第26章「静かに沈む廊」
聖域の中は静かだった。
足音は石に吸われ、声は少し遅れて返る。冷たい空気に石灰と古い鉄のにおいが混じっている。
「水の匂いがする。遠いけど、どこかで溜まってる」
シバが小声で言う。鼻先がわずかに動いた。
「風向きは合わないのに湿気だけ来る。通路が折れてるな」
アズラが壁目地を指でなぞる。「新しい目地の下に古い線が残ってる。後から塞いだ跡だ」
「正面は囮ってことね」
綺羅が肩をすくめる。
「左が空いてる音だ」
ライカが耳を立てた。「こっちの方が響きが軽い」
五人は肩を触れ合わない間隔で左へ寄る。中央の一枚だけ、石が異様に冷たい。シバが手を当て、力をかける。動かない。
「押すな。縁を引け」
翠が指先で石の角を示す。
ライカが爪先で縁を引くと、砂の重い音がして石が数ミリ浮いた。黒い隙間から冷たい風が抜ける。
「当たりだ。戻りの印を付ける」
アズラが隙間の脇に小さな印を描き、先頭の交代を合図する。
通路は二人並ぶのがやっとの細さ。床の砂が薄く積もり、靴底が軽く鳴る。十数歩で、床色が線を引くように変わった。灰から濃い灰へ。
「待て」
シバが足を止める。「ここだけ粉の匂いが新しい。誰かが触ってる」
アズラがしゃがみ、粉を指でこすった。「石灰だ。固め直して浅い刻みを入れてある。通行の“合図”だな。…罠というより、儀礼の手順を問うタイプ」
床に浅い三つの円。ひとつは欠け、ひとつは重なり、ひとつは薄い。天井の梁にも微かな違いがある。
「まずは音で確かめる」
アズラが顎で合図。ライカが短く吠える。反響は左が遅く、右が軽い。
「右梁に空洞。導気孔だ。こっちから操作する仕掛けがある」
アズラが右梁の小凸部を押し下げる。床の円がうっすらと明滅した――が、すぐ消える。
「外れね」綺羅が苦笑する。「一発クリアは無理か」
「視線の交差も条件だ」
アズラが簡潔に続ける。「碑文建築にある“導光・導気・遮音”の合わせ技だ。見る角度で線が繋がる。位置を入れ替える」
「命令形、雑ね」
綺羅が立ち位置を右へ一歩。ライカは左へ。翠は後ろ、アズラは最後尾、シバは前。
床の円が再び灯り――今度は半分だけ点いたまま止まる。
「あと一つ足りない」
アズラが短く息を吐く。「影を細く。輪郭補正だ。綺羅」
「了解。薄くいく」
綺羅が足元の影を細く伸ばし、円の欠けた部分に重ねる。影縫いの簡易。代償が少ない程度に抑えた使い方だ。
微かなうねり。今度は床の三つが全部点いた。奥の壁が一寸ほど沈む。
同時に、皮膚の裏を撫でるような圧が通り過ぎた。
(……見ている)
シバは首の赤布に触れかけて、手を止める。(今は頼らない)
「これで進めるな」
アズラが灯りを上げる。「ただし長居はするな。ここは“音を殺す”構造だ。呼吸が乱れやすい。四歩で吸って四歩で吐け」
「はいはい。わかりやすいのは助かる」
翠が頷く。「息が上がったら即言え。無理はするな」
開いた隙間の先は広間だった。壁は煤で黒く、床は硬い。香の匂いが薄く漂う。
白い粉で描かれた線が四方の壁から中央へ向かっている。線は中央の黒い円盤で止まっていた。
「導線が集約されてる。参道のような扱いだ」
アズラが円盤の縁を指差す。「ここは“通す”か“閉じる”かを決める板。碑文術の文字は見当たらない。構造式だ」
「つまり、まだ続きがあるってことね」
綺羅が周囲を見回す。「視線の次は、重さ?」
「可能性はある。順番を外すと戻るだけだろうが、兵がいじった跡はない。灰徴兵団はここを破壊して通ってはいない」
アズラは短く断じる。
「誰か、聞いてる感じはするけどな」
ライカが肩をすくめる。耳がピクリと動く。「音の“途切れ”が不自然だ」
(影……か、聖域そのものか)
シバは鼻で空気を切った。遠い水の匂いと、金属を冷やした匂いが、ごく薄く重なっている。
「ここで一度、段取りを決める」
翠が全員を見渡す。「先頭はシバとライカ。アズラが灯りと解析。綺羅は薄く影でマーキング。俺は体調監視と時間管理。三十呼吸で区切る。異常があれば戻る」
「了解」
全員の返事は短い。
まず円盤の周囲を一周。段差、隙間、割れなし。
次に壁面の白線を一本ずつ追う。右の線だけ、足元の石がわずかに浮いている。
「ここに荷重」
アズラが示し、ライカが片足で踏む。ぎし、と鈍い音。円盤の縁がまた一寸だけ沈む。
「次。反対側は軽い荷重で反応しそうだ」
「私が乗る」
綺羅が体重を半分だけ預ける。今度は沈まない。
「じゃあ、軽い方はシバだな」
翠が目で合図する。
シバが指定の石に静かに足を置く。カチ、と乾いた音。
中央の円盤が三寸ほど沈み、奥の壁に縦のすき間があらわれた。冷たい風がこちらへ流れ込む。
その瞬間、耳の奥にノイズが走った。言葉ではなく、意味を持たない圧。心拍が半拍だけ乱れる。
「吸って、四。吐いて、四」
アズラが即座に号令をかける。数拍で乱れは収まった。
「……今の、誰かの“手”だ」
綺羅が目を細める。「直接じゃない。場を叩いてる」
「遠い。だがいる」
ライカが短く唸る。
「結論は同じだ。進む」
翠がまとめる。「ここで止まっても消耗するだけだ」
シバは赤布から手を離し、前を向く。
(光らなくていい。俺は走れる。嗅げる。やれる)
「行こう」
短い一言に、皆が頷いた。
開いたすき間の向こうは、さらに奥へ続く廊。
音は薄いが、足取りは揃っている。
次の仕掛けがあるなら、ここで終わらせる。




