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第20章「東の丘陵を目指して」




灰徴兵団の斥候の残骸を、シバたちは素早く路傍に転がした。血の匂いと戦いの痕跡を残したままにしておけば、追ってきた白衛団の兵がそちらに気を取られる。短い猶予を稼ぐための囮だった。


「急げ。こっちだ」

ライカが低く唸り、林の奥へ駆け出す。彼女の耳は敏感に周囲を探り、尻尾は苔むした獣道を迷いなく指し示す。


苔の張り付いた石畳は途切れ途切れで、やがて獣道に吸い込まれるように続いていた。木々は朝露を纏い、湿った匂いが鼻腔に重くまとわりつく。東の丘陵へ向かう道は、容易なものではなかった。



---


「……ふぅ」

綺羅が額の汗を拭いながら呟く。「さっきの戦い、もう少し長引いてたら危なかったね」

「だから言ったろ。無茶は禁物だ」翠が紫煙を吐き、冷ややかに言葉を落とす。


アズラは歩みを緩め、林の土を指先で擦り取り、匂いと感触を確かめた。

「湿りすぎているな……。東の丘陵は地脈が浅い。碑文術で扱うには格好の場だ。だが同時に、影の連中にとっても好都合かもしれん」

その言葉に、空気が一段と張り詰めた。


「つまり、追っ手が来る可能性は高いってこと?」綺羅が眉をひそめる。

「……耳を澄ませろ」ライカが言った。狼の耳がぴくりと動き、森の奥を射抜くように見つめる。「遠いが……鉄の音だ。隊列の歩調が揃ってる」

「白衛団か、あるいは灰徴兵団の残党か」翠が吐き捨てるように言った。


シバは前を歩きながら、赤布に触れた。今はただの布切れのように沈黙しているが、先の戦いで燃えるように光った感触はまだ手に残っていた。

「……無駄にしたくないな」

その小さな声は、仲間の耳には届かず、林に吸い込まれていった。



---


丘陵へ続く道程は険しかった。崖沿いを抜ける細道では、足を踏み外せば谷へ転落しかねない。

「おいシバ、尻尾気をつけろよ。ふらふらしてたら引っかかるぜ!」ライカが冗談めかして笑う。

「余計なお世話だ」シバは顔をしかめたが、その尻尾はわずかに揺れ、仲間を和ませた。


やがて小川を渡る橋の前で休憩を取った。

「水は冷たいが飲める。腹も洗え」ライカが案内する。

綺羅が手を浸すと、「ひゃっこい!」と声を上げ、思わず笑みを浮かべた。


アズラは水筒を満たしながら、川辺の岩をじっと観察する。

「……ほら、見ろ。この白い筋。丘陵の石英だ。碑文を刻めば光を通しやすい。もし影がここを抑えるつもりなら……封印や召喚に利用される」

「だからこそ、あたしたちが先に辿り着かなきゃならないってわけか」ライカが低く言う。


翠が目を細め、「そのためにも、追跡者には注意しろ。ここで捕まれば全部水の泡だ」と告げた。誰もが頷き、短い休憩を切り上げた。



---


夕刻、東の丘陵手前の平地で野営を張ることになった。

ライカが背中から双剣「牙音」を下ろし、刃を丁寧に拭う。その横顔は戦士というより、家族の遺品を手入れするような静けさを帯びていた。

「……なんだよ、その目は」

綺羅が口を尖らせる。「いや、意外とマメだなって」

「武器は仲間みたいなもんだ。放っときゃ、あたしの命も放っとくようなもんだろ」

そう言って笑う彼女に、綺羅はくすりと笑い返した。

「……なるほど。ちょっと気に入ったかも」


焚き火がぱちぱちと音を立て、炎に照らされた顔が浮かび上がる。

「ライカ、あんた……どうして傭兵なんてやってるの?」

綺羅の問いに、一瞬だけライカの表情が翳った。

「昔な、仲間を守れなかったんだ。あたしのせいで……」

言葉はそこで途切れたが、沈黙が全てを物語っていた。


翠がタバコを火にかざしながら言う。

「なら次は守れ。失敗を繰り返さなきゃいい。それが生き残った奴の責務だ」

ライカは目を細め、やがて「……そうだな」と頷いた。


アズラは火の明かりに筆をかざしながら、低く告げた。

「東の丘陵はただの丘じゃない。碑文師の記録には“赤布の聖域”と記された遺跡が眠っているとある。そこで何が待つかはわからないが……影も同じ記録を追っている可能性は高い」


彼は少し間を置き、火に映る仲間の顔を順に見た。

「聖域の碑文は、ただの封印ではない。光や熱を媒介に術式を増幅する構造が刻まれている。……赤布の力があそこでどう反応するか、私にも読めない」


翠が眉をひそめる。「要するに、危険ってことだな」

「危険であり、同時に手掛かりでもある。赤布の正体を知るためには、あそこを避けては通れない」

アズラの瞳は真剣そのもので、研究者の冷静さと、仲間を思う決意の光を同時に宿していた。


シバは拳を握りしめ、赤布を見下ろした。

「なら、なおさら進むしかないな」



---


夜風が丘陵から流れ込み、草木を揺らした。

「夜明け前には動き出すぞ」シバの低い声が仲間に響く。

「おう、任せろ。あたしの牙音で道を切り拓いてやる」ライカが胸を叩いた。

綺羅は笑みを浮かべ、「頼もしいじゃん。……ね、シバ」

シバは焚き火を見つめたまま、静かに頷いた。


炎の音だけが残り、彼らはそれぞれの思いを胸に眠りへ落ちていった。

東の丘陵の向こうに待つのは、赤布の謎を巡る新たな試練だった。






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