第9章「灰に佇む医者」
カザル村は、静かな絶望に覆われていた。
外壁の一部は焼け落ち、畑は踏み荒らされ、瓦礫の間から焦げ臭い匂いが漂う。
子供の泣き声すら遠慮がちで、希望よりも諦めが濃く漂っていた。
綺羅が鼻を鳴らす。
「……ここまでやられて、まだ立ち直ろうとしてるんだ」
アズラは眼鏡を押し上げ、瓦礫の影に座り込む老婆を見やった。
「立ち直るしかないのだろう。生き延びた者には、生きる理由がある」
シバは言葉を飲み込み、ただ尾を低く垂らして歩いた。
風に翻る赤布が灰を巻き上げるたび、村の荒廃が一層際立った。
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村の広場には、粗末な机と血の染みた布が並べられていた。
即席の治療所だ。
「センセイ、こっちです!」
若い娘が叫び、血を流す少年を抱えて駆け込む。
そこに立つ一人の女性――緑川 翠。
咥えタバコをし、乱れた黒髪を後ろでひとつに縛っている。
白衣の袖は肘までまくり、眼鏡の奥の瞳は鋭い。
だが包帯を巻く手つきは驚くほど優しかった。
「死にたいなら勝手に死ね。……ただ、生きたいなら必ず助けてやる」
冷徹なようでいて、その言葉は少年の心を支える力になっていた。
彼女こそ、この村の唯一の拠り所であった。
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シバたちが近づくと、翠の視線が鋭く突き刺さる。
煙を吐き出し、短く問う。
「……あんたら、戦えるのか?」
それは懇願でも期待でもなく、冷徹な確認。
だが瞳の奥には「見捨てたくない」という確かな意志が宿っていた。
綺羅が眉をひそめる。
「なにその態度……助けてやろうってのに、ありがたいも何もないの?」
翠は眼鏡を押し上げ、冷たく言い返す。
「感謝なんて暇はない。村を守れるかどうか、それだけが大事だ」
アズラは目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「……骨がある。信頼に値する人物だ」
シバは無言で赤布を握りしめ、ただ彼女を見つめた。
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治療を終えた翠は、三人を裏手に案内する。
崩れた柵、荒れ果てた畑。
村の惨状を見渡しながら、低く語る。
「私は元々、北の街で医師をしていた。戦争が始まって……故郷のこの村に戻ってきた。
守れなかった命が、まだ胸に残ってる。だからせめて、ここだけは見捨てられない」
口の端でタバコを噛み直し、煙を空へと吐き出す。
その横顔に、疲れと決意が入り混じっていた。
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翠の言葉に合わせて、村の者たちが集まってきた。
「村長の爺さんは元兵士だ。まだ剣くらいは振れる」
白髭の老爺が頷き、背に古びた剣を背負う。
「鍛冶屋の息子は農具を武器に改造してる」
若者が鎌を槍のように削り直し、誇らしげに見せた。
怯えた子供の一人は、シバの尻尾を見て小さな笑みを漏らす。
その一瞬の笑顔が、絶望の中で僅かな希望を灯した。
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翠は地図代わりの地面に線を引いた。
「村の北には小川がある。橋を落とせば敵の進軍を遅らせられる。
東は崖だ、そこに誘い込めば有利に戦える。
西の森は隠れ場所になるが、同時に敵の侵入路にもなる」
視線を鋭くして続ける。
「老人は見張り。女と子供は裏山の洞窟に避難させる。
戦える若者は罠を仕掛けろ。農具でも槍に変えれば十分だ」
綺羅が目を丸くする。
「……医者なのに、戦術まで考えてんの?」
翠は肩をすくめた。
「医者は死なせないために頭を使う。生き延びる方法を考えるのも同じことだ」
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アズラが腕を組み、問いかける。
「敵がいつ来るか、見当は?」
翠は眼鏡を押し上げ、低く答えた。
「偵察兵を見たのが昨夜だ。通常なら今夜か明け方には本隊が来る。
準備できるのは……せいぜい半日」
その場に緊張が走る。
村人たちは顔を見合わせ、武器とも呼べぬ農具を握り締めた。
シバは赤布を翻し、短く言う。
「……間に合えばいい。守るために戦う」
綺羅が舌打ちしながらも笑みを浮かべる。
「ほんっと、融通の利かない犬だね」
アズラは微笑を隠すように眼鏡を直した。
翠はタバコの火を口の端で噛み直しながら、短く言い放った。
「じゃあ決まりだ。ここで迎え撃つ」
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三人と翠の意思が重なった瞬間、
カザル村は絶望の灰の中で、確かな希望を灯し始めていた。




