第25章「囁く影」
岩場を抜けた一行は、丘陵の合間に広がる荒れ地に足を踏み入れた。
空はまだ淡く、東の靄が白くかかっている。背後を振り返れば、崩した岩壁が尾根を塞ぎ、追手を寄せつけていないはずだった。
だが、不安は薄れなかった。
「……嫌な匂いがする」
ライカが低く唸った。耳がぴんと立ち、尾が硬直している。
シバも鼻をひくつかせたが、彼女のようには感じ取れない。むしろ胸の奥にざらつく違和感が広がるだけだった。
最初の囁きは、風と見分けがつかなかった。
(……遅い。もう追いつかれる)
耳の奥に溶け込むような声。だが誰も口を開いてはいない。
「……今、聞こえたか?」
シバが眉を寄せる。
「声……だよな」綺羅も肩を抱くようにして周囲を見回した。
次の瞬間、脈拍が跳ね上がる。胸が締めつけられ、息が乱れる。
シバは赤布を掴んだ。だが布は沈黙したまま、ただ冷たく首に絡んでいる。
(光らない……なぜだ? あの時は……!)
翠が手早くシバの手首を取った。「脈が狂ってる。落ち着け、深く息を吐け」
声は冷徹だが、掌の力は確かに支えていた。
——だが、それは全員に及んでいた。
綺羅は地面に膝をつき、震える手を握りしめる。「……置いていかないで」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。幼少の孤独が幻のように蘇っていた。
アズラは額に汗を浮かべ、符を何枚も取り出す。だが墨の筆先が震え、字が崩れる。「……術式が、歪む……」学匠としての自信が削がれ、失敗への恐怖が胸を締めつけていく。
ライカは歯を食いしばった。幻の声が頭に直接流れ込む。「獣人は人に使われるだけ。捨てられる」
彼女の尾が大きく揺れ、今にも吠え出しそうになる。だが狼の耳は、人間には聞き取れない音を掴んでいた。
「……違う、これは風じゃない。鼓動みたいな……歪んだ音だ。一定の間隔で繰り返してる!」
「間隔……干渉の波か!」
アズラの瞳に光が戻る。震える手で新たな符を描き、光の円を描き出した。
「この符を——この波に重ねれば……!」
しかし一度目の展開は失敗した。光は一瞬で弾け、全員の頭痛はさらに強まる。
「くそっ……!」アズラが唇を噛む。
翠は綺羅の肩を支え、呼吸を合わせるように声をかけた。「吸え、吐け……繰り返せ。お前は倒れねぇ」
シバはふらつく足で一歩前に出た。牙を剥き、低く唸る。
(頼れないなら、自分の脚で抗うしかない!)
「次は……俺が合わせる!」
シバが吠え、ライカが耳を立てて間隔を告げる。「次の波は……今だッ!」
アズラの符が光を放ち、綺羅が影を絡め取る。翠の声が脈を整えるように響く。
——三つの力が重なった瞬間、圧迫がふっと薄れた。
風のざわめきの中、囁きは霧散する。
全員が息を吐き、地に膝をついた。
「……やった……のか」ライカの声は掠れていたが、牙を見せて笑っていた。
シバは赤布に触れた。やはり沈黙している。
(光らなくても……俺たちは進める)
拳を握り、立ち上がる。
そのとき、丘陵の奥から風が逆流するように吹きつけた。
岩壁に刻まれた碑文が、ぼんやりと浮かび上がる。
『——門を越えし者、主の影を見よ』
綺羅が震えを抑えきれず、低く呟く。「……聖域が呼んでる」
アズラの瞳は鋭さを増す。「影の主……この先にいる」
沈黙の赤布を首に、シバは前を見据えた。
仲間たちもそれぞれに呼吸を整え、足を踏み出す。
靄の向こう、影が待ち受けている。
彼らの試練は、まだ始まったばかりだった。




