第12章「咆哮ー赤布の誓いー」
夜は深まり、村を覆う闇はますます濃くなっていた。
戦いが始まって既に半刻──東の空には、まだ夜明けの気配すらない。
疲労がじわじわと仲間たちを蝕み、汗と血と煙の匂いが戦場を満たしていた。
「……来るぞ」
シバの鼻先がぴくりと動く。森の奥から、重く湿った足音が十数重、確かに迫っていた。
広場に陣を敷く村人たちの間に緊張が走る。
「く、来るのか……!」リョウが槍を震わせる。
「怯むな! 孫を守るのは今夜しかねぇ!」ハルじいが剣を掲げ、声を張り上げた。
その声に勇気を得た若者たちが、農具を握る手に力を込める。
次の瞬間、森の闇が形を持った。
黒い人影──「影」だ。
その姿は人型でありながらも輪郭は揺らめき、顔には目も口もなく、ただ深い闇の裂け目だけが穿たれている。
まるで底知れぬ虚無が人の形を借りて立っているかのようだった。
「っ……!」サクラが思わず母の手を強く握る。
「お父さんが帰るまで……頑張るって言ったのに……!」
母は黙って娘を抱き寄せ、震える肩を支える。
影の周囲に横たわる死兵たちが、糸に操られるように立ち上がる。
裂けた傷口から黒い糸が伸び、死人を人形のように動かしていく。
「や、やめろ……!」リョウが槍を振るが、死兵は無言で迫ってきた。
「……吠えろ、シバ」
アズラがかすれた声で呟く。その額には汗が滲み、手にした筆はわずかに震えていた。
柴犬の小さな身体からは想像できない、狼のような遠吠え。
その声は夜を切り裂き、広場全体に響き渡った。
風に翻る赤布が、月明かりを受けて炎のように揺らめく。
その光景に、村人たちは一瞬だけ恐怖を忘れ、胸に熱を宿す。
「……犬、なのに……」
誰かが呟いた。
その姿は確かに柴犬。小柄で、耳は尖り、尻尾は巻いている。
だが今のシバは、ただの犬ではなかった。
赤布を纏い、仲間を導く戦士としてそこに立っていた。
死兵たちが一斉に軋む音を立てる。
影の糸に引かれたその身体は、シバの遠吠えにたじろぎ、一瞬だけ動きを止めた。
「……やるじゃない」
綺羅が息を整えながら、口の端を吊り上げる。
震える刃を握り直し、背を預けられる仲間がいることを実感していた。
アズラは額に汗を浮かべ、筆を杖代わりに立ち上がる。
「光は……闇を恐れない。君の声がそれを証明したな」
その目には、長年碑文を追ってきた学匠らしからぬ熱が宿っていた。
しかし「影」は退かない。
広場の地面に染み込んだ闇がさらに広がり、月光を覆い隠す。
呻き声と共に、倒れたはずの兵士がまた立ち上がり、影に操られてこちらへ迫ってくる。
「クソッ、死んでも立つなんて……!」
リョウが槍を取り落としそうになり、ハルじいが叫んだ。
「怯むな! 村を護るのは今夜しかないんじゃ!」
シバは振り返らない。
ただ赤布を握りしめ、己の誓いを思い出す。
──赤は誓い。藍翠は遺志。
燃え上がるようなその布が、彼の背を押していた。
「俺が必ず……終わらせる!」
咆哮に応じるように赤布が輝きを増し、影を焼く光となる。
死兵たちが苦悶の声をあげて崩れ落ちる一方で、影そのものはさらに濃くなり、裂け目の向こうから異様な気配が漂ってきた。
村人たちは、希望と恐怖の狭間で震えながら、その光景を見つめていた。
戦いはまだ終わらない。
夜明けまでは、まだ遠い。




