9.裏切りと共鳴
春の夜風が、稲葉山城の櫓を静かになでていた。
その静けさの中、一人の若武者が、慎重に書状を巻き、油紙に包んだ。
灯明を吹き消すと、誰にも見られぬようにそれを袖に隠す。
その名は――稲葉一鉄。
斎藤家に仕える老臣のひとりにして、父譲りの知略と冷静さを併せ持つ武将。
だが彼は、密かに決意していた。
(斎藤義龍殿に、この国は任せられぬ。……道三様の目は確かだった。信長こそが、時代を動かす男だ)
彼の書状は、たった三行だった。
>「尾張の若殿へ。美濃にて火種くすぶる。心ある者は、すでに貴殿の旗を見ている」
>「稲葉一鉄、いつでも応ず」
>「ただし、我が身の露見を避けるため、返答は無用にて候」
文は、夜明け前に間者の手に渡され、尾張へと運ばれた。
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◆ 尾張・清州城
その頃、信長は書院で静かに報告を受けていた。
「……美濃より、密使が一名。名は伏せておりますが、書状の筆跡、文体よりして、稲葉一鉄殿と見て間違いありますまい」
信長は頷いた。
「義龍の下にあっても、目を曇らせぬ者がいる。ならば、戦は避けられる」
それは、剣で刺し違える戦ではなく、内部崩壊を誘う策。
民心を得て、家臣を揺らし、主君を孤立させる――現代で言うなら“組織内シフト”に近い戦略だった。
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◆ 尾張家中の不協和音
一方で、信長の急激な変化に戸惑う者もいた。
特に、古くから仕える佐久間信盛や林秀貞らは、密かに顔を突き合わせていた。
「……おかしいとは思わぬか? あのうつけが、突如として改革者となり、銭を操り、民に慕われ始めておる」
「“殿が別人になった”と、城下でも噂が立っておるぞ。……まさか、憑きものか、呪いか」
「いや、あれは“別の信長”だ。己が道を進む、見知らぬ男になったのだ」
信長の政治手腕は目覚ましい。
だが、それはあまりにも“異質”だった。
旧来の価値観を持つ家臣にとって、理解できず、怖ろしくさえあった。
(いずれ、尾張の中からも“離反者”が出るだろう――)
それは信長自身も、承知の上だった。
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◆ 帰蝶の眼差し
その夜、信長は久々に帰蝶と二人きりで夕餉を取っていた。
灯の揺れる中、帰蝶がふと口を開く。
「……殿は、今のままでいれば、いずれ家中が割れるかと」
「わかっている。……だが、変わるというのは、そういうことだ」
「敵は外ではなく、内に」
「ならば、俺の目で一人ひとり見極めよう」
言葉に迷いはなかった。
そして帰蝶もまた、覚悟を決めるように頷いた。
「では私も、家中の者の目と耳となりましょう。信じられる者、そうでない者……見定めます」
信長は、静かに杯を傾けた。
妻が味方にいる――それが、どれほど心強いかを、このとき初めて実感していた。