8. 心を掴め、城を落とすな
春の風が、尾張の北の境を越えて、美濃の村々へ吹き込んでいた。
山間にはまだ雪が残っているというのに、川沿いの田畑では、早くも農具を手にする者の姿がある。
だが――その顔には、どこか影が落ちていた。
「……斎藤さまのところ、また年貢が上がったそうだ」
「今年も干ばつ続きで、米がろくに採れんのにか?」
「尾張の方では銭で年貢が払えるって噂だぞ。通宝っていう新しい銭が……」
誰ともなく口にする“尾張”の名。それは、かつて見下していた隣国だった。
だが、今やその名は、美濃の民にとって「希望」として響き始めていた。
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◆ 斥候、密かに村へ入る
美濃南部、日野郷。
農村の裏手に、小さな商隊が夜のうちに辿り着いていた。
三頭の荷馬には、米俵と干し芋、それに布と銭――尾張通宝が積まれている。
「尾張からの“贈り物”だ。代わりに聞かせてほしい。領民の様子、年貢の取り立て、斎藤家中の不満……なんでもいい」
そう告げるのは、信長の命で動いている斥候――元は京の市井で生きていた口のうまい男だ。
村の庄屋は戸惑いながらも、俵を見て深く頭を下げた。
「……我ら、あんたらの言葉、忘れません。
尾張の若殿に、願わくば……この村を守ってもらえるよう、伝えてくだされ……」
米と銭、そして信――それが、剣よりも鋭く民の心を切り裂いていた。
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◆ 清州城、報告の夜
「――美濃南部の五つの村、すでに尾張通宝の流通を受け入れ、物資供給に対して“感謝”の使者を送ってきております」
報告する密使の声に、城内の空気が変わる。
柴田勝家が腕を組んで唸った。
「……城を攻めずとも、村が落ちるか。信じがたいことだ」
「落とすのではない、“こちらに来させる”のだ」
信長は静かに告げた。
「兵糧を焼くのではなく、渡す。家を壊すのではなく、直す。
そうして、“この国を預けたい”と思わせることが、最も強い力だ」
それは、戦国においては異端の発想だった。
だが、令和の知識と倫理を持つ信長にとっては、ごく自然な統治の在り方だった。
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◆ 稲葉山城、動揺
一方、斎藤義龍のもとには、重臣たちが次々と報せを持ち込んでいた。
「日野郷にて、商人が尾張の銭を使って米を配ったとのこと……」
「門前村では、百姓たちが“尾張に助けを求めるべき”と……」
義龍は拳を握りしめた。
「信長め……戦わずして、民を奪ってゆくか」
それは、彼にとって最も恐ろしい侵攻だった。
兵ではなく、言葉と物資で領土が揺らぐなど、彼の“武威”の根拠が根底から崩れかねない。
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◆ 信長の決断
その夜、信長は書院でひとり、地図を見つめていた。
(戦なき攻略……これは、まだ始まりにすぎない)
彼の目はすでに、美濃の山を越えて、近江や京都の方角を見ていた。
新しい時代――“武断”ではなく、“理と秩序”によって治められる国を築くための布石。
「この道を行こう。刀で刺すな。心をつかめ」
その独り言は、やがて日本全土に響く“信長流天下布武”の第一声となった。