10.火薬の雨と雷
夜の清州城に、静かな緊張が漂っていた。
天守にほど近い一室では、信長とごく限られた側近たちが顔を揃えていた。
地図の上には、赤と黒で印をつけた美濃の砦群と村々。
その中央に――稲葉山城。
信長は、ろうそくの灯りで揺れる地図を指先でなぞる。
「火をつける。だが、燃やし尽くすのではない。“火を見せて降らせる”」
柴田勝家が眉をひそめた。
「開戦、でございますか」
「一部だけだ。“一撃”でいい。兵糧も人も最小限。――だが、確実に揺らす」
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◆ 鉄砲隊、出陣の刻
信長はこの日のために、鉄砲を百丁近く揃えていた。
堺からの買い付けと、尾張鍛冶の模倣。
従来の“狙撃用”ではなく、“隊列運用”に最適化された実戦配備。
三段撃ちではない――連携・交代・集中射撃という、現代で言えば“小隊支援火力”の発想に近い布陣。
「撃つな。……撃つまで、絶対に姿を見せるな。
敵が先に声を上げ、踏み込んできたら、その瞬間に“全員で撃て”。一秒の差が、命の差だ」
百人の銃兵たちは無言で頷いた。
彼らは農民上がり、足軽崩れ、浪人。だが信長は彼らに教育を施し、“戦いを技術で制す”方法を叩き込んでいた。
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◆ 美濃・境目の砦にて
信長軍は、まず美濃との国境にある小さな砦――大井口を標的とした。
そこは大規模な守りもなく、義龍からの支援も途絶えている拠点。
開戦の夜、砦の兵は、まさか尾張軍がこの地を狙うとは思っていなかった。
闇の中で、銃兵が伏せる。
火縄に火が灯され、湿った空気に火薬の匂いが広がる。
沈黙――そして、
「敵襲――ッ!」
その声が砦に響いた瞬間、信長は合図を下ろした。
「――撃て」
パンッ! パンッ! パパパパパン!
音が夜を切り裂いた。
黒煙と火光が、地面から空へと跳ね上がる。
矢でも槍でもなく、**音と閃光と破壊の“雨”**が降り注ぐ。
砦の守将は即座に判断を誤った。
「こ、これは大軍の襲来だ! 退け、退けえええ!」
戦う前に、砦の兵たちは砦を捨てて逃げ出した。
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◆ 信長、砦を焼かず、守る
勝ちどきを上げる兵たちを抑え、信長は命じた。
「砦は焼くな。占拠して旗を立てよ。そして、村に使者を出せ。
“この砦に入ったのは、ただの通商と民政の使者である”とな」
柴田勝家が言葉を失った。
「……敵陣を取って、“使者”と申されるか」
「そうだ。火薬は恐怖を刻むため。だが俺の本意は、服属と交易の申し出だ」
戦の勝利ではない。信長が狙っていたのは――和平の選択肢を民に“見せつける”ことだった。
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◆ 稲葉山城、動揺広がる
砦落城の報せは、稲葉山城に冷たい風のように届いた。
「大井口が……落ちたと……?」
斎藤義龍は、顔を紅潮させて立ち上がる。
「しかも、民には“通商の使者”と言っておると聞く。これは、我らを戦に誘いながらも、“自らが被害者である”と装う計略――!」
だが、家臣たちの間には迷いがあった。
これ以上争えば、村が焼かれ、民が傷つく。
だが尾張に下れば、食える、治まる――そう考える者も出始めていた。
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◆ 信長、つぶやく
戦が終わった夜、信長は砦の天守に立っていた。
月明かりの下、彼はぽつりと呟く。
「……この一撃が、“雷”となって、稲葉山の根を断つ」
火薬の雨は終わった。
だが、信長が本当に落とそうとしているのは――
城でも兵でもない、“この国の古い仕組み”だった。




