11.降るは民心、崩れる城
大井口砦が陥落して三日後。
美濃の村々では、すでに空気が変わっていた。
尾張通宝が普通に使われるようになり、米や塩が正規価格で売られる。
尾張軍の兵士たちは略奪も暴力もせず、むしろ耕作を手伝い、病人の看病をする者すらいた。
村の長老たちは、夜ごと囲炉裏を囲んで話し合う。
「……あの若殿は、戦をせぬ。民に手を出さぬ。……ならば、尾張に付いても良いのではないか」
「……ああ。あの人は、きっと“この国を変える”」
かつて“うつけ”と呼ばれた男は、今や“民を救う殿”として語られ始めていた。
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◆ 稲葉一鉄、ついに動く
その夜。稲葉山城の西館にて、稲葉一鉄は側近を集めていた。
彼の顔には迷いはない。
「斎藤義龍殿に忠を尽くしてきた。しかし……民を顧みぬ者に、この国の舵は任せられぬ」
誰も異を唱えなかった。
信長の示した“新しい国の姿”は、すでに家臣の胸にも届いていた。
一鉄は、家臣のひとりに封をした書状を託す。
「清州へ。織田信長公に伝えよ。――我ら、今こそ膝を折る覚悟なりと」
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◆ 稲葉山城、動揺と裂け目
それから数日。
斎藤義龍のもとに届いたのは、信じがたい報せだった。
「稲葉一鉄が……裏切った、と?」
「しかも、砦を明け渡し、領民ごと尾張へ引き渡したとのことです……」
義龍は、拳を震わせながら机を叩いた。
「この裏切り者どもが……!」
だが、それは始まりにすぎなかった。
翌日には安藤守就が、さらにその翌日には氏家直元が、相次いで信長への“帰順”を表明。
戦を経ずして、美濃の防衛線は――音を立てて崩れていった。
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◆ 清州、信長のもとに使者が届く
「美濃三将より、連名にて書状が。
“もはや抗う理由なし。民のため、我らも殿の天下布武に従う”とのことです」
信長は、深く息をついた。
(これが、“武に頼らぬ勝利”)
砦を焦がすことなく、城を包囲することなく、民を殺すことなく――
敵国を、まるごと“味方”に変えた。
“戦わずして勝つ”
それは古今東西の理想であり、信長にとっての“本気の実験”でもあった。
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◆ 美濃・帰蝶の涙
清州の中庭。
春の風が、咲き始めた花の香りを運んでくる。
帰蝶は、一人静かに目を閉じた。
「……美濃が、尾張になったのですね」
「いや、“俺の国”になったんだ」
そう言う信長の声に、帰蝶はふと涙を浮かべた。
「父上が見た未来が、今、やっと……本当に、動き出したのですね」
信長は無言で頷く。
この瞬間、“うつけ”織田信長は完全に死に、天下を見据える“時代の革新者”が誕生した。




