第8章「影の襲撃」
森は静かすぎた。
谷間に沿った獣道は細く、鬱蒼とした木々が光を遮る。
昼なお薄暗く、岩壁と枝葉が織りなす影が地を覆っていた。
まるで「何かが潜んでいる」と告げているかのようだった。
「……いやな気配ね」
綺羅が低く呟いた。
「昨夜の焔と牙で終わりと思うなよ」
アズラは筆を杖代わりにしながら、視線を走らせる。
「……あれは、まだ序章だ」
シバは赤布を握りしめた。
汗ばんだ掌に布の感触が張りつき、不安を押し込める。
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その瞬間。
木々の影が、形を変えた。
「……赤布の犬」
声は、足元から響いた。
次の瞬間、黒い腕が伸び、シバの足を掴もうと迫る。
「ッ……!」
跳躍でかわしたシバの背後、今度は岩壁の影がうねり、刃のような突起を放つ。
空気が裂け、土が弾けた。
綺羅が叫ぶ。
「影の中を移動してる……! 動きが読めない!」
投げナイフが放たれる。だが黒煙を裂くだけで、実体には届かない。
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「光だ……光で押し返せる!」
アズラが筆を振るい、地面に刻んだ。
《燈文・黎明》
刻まれた碑文が白く輝き、影を弾いた。
呻きのような声が響く。
「……ちっ、面倒な学匠め」
闇が後退し、木々の影が揺らいだ。
だがすぐに再び形を変え、三人を包囲しようと迫る。
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囁き声が落ちた。
「赤布は、呪いだ」
シバの全身に冷たいものが走る。
影が幾重にも重なり、彼を飲み込まんと迫った。
「持つ者すべてを……影に沈める」
「……ふざけるなッ!」
シバは二足に切り替え、赤布を掴んで振り払う。
布が風を裂き、アズラの光と共鳴した瞬間、闇が裂けた。
その光は木々の影まで淡く照らし、影の輪郭を不安定に揺らがせる。
呻き声がさらに深くなり、影が一瞬後退する。
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「光……碑文と赤布の共鳴……なるほど」
綺羅は荒い息をつきながら、状況を分析した。
「……奴は影に縛られてる。光が増えれば存在を保てない」
「……なるほどな」
アズラは震える手を抑えながら頷く。
「だから夜や森の中で襲うのか。長居すれば、弱点を曝すだけ……」
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「光など一瞬。闇は永遠だ……」
影の声が森全体に響いた。
次の瞬間、黒煙が森に散り、気配は霧のように薄れていく。
最後に囁きが残る。
「……次は、もっと深い闇の中で会おう」
影が消えると同時に、森の鳥が一斉に飛び立ち、静寂が戻った。
だが――。
地面には黒い煤のような痕が残されていた。
焦げたように見えるが、触れれば凍るように冷たい。
シバが掌を引っ込めた瞬間、痕は微かに揺らぎ、また土に溶けるように消えていった。
「……消えた、か?」
綺羅が眉をひそめる。
アズラは震える手で筆を握り直し、低く呟いた。
「いや……残滓だ。影の欠片が、この森に染み込んでいる」




