2.渇望
日が沈み、夜が来る、そして真夜中。
恋人である美香子からの着信は、一度も無かった。
暗い部屋で踞り、ついに男は携帯電話のメモリーにある恋人の番号を押した。
プルルルルとコール音が八回鳴った。
少しの間の後、眠りを妨げられた美香子の不機嫌そうな声が、電話口から聞こえる。
男は、ただ救いを求めたかった。
だが美香子からは望む言葉はなく、代わりに彼女の罵る声だけが電話から流れた。
不意に、電話の向こう側――美香子の後ろから、男の声が聞こえる。
名前と顔が一致しない同僚の男の声だった。
そして電話が切られた。
初めは裏切りへの怒り、次に支えを失った恐怖。
二つの感情が折り重なり、男の精神を塗りつぶしていく。
なぜ俺なのだ……。
何度も、自身にそう問いかけてみても答えはでない。
喉の渇きはさらに激しくなる。
それに合わせて身体の変化も進んでいった。
渇きと息苦しさに耐えられず、男はバスルームの浴槽に水を張って、身体を沈めた。
窓の外ではまた日が昇り、そして沈む。
その繰り返しを、男は水の中で過ごした。
どのくらい時間がたったのだろう。
耳障りな携帯電話は、水の底に沈めてしまった。
水の中で、男は膝を抱えていた。
何度目かの絶望の後、自らが何に変わりつつあるのか……男は理解した。
ああ、……もうすぐ俺は人ではなくなる。
そして、一匹の哀れな生き物に変わるのだ。
哀れ…と、もう一度思った時、男は自虐的な笑みを浮かべる。
いったい何が違うというのだ……。
追い立てられるようにこの街で暮らす俺と、これから俺が変化する生き物。
どちらもつまらない生き物に思えた。
いったいなにが違うのだ……。
男は自らの運命を受け入れた。
だが、一つだけ我慢ができないことがある
狭い浴槽と塩素の混じった水。
それがひどく男の神経を苛立たせるのだ。
この浴槽の中で変化を終えることは、どうしても我慢ができなかった。
大きな水の中で……自由に泳ぎたい……。
男は、そう望んだ。
たとえ自然の摂理で大魚に食べられたとしても、大きな世界で自由に泳ぎたい。
それがほんの一時だとしても……。
男は欲した。
それは彼がこの街で初めて抱いた、渇望だった。
彼が求めた世界。
それは……一つの池だ。
この街から遠く離れた男の生まれ故郷……そこには大きな池があった。
「ああ……俺の求めるものがあるじゃないか」
男は記憶の中に救いを求めた。
そして記憶の池を目指すため、彼はこの街を出ることにした。
明日で終わります。