6.比叡山と商人の反発
「尾張通宝」――
それは、もとはただの銅にすぎなかった。
だが、それに信長という名が与えられ、年貢という制度と結びつけられたとき、単なる金属片は**“権力の証”**となった。
それが意味するのはただ一つ。
**既存の支配者たちにとっての“脅威”**だった。
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◆ 比叡山・延暦寺
比叡山山中。深い霧がたちこめる本堂に、老僧たちが集まり、火の落ちかけた炉を囲んでいた。
「……信長が、貨幣を鋳造したとな?」
「はい。尾張領内にて“尾張通宝”と称し、領民に配っております。税にも通用するとのことで……民はこぞって用いておるとか」
その言葉に、最年長の僧が鼻を鳴らす。
「ふん、“うつけ”も、ついに悪知恵をつけおったか。武では勝てぬと見て、銭で民を釣るとは……浅ましい」
別の僧が、低い声で言う。
「だが、放っておけばこの尾張銭が、近江にも流れ込むやもしれませぬ。関所での使用、免税、銭蔵まで……。信長は、貨幣を“政治”に変えようとしております」
僧たちの間に、沈黙が落ちた。
延暦寺は、名門の学問寺であると同時に、広大な荘園と門前経済を支配する大権力だった。
銭座もまた、僧侶たちの管理下にある。
貨幣とは、単なる交換手段ではない。**「人を支配する力」**そのものなのだ。
「……信長という男。いずれ、比叡山にも刃を向けてこよう」
「ゆるゆると燃える薪ほど、気づけば家を呑む……。早めに、火を払わねばなりませぬな」
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◆ 堺・会合衆
一方、畿内の商業都市・堺。
ここでは、豪商たちの同盟組織「会合衆」が、巨大な資金力と情報網をもって近畿の物流を制していた。
「尾張に“通宝”……? 面白い真似をする男だ」
ある老商人が、茶を啜りながら呟いた。
「年貢が銭で払えるなど、前代未聞。だが……だからこそ、民は飛びつく」
「それが成功すれば、堺の貨幣流通が乱れます。下手をすれば、関西一円に“尾張通宝”が流通してしまう」
「そうなれば……取引に使う銭が、信長という男の許可なしに成り立たぬということ」
それはつまり――堺が、信長に“頭を下げる”ことになるということだった。
「どう動く? 放っておくか? 交渉か? 排除か……?」
静かな茶室に、じわじわと、緊張が満ちていった。
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◆ 清州城、信長のもとに届く報せ
その夜。信長のもとに、尾張南部を管理する代官からの急報が届いた。
「堺よりの行商人、今月分の銭支払いを拒否。“尾張通宝は信用ならぬ”とのこと……」
それを聞いた信長は、ふっと鼻で笑った。
「信用とは、力で担保されるものだ」
信長は筆を取り、命を記した。
>「尾張通宝を拒む商人には、今後一切の商売を許さず。
> ただし、通宝を受け入れる者には、三年の関税免除を与える」
これは飴と鞭である。
従えば利を与える。拒めば、締め出す。
(強制ではない。だが、選ばせる。答えは……火を見るよりも明らかだ)
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柴田勝家が問う。
「しかし殿……寺社や堺を敵に回しては、我らの立つ瀬が……」
信長は静かに笑った。
「“敵に回す”のではない。“いずれ従わせる”のだ」
そして地図を指さす。
「だがその前に……まず、美濃だ。斎藤家を討たねば、背後が不安定すぎる」
すでに信長の目は、次の戦いへと向いていた。




