズムもわざと崩し、輪の縁だけを踏んで行く。鼻孔に冷たい墨の匂い。背筋にかすかな寒気。(大丈夫だ。脚で刻め)
後に続く綺羅は、指先で影縫を三点、輪の外側に落とした。「非常足場。三呼吸しか持たないから気をつけて」 「助かるぜ」ライカは四足で短く滑り出て、身体の捻りだけで跳ね石を噛ませるように足場を増やす。背の双剣は抜かない。まだ時ではない。
最後にアズラが渡りかけた瞬間、天井の線刻が一筋だけ淡く光り、聴石の拍がこちらに合わせてずれてくる。逆拍が上書きされ、視界がにわかに揺れた。 「っ、引っ張ってくる……!」 「戻れ」翠の合図。アズラは後ろ足で床を蹴り、影の足場に飛び戻る。影がはらりと解け、床の聴石がコッ、コッと拍を早めた。
「――学習してやがるな」
綺羅が口角を上げる。「なら、囮を使う」
石床の端、壁際に小さな影の人形が縫い留められた。綺羅が影脈に指を添えると、人形の胸がトン、トンと規則正しく“打ち”始める。 「拍の“餌”。こっちに噛みついてくれる」 「光はどうする」アズラ。 「通す道だけ照らせ。目印にする」 アズラは筆を立て、輪の縁から縁へ、一本の細い導光線を走らせた。光は広がらない。糸のように細い。
「ライカ、楔だ」 「任された!」 ライカは転がっていた拳大の石塊を拾い、溝へ斜めに叩き込む。ギンと不快な音。聴石の列が一部止まり、逆拍の力がわずかに緩む。
「行け」 シバが先頭で導光の糸を踏み、輪を渡る。囮の影に逆拍が噛みつき、コッ、コッが囮の位置で執拗に鳴る。二人、三人――呼吸は翠の合図で揃え、歩幅は各々で外す。
半ばを過ぎたところで、囮が千切れた。影人形の胸が止まり、逆拍が一気にこちらへ跳ぶ。シバの足がふらつき、視界の端が白く跳ねる。 「シバ!」 ライカが肩口を噛む勢いで引き寄せ、倒れ込みを防いだ。綺羅は即座に影針を追加し、新しい囮を足元に落とす。 「持ち直せ! 吸って二――止める!」 翠の声が鋭く刺さる。シバは歯を食いしばり、喉奥で拍を縛る。胸の速さが指の合図に引かれて落ち、体重が足裏に戻ってきた。
「……助かった」 「礼は外でまとめて聞くぜ」ライカが息を吐く。
輪を渡り切ると、狭い桟道が続いていた。下は砕けた殻片の層で、かすかに黒い靄が湧いては沈む。後方からは微弱な足音のこだま。追手がこの層に入りかけている。
「急げ。長居はまずい」 翠が短く告げ、アズラは壁際に立てられた石簡二枚に目を止めた。埃を払い、走り読みする。 「ここにもあるな……“赤は誓い、藍翠は遺志。影を囮に、光を通せ”」 綺羅が眉を上げる。「前にも聞いた句だね」 「古い避難路の作法だ。門や廊に刻まれる常道。偶然じゃない。ここは“そう通れ”って言ってる」
「理屈は十分」翠が切る。「向こうが来る前に通過する」
前方の闇に、布のような黒幕が垂れていた。風はあるのに揺れない。近づくほど、胸の内側からコッ、コッがこぼれ出す。幕そのものが“聴いて”いる。
「今回の解はさっきの繰り返しじゃ通らないよな?」 ライカが牙を見せる。 「強い拍は残すな。囮にすべて持たせて、俺たちは“薄く通る”」 アズラが導光の印をさらに細く絞る。綺羅は影人形を二つ重ね、拍を大きく立てる。ライカは溝に石を追加で噛ませ、聴石の列を二カ所潰した。
「シバ、尾を下げろ。肩の力も落とせ。――息は細く」 翠の手がシバの手首に触れ、脈を刻む。「その調子。いけ」
囮の影が黒幕の手前でドク、ドクと大きく“鳴る”。幕の内側に、目に見えない吸い込みが生まれ、拍がそちらへ寄っていく。五人は導光の糸を踏み、肩を触れ合うほどの間隔で横一列の“薄い影”になった。
――一歩、二歩。
幕の縁で、アズラの指が震え、導光が一瞬ちりつく。逆拍がこちらを噛もうとして伸び――綺羅の影針がその瞬間だけ囮に繋ぎ直した。
コッ、コッが囮に戻る。
抜けた。黒幕の裏側は、乾いた空気と、石の冷たさ。後ろで囮が潰れる音がし、幕がわずかに波打って静まった。
「――ふぅ……」 ライカが膝に手をつき、笑った。「上出来だろ?」 「“一発で”じゃない。失敗してから立て直した。それがいい」 翠が聴診器を首に戻す。「次は通じないかもしれない、って覚えとけ」
アズラは石簡をもう一度振り返る。「この句、各地の避難路で繰り返し出る。赤は誓い、藍翠は遺志。……進むほど、意味が増えるはずだ」
シバは赤布に手をやり、すぐに離した。(今は頼らない。脚で、仲間で)
遠く、甲冑が擦れるような微かな音が一つ。追手か、あるいは――もっと奥から。
「行こう」 短い合図で、一行はさらに奥へと足を向けた。緊張は解けない。だが、通るべき道は、確かに一本、通った。




