5. “通貨”で天下を取る
城に戻った信長は、すぐさま書院に座し、筆と紙を取った。
目の前には白紙の和紙。そこへ、慣れないながらも確かな筆運びで、何かを描き出していく。
それは、丸に十の文字。
銀の縁取りを施した、掌に収まる銅銭の図案。
――後に「尾張通宝」と呼ばれる、新通貨の原案だった。
(重さ、寸法、鋳造方法。……まだ精度は荒いが、必要なのは“信用”と“使う理由”だ)
信長は現代でのキャッシュレス化や、地域通貨の原理を思い出しながら、それを戦国の構造に当てはめようとしていた。
「年貢は、この尾張通宝で納付を認める」
それが第一条件だった。
これだけで、村々の庄屋や農民たちは、その銭を確保しようと動き出す。
さらに――
「城下での買い物に使えば、三分の一の免税とする。市の関所を通る際も、この銭を持つ者は通行料を免除」
つまり、**“尾張通宝を持つ者は得をする”**という構図を作り出す。
使わざるを得ない。誰もがそれを欲しがる。そうなれば流通は自然に広がる。
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◆ 家臣たちの反応
信長の提案は、すぐに重臣たちを集めて披露された。
柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、林秀貞――いずれも顔をしかめ、困惑していた。
「殿……それはつまり、金座をお作りになると……?」
「そうだ。尾張で鋳造する。そして民に配る」
「し、しかし、それは……従来の銭を取り仕切る寺社や、堺の商人たちとの摩擦を……」
「構わん」
信長は、静かに言い切った。
その目に、躊躇はなかった。
「彼らは、貨幣を“自分たちのもの”と思っている。だが違う。銭は、“民”のためにあるべきだ」
家臣たちは沈黙した。
その場には言葉にならない緊張と――どこか震えるような感動が漂っていた。
(……これまでの“信長さま”とは、まるで別人だ)
そう思った者もいただろう。だが、誰もが同じことを感じていた。
この男は、すでに「うつけ」ではない。
何かが、確実に動き出している。
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◆ 民衆の動き
その数日後。
尾張の町には、白く塗られた立て札が立ち始めた。
――「尾張通宝、来月より領内流通を許す。所持者は税の減免を得る」
町の者たちは最初こそ怪しんだ。だが、城の役人が銭を配り、関所での通行料が免除されると分かるや、反応は一変した。
「なんだい、これ使えるんだってよ! 関所、ただで通れるって!」
「おお、村の代官がこれで年貢を納めろって言ってたぞ!」
尾張通宝は、やがて鍛冶屋、魚屋、茶屋にまで流れ込み、日を追うごとに使われる場所が増えていった。
通貨の信頼は、“殿”への信頼と同義だった。
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◆ そして、動き出す外の目
その噂は、ほどなくして京の坊官たちの耳にも届いた。
「尾張のうつけが……銭を造って、領民に配っているそうじゃ」
「ふん、愚かな。やがて失敗するわ。民に通貨など扱えるものか」
だが、その背後では、別の動きが生まれ始めていた。
商人の一部が尾張に支店を出し始め、鉄砲鍛冶が堺から呼ばれ、次第に“尾張”は別の空気に包まれていく。
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夜の帳が落ちた書院。
灯明のもと、信長は地図を見つめながらつぶやいた。
「武ではなく、銭で国を取る。……その先に、真の天下がある」