7. 帰蝶と道三の影
風が、廊下を抜けた。
それは冬を越したばかりの早春の風だった。
柔らかく、どこか寂しげで、過ぎ去ったものを静かに運んでいく。
清州城の奥、女人たちの間に一人の女がいた。
端正な横顔、控えめながら芯の強い眼差し。
その名は――帰蝶。斎藤道三の娘、そして、織田信長の正室である。
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◆ 道三の遺言
帰蝶は、手に一通の古い書状を握っていた。
それは、亡き父・道三から密かに託されたものだった。
>「信長はうつけではない。あれは火薬のような男だ。
> 燃えれば、時代を焼き尽くす火となる。
> ……ゆえに、お前に預ける。
> あれが暴走すれば、止めよ。だが、導けるなら……導け」
その言葉は、いつかの夜、風にまぎれて帰蝶の胸へ刺さったまま、今も抜けずにいた。
(父上……あなたの目は、本当に正しかったのでしょうか?)
昨日までの信長は、確かに“うつけ”だった。
だが、ここ数日で何かが変わった。
鋭くなった目。背筋の伸びた歩き方。家臣への言葉遣い、民へのまなざし。
そして――自ら天下を変えると語った声の重さ。
(あの人はもう、“信長”ではない。あの人は……あの人自身の道を歩き始めている)
帰蝶の胸に、淡く強い決意が生まれていた。
彼女の戦は、刀ではなく、隣に立つことから始まる。
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◆ 美濃、斎藤家
一方、美濃・稲葉山城。
信長の義兄にあたる、斎藤義龍は苛立っていた。
「尾張の信長め……勝手に“通宝”など造りおって、今度は美濃に目を向けておると申すか」
道三を裏切り、家督を奪った義龍。
だが、父の死後、斎藤家はかつての勢いを失い、家中も割れていた。
「それでも奴が来れば、ただでは済むまい」
そう口にした家臣の一人が、怯えたように続ける。
「かの信長、最近では“魔王”の名を囁かれております。銭を操り、商人を従え、火縄銃を量産しているとか……」
「魔王だと? 馬鹿な」
だがその笑いは、明らかに強がりだった。
斎藤義龍は知っている。
父・道三が唯一認めた男。それが、織田信長だったことを――
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◆ 清州、軍議の間
清州城の一室に、重臣たちが集まる。
地図の上に、木駒で表されたのは、美濃・斎藤領。稲葉山城を中心に、砦や峠が並ぶ。
「……斎藤義龍は、内部で不満を抱えている。今が攻め時だ」
信長は言い切った。
「ただし、戦をする前に、まず“民を味方にせよ”。俺は、戦場に兵だけでなく、希望を送る」
「希望……でございますか?」
柴田勝家が眉をひそめる。
「うむ。米だ。干ばつに備えて、尾張から籾と銭を用意し、美濃の村々に密かに届ける。
“尾張に下れば、飯が食える”と、そう思わせるのだ」
戦をする前に、“信長の旗の下にいたほうが得”と民に思わせる。
それは、刃を交えるよりも先に、心を奪う戦術だった。
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◆ そして、帰蝶が動く
その日の夕刻。信長の執務の間に、帰蝶が現れた。
久方ぶりに、正室としての顔を見せた彼女は、静かに頭を下げた。
「殿。……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「美濃を攻めるのは、父の仇を討つためではなく……この国の未来のため、でございますか?」
信長はその問いに、少しだけ口元を緩めた。
「そうだ。だが仇でもある。……この手で、道三の“志”を継ぐ。それもまた、俺の戦だ」
帰蝶は、静かに頷いた。
「ならば、私も参りましょう。美濃にございます旧知の者を訪ね、村々の様子を探ってまいります」
それは、妻としてではない。
斎藤家の娘として、戦国を知る者として――彼女自身の覚悟だった。