第2章「綺羅 ―盗賊流の影―」
荒野の風は、砂よりも冷たかった。
四足で走り続けていたシバは、ようやく廃墟に足を止める。
かつては村だったのだろう。
砕けた井戸、半ば崩れた家々、焼け焦げた柱。
十年経っても、まだ戦の爪痕は残っていた。
「……水、さえ……」
荒い息を吐き、赤布を結び直す。
藍翠の裂け布は風に揺れ、今にも崩れ落ちそうな屋根の影を撫でた。
――師が残したこの布に、答えが眠っている。
その答えを見つけるまでは、歩みを止めるわけにはいかない。
井戸に近づいた瞬間、耳が動いた。
……気配。
「――やっぱりいたか。赤布の犬」
背後。
いつからそこにいたのか、影がひとつ。
黒ずんだ外套に身を包み、腰には刃を二本。
少女の声は乾いていたが、わずかに笑みを含んでいた。
シバは振り返らず、低く唸った。
「誰だ」
「名乗る必要はないさ。赤布の犬、あんたの噂くらいは盗賊の間でも広まってる」
カツン、と石を蹴る音。
影の少女は月明かりに姿を現した。
短い黒髪、鋭い眼差し。
その手に持つ短剣が、シバの喉元を真っ直ぐ狙っている。
「追手かと思った。だが違うらしい……。なら確かめるしかない。噂通りかどうか――その牙を!」
シバの喉から低い声が漏れる。
「……試す気か」
少女は唇の端を上げた。
「綺羅。盗賊流の綺羅だ。覚えておけ、赤布」
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二人の間に緊張が走る。
綺羅は足元の影に指を走らせ、素早く記号を刻んだ。
黒い光が影に広がる。
――《影縫》
シバの足元から影が伸び、絡め取ろうと迫る。
シバは四足で跳ね退き、赤布が夜気を裂き、藍翠の裾が砂を払った。
「疲れてるんだろ? 逃げ足ばかりで精一杯か」
綺羅の口元に小さな笑み。
「……まだ走れる」
シバは崩れた壁を蹴り、短剣で斬りかかる。
火花が散る。短剣と短剣がぶつかり合い、互いの眼が交錯する。
「へぇ、その目……やっぱり人間の目だな。獣のくせに」
綺羅は舌打ちし、影に溶けた。
「こっちだ、赤布!」
背後。刃が迫る。
シバは裂け布を腕に巻きつけ、そのまま受け止めた。
甲高い音。刺繍が淡く光を返す。
綺羅が目を見開いた。
「布で……受け止めた?」
シバは短く答える。
「……これが俺の護りだ」
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綺羅は短剣を収め、わざとらしく肩を回した。
「盗賊流の影縫。代償は体力。……戦後の荒野じゃこれで十分さ」
指先が小さく震えている。
シバはそれを見逃さなかった。
「代償、か」
低く呟くと、綺羅は鼻で笑った。
「そうさ。術を刻めば刻むほど、体から何かが削られていく。……赤布、あんたも分かってるだろ?」
シバは答えなかった。
だが喉奥に残る疲労の重さが、代償の存在を何より雄弁に物語っていた。
――碑文術は力を借りる代わりに、必ず何かを奪う。
師がそう言っていたことを思い出す。
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綺羅は腰袋を探り、干し肉の切れ端を取り出した。
無造作に放り投げる。
「荒野で一人きりじゃ、腹を満たすのも難しいだろ。……拾うかどうかは、あんた次第だ」
干し肉は砂の上に転がり、赤布の端に触れた。
シバは視線を落とすが、手を伸ばさない。
綺羅はくすりと笑った。
「いいね、その頑固さ。……だが覚えとけ、赤布。荒野じゃ、孤独は長生きの味方にはならない」
そう言い残し、影と共に廃墟の闇へ消えていった。
静寂が戻る。
風が赤と藍翠の布を揺らしていた。
シバはわずかに目を閉じ、心の奥で呟く。
――一人でも、進む。それが俺の旅だ。
月光の下、二色の布が翻る。
旅は再び荒野へと続いていく。
第2章は新キャラ登場です。
シバはこれから沢山のキャラクターと
出会い成長していきます。
冒険譚の続きをお楽しみください。